華嶽山東北寺(かがくざんとうぼくじ)誠心院と号する真言宗泉涌寺派の寺で、通称和泉式部(いずみしきぶ)の名で知られている。 寺伝によれば、関白藤原道長が、女(むすめ)の上東門院(藤原彰子(しょうし))に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当寺の起こりといわれている。 当所、御所の東側にあったが、その後一条小川(上京区)に再建され、さらに天正年間(1573~91)この地に移された。 和泉式部は、平安時代の代表的な女流歌人で、才色兼備で知られ、代々の勅撰集におさめられている和歌は247首に及んでいる。 本堂は小御堂(こみどう)と呼ばれ、道内には、本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置している。 境内には、式部の墓と伝える宝篋印塔及び式部の歌碑が建てられている。 また、傍らの梅の木は、式部が生前愛木した「軒端(のきば)の梅」に因んで、後に植えられたものである。
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平等寺(因幡薬師)
この寺の起りは、「因幡堂縁起(いなばどうえんぎ)」(現東京国立博物館蔵)にくわしい。 すなわち、長徳3年(997)因幡国司橘行平が、任終って帰洛の途中、夢告によって因幡賀留津(いなばかるつ)の海中から一体の薬師如来像をひきあげ、仮堂に安置しておいたが、薬師は行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)行平は自宅を改造してこれをまつったという。 この霊験談はひろく親しまれ、歴代天皇はじめ一般庶民の深い信仰をうけ、承安元年(1171)には高倉天皇により平等寺と命名された。 しかし堂舎はたびたび火災にかかり寺地も次第に小さくなったが、明治初年再建の現本堂には、たび重なる火災にもかかわらずよく伝えられてきた本尊薬師如来立像を安置している。 藤原時代、一木作りの優品で重要文化財に指定されている。 嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つにかぞえられ、ことのほか信仰されている。 ◆由緒 長徳3年(997)因幡(現在の鳥取県)国司橘行平が、任を終えて帰京の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津(いなばがるつ)の海中から引き揚げ、安置しておいた薬師如来像が行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられている。この霊験談は広く親しまれ、歴代天皇をはじめ一般庶民の深い信仰を受け、承安元年(1171)には高倉天皇により平等寺と命名された。 なお、この寺の起こりは、「因幡堂縁起」(東京国立博物館蔵)に詳しく書かれている。 堂舎は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初年(1868)に再建された現本堂には、度重なる火災にもかかわらず伝えられてきた本尊薬師如来立像が安置されている。この薬師如来立像は藤原時代の一木作りの優品で、重要文化財に指定されている。嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つに数えられ、ことのほか信仰されている。
空也寺
法輪寺(達磨寺)
この寺は、臨済宗妙心寺派に属し、達磨寺の名で親しまれており、享保12年(1727)大愚和尚を開山とし、開基荒木宗禎に帰依を受けた万海和尚が創立した。 十六羅漢木像、徳川時代の鋳匠藤原国次作の妙音の弁天鐘、珍しい等身の金箔大寝釈迦木像や、白隠禅師の夜船閑話で知られた白幽子の旧墓石がある。 三国一を称する起上り達磨をはじめ、諸願成就に奉納された達磨およそ八千余をまつる達磨堂は特に有名で、節分は参詣者でにぎわう。 本堂には、わが国映画創業以来の関係者四百余霊がまつられる貴寧磨(きねま)寺や、島津源蔵夫妻の念持仏をまつる学神堂等がある。 達磨竹の逆さ竹を中心に印度・中国産の竹の珍種も繁茂し、本堂の東側には禅の悟りの段階を示す十牛の庭、南側に白砂の上に苔で心字を描き出したユニークな庭がある。 ◆だるま寺〔法輪寺〕の略縁起 この寺は洛陽円町、北野天神ゆかりの紙屋川畔にある。臨済宗妙心寺派の名刹であり、通称「だるま寺」の名で親しまれている。 享保13年(1718)大愚宗築禅師を開山とし、荒木光品宗禎居士が開基となり、万海慈源和尚が創建したものである。創建には十年の歳月を要したといわれている。開基の荒木氏は両替商であり、武家の開基になる寺院の多い妙心寺派にあっては異色の禅刹である。 爾来、春秋260年、三度の天災地変に遇い、寺運もまた盛衰があった。しかし近代にいたり、昭和8年第十代伊山和尚を迎えるや、檀信徒の帰崇を一身に集め、大書院の建立が成った。伊山和尚は三十七歳の時に、名著『白隠和尚全集』を刊行し、白隠の名とともに伊山和尚の名は江湖に響きわたった。また和尚はつとに起き上がり達磨禅を鼓吹して、得意の文筆と長広舌とによって、起き上がり小法師をもって、禅の大衆化、生活化をはかった。 戦後、起き上がり達磨堂を建て、達磨節分会をはじめ、少林寺拳法道場を開いた。かくして、だるま寺(法輪寺)の名は洛陽に高く、日本中に普及してきた。 当寺は市街地にありながら、五千平方メートルの境内に創建当初の姿を残す本堂を中心に諸堂の甍がそびえている。三国最初随一の起き上がり達磨堂、朱塗に輝く衆聖堂、活眼達磨型煉瓦が天にそびえる大本堂、拳法道場などの建物がある。 毎年二月の節分には数万人の参詣者でにぎわい、一山はことごとく達磨で埋まる。諸願成就、厄除開運、疾病速消の縁起達磨が授与されているのは同寺だけである。 ありがたや だるまも石も 苔むして ◆起上(おきあがり)達磨の由来 インドから中国へ禅を伝え、禅宗の初祖となった達磨大師は、今日、日本では「だるまさん」として親しまれ、子供にいたるまで知らぬものはない。 達磨大師は西暦527年、インドから海路3年かかって中国に渡られた。そして当時仏心天子とたたえられていた梁の武帝を「無功徳」と喝破し、揚子江を渡り崇山の少林寺に去って、この地で面壁九年、手も足もなくなり、尻も腐ったと世間が評判するほどの忍苦の修行をなされ、禅宗の開祖となられたのである。 積極和朗の気に富む日本の国民性は、この達磨大師の忍苦の精神を慕い、貧禍疫病を転じ福寿を得んとの願いから、ついにこの静的坐禅の面壁達磨を動的七転八起の起き上がり達磨に姿を変え、日本独特の達磨に発展させたのである。 ここにおいて達磨大師は、仏壇や寺院から十字街頭に進出し、子供のためには玩具となり、大人のためには厄除縁起の神となり、千変万化して天真流露の活躍をすることとなった。 「七転八起」とは、倒れても自力で起き上がる力である。転んだ力の大きさで起き上がり、無抵抗の力で、苦にもめげず楽にもおごらない、一貫した忍苦の人間生活のシンボルが、起き上がり達磨の本質である。達磨寺は、この起き上がり達磨運動の根本道場である。 天竺の達磨老大師 日本の起き上がり小法師 彼にあっては、堂々、七宗を伏し 我にあっては、転輾、孩児を駭かす (白隠禅師) ◆本堂 単層、入母家、瓦葺、九六の本堂といわれ、広さおよそ百坪。享保3年(1718)の創建。3力年かけて初めて解体修理をして樫の名木でみごとに復元、昭和58年4月吉日落慶した。本堂前椽正面壁間高く「転法輪」の山額が掲げられる。当時の琉球中山国円覚寺世代の月羅山和尚の名筆である。車の輪が廻るように、仏法を説いて止めてはならぬ。仏法を行じて絶えてはならぬ。法輪寺建立の精神がここに書いてある。 ◆仏涅槃木像 金箔等身蓮上聡耳の木像。時代は桃山、4百余年前の作といわれる。仏頭、仏顔、仏身、仏足に触れてわが身を按ずると智慧と徳相と寿命とを得ると尊崇がきわめて深い。 ◆衆聖堂 山田無文老師の命名である。階上には仏涅槃木像などと共にキネマ殿(尾上松之助、牧野省三、大河内伝次郎、阪東三津五郎、望月優子、田中絹代の各氏はじめ、映画人6百有余霊を祀る)。階下には樟一本造り大達磨立像、十六羅漢木像、千変万化する達磨の諸相八千体などを奉安する。 ◆達磨天井画(樋口文勝老師画) 戦後世に達磨三福人とたたえられるは、蒐集して日本一は木戸忠太郎翁。説法して日本一は先住伊山和尚。画いて多数日本一は樋口文勝老師である。この天井画は老師83歳時の筆。賛は無文老大師が「不倒」と雄渾に書かれている。 ◆起き上がり達磨五訓 一、きはながく こころはまるく はらをたてずに ひとはおおきく おのれはちいさく 二、文句なしただ七転び八起して働くほかに手なし足なし。 三、働くはハタを楽にし己が苦を、苦にせず人の動く姿ぞ。 四、叩かれて内にふくれる達磨かな。 五、日の本の女性のかがみ姫達磨、内強うして眉目うるわしく。 洛陽大宝山法輪寺 (起上達磨寺) 願首比丘 弗云窟 大義拝願 ◆由緒 臨済宗妙心寺派に属し、三国随一といわれる起上り達磨をはじめ、心願成就を祈って奉納された八千余もの達磨をまつる達磨堂に祀っていることから、達磨寺の名で親しまれている。 江戸時代の享保12年(1727)に萬海和尚が創立したといわれ、珍しい等身大の寝釈迦木像、十六羅漢木像、徳川時代の鋳匠藤原国次作の妙音の弁天鐘、白隠禅師の「夜船閑話」で有名な京都の白川山中で数百年生きた仙人とされる白幽子の旧墓石などがある。 本堂には、我が国映画創業以来の関係者四百余霊が祀られる貴寧磨(きねま)殿や、島津源蔵(島津製作所の創業者)夫妻の念持仏を祀る学神堂等がある。 また、本堂の南側には禅の悟りの境地を示す無尽庭がある。
八坂神社大政所御旅所
本満寺
日蓮宗本山。1410年(応永17)近衛関白道嗣の嫡子、玉洞妙院日秀が今出川新町に朝廷より敷地三万坪を与えられて創建。 広宣流布山、本願満足寺と号す。 1536年(天文5)の天文法華の乱後、12世日重の代、1539年(天文8)関白近衛尚道の外護により現在の地に移り、後奈良天皇の勅願所となる。 1751年(宝暦1)35世日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈り、以来、将軍家の祈願所ともなった。 本尊は十界大曼陀羅。 又、尚道奉安の祖師像は、芹生村山麓禄より発見されたものでその山中より法華経読誦の声が上がったという有名な説がある。 境内墓地には山中鹿之介の墓、本堂脇には徳川家康二男秀康の正室、蓮乗院の石廟がある。 伝太子筆紺紙 金泥一字宝塔法華経並普賢経は重要文化財。 宗祖日蓮大聖人真蹟十界大曼荼羅御本尊ニ幅、狩野元信筆の祖師像はじめ寺宝多数。 尚、重要文化財は京都博物館 預け。
瑞泉寺
慈舟山(じしゅうざん)と号し、浄土宗に属する。豊臣秀吉の甥、豊臣秀次(ひでつぐ)の菩提を弔うために建立された寺である。 秀次は、秀吉の養子となり、関白の位を継いでいたが、秀吉に嫡男秀頼が生まれてからは、次第に疎んぜられ、文禄4年(1595)7月、高野山において自害させられた。 次いで、8月、秀次の幼児、妻、妾たち39人が当寺の近くの三条河原で死刑に処せられた。 遺骸は、その場に埋葬され、塚が築かれ石塔が建てられていたが、その後の鴨川の氾濫などにより次第に荒廃した。 慶長16年(1611)角倉了以(すみのくらりょうい)が、高瀬川の開削中にこの墓石を発掘し、当地に移し塚を再建して堂宇を建立した。 これが当寺の起りで、僧桂叔(けいしゅく)を開墓とし、寺号は、秀次の法号、瑞泉寺殿をとって瑞泉寺と名付けられた。 本堂には、本尊阿弥陀如来像を安置し、寺宝としては、秀次及び妻、妾らの辞世の和歌を蔵している。 境内には、妻、妾たちの墓及び犠牲者49人の五輪塔がある。 ◆由緒 1611年(慶長16)角倉了以が豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立した寺。浄土宗西山禅林寺派。 豊臣秀吉から関白の位を譲られ聚楽第に住した秀次が、謀反の疑いをかけられて1595年(文禄4)に高野山で自刃させられた後、その子供5名と妻妾34名の計39名の一族が三条河原の南西詰めで処刑された。 瑞泉寺に伝わる絵縁起によれば、一族の遺骸を埋葬した処刑場の地には大きな塚が築かれ、塚の頂上には秀次の首を納め「秀次悪逆塚」と刻した石塔を据えて往来人への見せしめにしたと云う。 16年後、角倉了以が高瀬川の開削の際に荒廃した塚と石塔を発見して大層に心を痛め、僧桂叔と相談、碑面から「悪逆」の2字を削り新たに墓域を整備して墓碑を立て側に一宇を建立し慈舟山瑞泉寺と号した。 境内の西南隅にその墓域が見られる。本堂に了以と長男の角倉素庵の像を安置する。
本能寺
法華宗本門流の大本山で、応永22年(1415)、日隆上人によって創建された。 当初は本応寺と称していたが、永享5年(1433)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、更に天文14年(1545)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。 本寺は、天正10年(1582)、織田信長が明智光秀によって襲撃(本能寺の変)され、自刃したところとして世に名高いが、その折、30余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。 その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年(1589)、現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、現在の本堂は昭和3年(1928)に再建されたものである。 寺宝には、花園天皇宸翰、伝藤原行成筆の書巻等の貴重な逸品を蔵し、境内には、織田信長及びその側近達の供養塔、並びに江戸時代後期の南画家浦上玉堂父子の墓などがある。
紫雲山頂法寺(六角堂)
聖徳太子が建立した古刹で、西国三十三所第18番札所。 本尊は如意輪観世音菩薩で、本堂が六角形を成していることから六角堂といわれる。 現在の建物は1877年(明治10)の再建。 京都の中心と言われる「へそ石」は本堂前にある。 いけばな発祥の地でもあり、「華道家元 池坊」として知られている。 ここでは、華道関係の資料が展示されたいけばな資料館の見学ができる。 ◆由緒 草創 用明天皇二年(587)聖徳太子建立 太子 大阪四天王子建立のため用材を求めてこの地の入られた時 夢に霊告をうけ杉の大樹によって六稜の堂を建て自らの護持仏をここに安置された 本邦 伽藍建立の最初であるところから頂法寺という 天治二年初めて炎上其後度々類焼し寛永十八年の再建には朝廷より陣座御殿の御寄付を得て本堂 山門 築地等を復興した 今の御堂は明治九年に再建 創建以来1400余年 本尊 如意輪観世音菩薩(閻浮檀金 御丈一寸八分) 聖徳太子の護持仏で六角堂建立の後は 本尊として祀り其の守護を小野妹子大臣に命ぜられたと伝える 妹子は入道して専務といい太子沐浴の池のかたわらに坊を営んだので坊号を池坊という 以来子孫が当寺住職として守護し今日に至っている 本尊脇仏には木像地蔵菩薩像 毘沙門天立像(藤原時代作 重要文化財)等を安置する 西国霊場 長徳二年(996)正月 花山法皇 当寺に行幸される これが西国巡礼の始めで 当寺は現在西国第十八番の霊場である また後冷泉天皇諸国の大寺に仏舎利一粒ずつを納められるにあたって当寺より始められたと伝えられ今も舎利塔が現存する ◆太子堂 聖徳太子御作二歳像(南無仏)を祀る ◆へそ石 本堂古跡の石ともいい京都市街の中心石として伝わる聖徳太子 沐浴の古跡 太子堂周辺の枯山水の庭となってそのおもかげをつどめている ◆華道家元池坊 小野妹子(専務)は太子の教え従って朝夕宝前に花を供え 代々の住職はこれを伝え いけ花の名手が輩出した 室町時代(足利義政の頃)には専慶が立て花の名手と称えられ室町後期には専応が出ていけ花の理念を確立した いけ花発祥の地といわれる所以である いまや池坊いけ花はここを拠点として発展し日本国内にとどまらず世界を結ぶ文化の重要な役割を果たしつつある ◆六角堂 紫雲山頂法寺(しうんざんちょうほうじ)と号する寺で、本堂が六角宝形造(ほうぎょうづくり)であることから、一般に「六角堂」の名で人々に親しまれている。 開基は聖徳太子で、四天王寺建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。早くから人々の崇敬を受け、弘仁13年(822)には嵯峨天皇の勅願所となり、また長徳2年(996)には花山法皇の御幸があり、西国33箇所観音霊場(現18番の札所)となったと伝えられる。建仁元年(1201)、親鸞聖人が当寺に100箇日間参籠して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。 本堂には、聖徳太子の持仏と伝える本尊如意輪観音像、親鸞像、毘沙門天立像(重文)などを安置する。本堂前の六角形の礎石は臍(へそ)石といい、古来、京都の中心に当たるとされてきた。 また、本堂北の本坊は池坊(いけのぼう)と呼ばれ、室町時代以降、多くのいけ花の名手を輩出した所で、華道発祥の地として有名である。現在も池坊華道の拠点となっている。 西国三十三ヶ所観音霊場 第十八番札所 六角堂 頂法寺 御詠歌 わが思う心のうちは六の角 ただ円かれと祈るなりけり ◆親鸞上人 親鸞上人は毎夜、比叡山より当寺本堂に百日参籠された。その95日目の暁の夢で、当寺御本尊より「法然の許へ行け」との示現を得た。このお告げによって再び百日参籠され、当寺より法然上人の許へと通った。 それから2年後、また夢中に「行者宿報設女犯我成玉女身被犯・一生之間能荘厳・臨終引導生極楽」 の偈文を授かり、これによって日本に新しい救いの教えである浄土真宗を開かれたのである。 このお姿は、比叡山より当寺本堂に参籠され、又再び比叡山へお帰りになろうとされているお姿です。 ◆親鸞堂 見眞大師(親鸞上人) 親鸞上人は、建仁元年(1201)29歳の時、毎夜叡山を下り、この六角堂に百日参籠され、夢中に四句を偈文を授かり浄土真宗の開祖となられた。 ここには、夢のお告げを聞いておられる姿の「夢想之像」と、六角堂参籠の姿を自刻されたと伝える「草鞋の御影」を安置する。 ◆へそ石 桓武天皇の延暦十二年(793)京都へ遷都の時、六角堂の所在が道路の中央に当たったので天皇が遷座えを祈願されたところ御堂がにわかに5丈ばかり北へ退かれたという。 この石はその際に取り残された礎石であると伝える。また京都のほぼ中央に当たるところからへそ石とも要石とも呼ばれている ◆一言願い地蔵 このお地蔵さまは少し首を傾げられた姿をされていますが これは悩んでいらっしゃるわけではなくお参りに来られた方の願いを叶えてあげようかどうしようか と考えておられるお姿なのです 願いを聞き届けて頂けるかどうかはあなたの信心次第です欲張らず一つだけ願い事をして下さいきっと叶えて下さることでしょう ◆なぜ三十三ヶ所なのか 観音信仰の基礎となるのが「妙法蓮華経観世音普門品第二十五」で俗にいう観音経です。その中には、観世音菩薩は人々が真心をもって観音様の御名を唱えれば、悩める私たちの求めに応じて様々な姿に身を変えて説法してくれるとあります。 観音様には聖観音・千手観音・如意輪観音など様々なお姿がありますが、観音様が人間世界に現れるときには「南無大慈大悲観世音菩薩」とお称えするように、慈愛溢れる性格から年齢・性別を問わず、三十三の身近な者の姿に変化して私達を救って下さいます。観音経の中にもその変化の姿が三十三数え上げられ、この数にちなんで全国各地に三十三ヶ所の観音霊場が開かれています。 ◆六角堂 十六羅漢 羅漢様とは、仏の教えを護り伝えることの出来る優れたお坊様に与えられた名前です。十六と言うのは、方位の四方八方を倍にした十六を表し、あらゆる場所に羅漢様が居られることを意味しています。 この羅漢様は、「和顔(わげん)愛語(あいご)」を実践され いつも「にこにこ」されています。「和顔愛語」の教えとは、いつも優しい顔つきで、穏やかに話をするように心がけてさえいれば、必ず良い報いがあると説かれたものです。みなさんも、この羅漢様のように一日でも多くの「にこにこ」を心がけましょう。 ◆邪鬼 この羅漢様の周りには邪鬼がいます。仏教をなかなか理解せず、ひねくれて仏教信者とならない。そんな衆生を邪鬼といいます。中には改心した邪鬼もいて、ここ六角堂には、羅漢様の周りで仏法を学びながらお守りしている者や、本堂前にある大香炉を自分から大喜びで背中に乗せるけなげな邪鬼もいます。ここの邪鬼は皆、自らすすんで縁の下を支えています。 ◆合掌地蔵 このお地蔵さまは、お参りに来られた方の願いを手のひらにやさしく包み込んで、その願いが叶えられるようにと、皆さんと一緒にお祈りしていらっしゃるお姿をされています。手を合わせ、その手に願いをささやきながら吹き込んでください。お地蔵さまの力を信じ、一心に祈れば必ず力をかしていただけることでしょう。
壬生寺
律宗の大本山で宝幢三昧寺(ほうどうさんまいじ)、又は心浄光院(しんじょうこういん)と号し、本尊として地蔵菩薩立像(重要文化財)を安置している。 寺伝によれば、創建は奈良時代と伝え、正暦2年(991)三井寺(みいでら)の快賢僧都(かいけんそうず)により復興され、小三井寺と呼ばれていた。 その後、火災により堂宇を焼失したが、正元元年(1259)平政平(たいらのまさひら)により再興され、さらに正安2年(1300)円覚(えんかく)上人が、仏の教えを身振り動作に仕組んだ壬生大仏狂言を創始し大いに栄えた。 現在の本堂は、昭和37年に焼失したため、昭和42年に再建されたものである。 ◆由緒 律宗に属し、本尊は地蔵菩薩立像(重要文化財)である。 寺伝によれば、正暦2年(991)三井寺の快賢僧都により創建され、古名を地蔵院、宝幢三昧寺などと呼ばれていた。 その後、火災により堂宇を焼失したが、正元元年(1259)平政平により復興され、さらに正安2年(1300)円覚上人が、仏の教えを無言劇に仕組んだ、壬生狂言(重要無形民俗文化財)を創始し大いに栄えた。 昭和37年に本堂が焼失したため、昭和45年に再建された。 また、境内北にある壬生狂言を演ずる舞台、大念仏堂(重要文化財)は、安政3年(1856)の特異な建造物である。 当寺境内は、新選組が大砲や剣術の訓練をした場所として有名であり、壬生塚には近藤勇の胸像、芹沢鴨らの墓塔がある。 池田屋騒動があったと言われる7月16日には、毎年、慰霊供養祭が行われる。