法性寺

大悲山一音院(だいひざんいっとんいん)法性寺と号する浄土宗西山派の尼寺である。 当地は、延長三年(924)、藤原忠平(ただひら)が公家恒例被行脚読経の寺として建立した寺院(旧法性寺)があった所である。旧法性寺は、創建後も藤原家の氏寺として栄え、藤原忠通(ただみち)(法性寺入道)の時には、広大な寺域に大伽藍を構え、京洛二一ケ寺の一刹に数えられていた。 しかし、以後の兵火により、堂宇は悉く焼失してしまった。 当寺は、明治維新以後、旧名を継いで再建されたもので、本堂に安置する千手観世音菩薩像(国宝)は、旧法性寺の潅頂堂(かんちょうどう)の本尊と伝えられ、「厄除観世音」の名で知られている。

正伝永源院

当院は建仁寺の塔頭寺院の一つで、建仁寺39世無涯和尚が創建し、もと永源庵と称したが、明治6年(1873)廃寺となったため祇園にあった正伝院を此の地へ移し、のち「永源」の名を受けつぎ、いまの名に改めた。 釈迦如来を本尊とし、客殿・庫裡(くり)・鐘楼・唐門のほか、正門の左手に織田有樂斎らの墓がある。 寺宝には有樂斎に関する遺品が多い。 有樂斎は織田信長の弟で、長益と号した。 信長の死後、剃髪し、千利休に師事して茶道の宗匠となった。 晩年は祇園花見小路四条下ルに「正伝院」を再興し、そこで茶道三昧の生活を送ったが元和7年(1621)70才で没した。 有樂斎の墓は正伝院の移転後も旧地に残っていたが、昭和37年秋、有樂斎夫人・息女・孫織田長好の3基とともにここに移された。 現在各地に有樂流の茶道が受けつがれている。

即成院(那須与一さん)

山号を光明(こうみょう)山(ざん)とする真言宗泉涌(せんにゅう)寺派の寺である。 寺伝によれば、正暦(しょうりゃく)三年(九九二)、恵(え)心(しん)僧都(そうづ)(源信(げんしん))により伏見(宇治川北岸)に建立された光明院を起源とする。 寛(かん)治(じ)年間(一〇八七~一〇九四)に橘(たちばなの)俊(とし)綱(つな)(藤原頼通(よりみち)の子)が山荘を造営するにあたり、光明院を持仏堂として傍らに移設し、後に山荘を寺院と改めてからは伏見寺または即成就院と呼ばれていた。 宇治川を挟んで向かい側には父、藤原頼通の宇治殿改め平等院が建っており、父子相呼応するような寺院建立の経緯である。 文(ぶん)禄(ろく)三年(一五九四)、豊臣秀吉の伏見築城のため、深草大亀谷に移転し、さらに明治時代に至って泉涌寺山内に再興され、即成院と呼ばれるようになった。 本堂には、仏像群としての形式は極めて珍しい阿弥陀如来像並びに二十五菩薩像(重要文化財)が安置され、境内には平安時代の武将であり、弓の名手であった那須与一(なすのよいち)の墓と伝えられる石造宝塔がある。 寺伝によれば、与一は出陣する途中、病に罹(かか)ったが当院に参籠し、本尊阿弥陀如来の霊験で平癒し、屋島の戦い(源平の戦い)で戦功をたてたので、仏徳に感じて出家し当院に庵をむすび、一生を終えたと伝えられている。 木造阿弥陀如来及二十五菩薩坐像 泉涌寺塔頭の即成院にある平安時代から江戸時代にかけて作られた重要文化財彫刻。 本堂内丈六の阿弥陀如来像を中心に、半等身の二十五菩薩像を左右に配し、阿弥陀如来が二十五菩薩を率いて極楽浄土から来迎する様子を現したもの。 二十五菩薩像のうち十一体は平安時代の作、他は江戸時代の補作である。

安祥院(日限さん)

安祥院の地蔵堂に安置する地蔵尊を「日限さん」と称し、日を限って祈願すれば諸願成就するという信仰がある。 ちなみに当院はもと乙訓郡にあったが、1725年(享保10)木食正禅養阿上人がこの地に再興されたという。 本堂の阿弥陀如来は京都六阿弥陀の1つ。浄土宗。 境内にある山桜は平成16年3月に京都市の保存樹に指定される。

来迎院

泉涌寺塔頭。 空海(弘法大師)の創建と伝え、わが国最古の荒神坐像(重文)をまつる。 又護法神立像5体(重文)は京都国立博物館に管理を委託している。 本尊は阿弥陀如来。 浪人中の大石良雄が名水のわくのを喜び建立した茶室含翠軒がある。 扁額「含翠」は良雄筆。庭園含翠庭は、池泉回遊式。 大石の念持仏勝軍地蔵菩薩像ほか遺品を多数所蔵。