新義(しんぎ)真言宗智積(ちしゃく)院の末寺で、延暦21年(802)紹継(しょうけい)法師によって創建され、はじめは天台宗延暦寺に属していたが、のち荒廃し、一条天皇の御代(986~1011)伊予守佐伯公行(いよのかみさえききんゆき)が再興して、長徳2年(996)勅願寺となった。 大治4年(1129)火災にかかり、再建後安元2年(1176)六條天皇を、養和元年(1181)高倉天皇をそれぞれ寺内に葬った。 応仁の乱で焼亡した後、慶長年間(1596~1614)紀州根来(ねごろ)寺の性盛(しょうせい)が復興した。 しかし、かつての法華三昧堂(ほっけざんまいどう)や宝塔などのならんだ偉観はなく、今はわずかに本尊十一面観音像を安置する本堂一宇があるのみである。 背後の山に六条・高倉天皇陵があり、その傍らに小督局(こごうのつぼね)墓という宝筐印塔(ほうきょういんとう)がある。 高倉天皇の寵姫小督局は、平清盛に追われて当寺に入って尼となり、養和元年(281)21歳で世を去った。 また境内にある郭公亭(かっこうてい)は安政5年(1858)清水寺成就院の日照上人が、西郷隆盛と密かに会合して、都落ちの計画をたてた有名な茶室である。
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迎称寺
盛光院
悲田院
善能寺
光雲寺
霊芝山(れいしざん)と号し、臨済宗南禅寺派に属する。 南禅寺北ノ坊とも呼ばれる。 もと摂津(大阪府)にあったが、寛文年間(1661年頃)後水尾天皇及び中宮東福門院(徳川家康の孫娘和子)が南禅寺の英中禅師に深く帰依され、当寺をこの地に移して再興された。 本尊には、東福門院(とうふくもんいん)の釈迦如来と観音菩薩を賜って安置した。 歴代皇室の尊崇あつく、元久邇(くにの)宮家の菩提所となっている。 もと境内は広大であったが、火災に遭い、また明治の初めの変革により縮小された。 本堂には、本尊のほか左右に阿難(あなん)、迦葉(かしょう)の二尊者東福門院の坐像を安置する。 書院南の庭園は、昭和の初め造園家小川治兵衛が作庭した。 疏水の水を引き、背景の山を借景とした池泉廻遊式の名園となった。 朝鮮伝来の碼碯(めのう)の手洗鉢が庭の東北隅にあって有名である。 寺の背後には後水尾天皇々女顕子内親王の墓、門前北には久邇宮家の墓がある。
法音院
寂光寺(囲碁本因坊の寺)
妙泉山(みょうせんざん)と号する顕本(けんぽん)法華宗の寺院である。 寺伝によれば、天正六年(1578)に日淵(にちえん)上人により創建され、はじめ久遠院(くおんいん)と号し、室町出水(上京区)にあったが、後に寺町二条(中京区)、更に宝永五年(1708)にこの地に移った。 当寺二世の日海(にっかい)は、寺内塔頭の本因坊に住み、本因坊算砂(さんさ)と号した。 算砂は、碁技を仙也(せんや)に学び、当時敵手なく、織田信長から「名人」の名を贈られた。次いで、豊臣秀吉、徳川家康に碁を教え、以後、本因坊の名称は、碁界家元の地位を持ち、技量卓抜な者が襲名継承することとなった。 二世算悦(さんえつ)、三世道(どう)悦(えつ)を経て四世道策(どうさく)の時、本因坊は当寺から江戸に移った。 寺内には、本因坊の算砂、算悦、道悦の墓があり、寺宝として、算砂の画像や近衛関白家より拝領の唐桑(からくわ)の碁盤等を蔵している。