当寺、浄土宗浄光寺の境内墓地に、江戸時代文人画の大家池大雅の墓がある。墓は碑面に「故東山画隠大雅池君墓」と二行に記し、側面に淡海竺常(たんかいじくじょう)の撰文になる銘文を刻んでいる。 大雅は享保8年(1723)京都の生まれ。姓は池野氏、名は無名、大雅、玉海などと号した。 若くより絵を志し、柳里恭(りゅうりきょう)や祇園南海に学んだほか、中国の画論や画譜を通じて独学で南画を研究した。 また禅を修行し、日本全国を旅行した。こうして生まれつきの超俗的な性格と相まって、むぞうさな画法で人物や風景を詩的に表現する独自の文人画を大成した。 代表作に黄檗(おうばく)山万福寺の約30面のふすま画などがある。 30才の頃、祇園町の娘、町と結婚し洛東真葛ヶ原に草庵を建てて住んだ。 妻町も玉瀾(ぎょくらん)と号する画家として有名。夫妻とも、数々の奇行が伝えられている。 安永5年(1776)大雅は54才で歿し遺言により当寺に葬られた。
Tag: 寺院
藤木社
雨宝院
北向山雨宝院と号する高野山真言宗の寺である。 もとは、大聖歓喜寺(だいしょうかんきじ)と呼ばれ、千本五辻(せんぼんいつつじ)にあったが、応仁の兵乱(1467)により堂宇は荒廃し、天正年間(1573~92)に当地に再興されたものといわれている。 本堂に安置する本尊聖天(歓喜天)像は、像頭人身六臂(ぴ)の等身像で、嵯峨天皇の御病平癒祈願に一刀三礼して造られたものと伝えられている。 観音堂に安置する千手観音立像は、藤原初期の重要な作風を示す優品であり、重要文化財に指定されている。 また、胎蔵界(たいぞうかい)を表わすあせかき弘法大師像も有名である。 境内東南にある手洗井戸は「染殿井(そめどのい)」といい、この水を染物に用いるとよく染まるといわれ、夏の旱魃(かんばつ)時でも涸(か)れることがないという。 本堂前の桜は「歓喜桜」といい、御室の八重桜と同種のもので、根元から八重の花が咲く。その隣にある松は「時雨(しぐれ)の松」といい、久邇宮(くにのみや)朝彦親王が当院参詣の折、にわか雨をこの松の下でしのがれたと伝えられている。 ◆由緒 北向山(ほっこうさん)雨宝院と号する古義真言宗の寺で、「西陣の聖天さん」として親しまれている。 本堂に安置する本尊「聖天(しょうてん)(大聖(だいしょう)歓喜天(かんきてん))像」は、821年、弘法大師(空海上人)が嵯峨天皇の御悩平癒(へいゆ)を祈願して安置したものとされ、それが当寺の始まりと伝えられる。 観音堂に安置する千手観音立像は、重要文化財に指定されており、また、大師堂の本尊は汗をかくほど辛いことでも助けてくれるという「阿吽(あうん)あせかき弘法大師像」として知られている。 境内東南には、その水を染物に用いるとよく染まるとして有名な「染殿の井(そめどのい)」があり、夏の旱魃(かんばつ)時でも涸(か)れることがない。また、本堂前の「歓喜桜(かんきざくら)」は、御室の八重桜と同種のもので、根元から八重の花を咲かせる。その隣にある「時雨(しぐれ)の松」は、久邇宮朝彦(くにのみやともひこ)親王が当院参詣の折、その下でにわか雨をしのがれたと伝えられている。 ◆染殿井 この井戸は「染殿井」(そめどのい)と呼ばれています。 染色に適した軟水で、西陣の染色業者達が「染物がよく染まる」と重宝したといわれています。 本隆寺の千代の井、首途八幡宮の桜井、個人宅にある安居井、鹿子井とともに「西陣五水」にも数えられています。染色には大量の水が必要ですので、狭い区域にこうして井戸が沢山ある事も西陣が染め物で栄えた理由のひとつだったのかもしれません。 ちなみに京都御所内にも清和天皇の母君が住まわれた「染殿」にちなむ「染殿井」という同じ名前の井戸があります。
本隆寺
当寺は、慧光無量山本妙興隆寺(略して本隆寺)と称し、日蓮門下京都十六本山の一で、法華宗真門流の総本山である。 開山は中山大納言親通卿の子、日真で、後柏原帝より大和尚の称号を下賜された。 長享2年(1488)堂宇を四条大宮に創立したが、四代日映のとき、天文法乱のため諸堂焼失、1542年、杉若若狭守旧地の現在地に建立した。 十代日遵の時、京都御所の炎上により類焼、明暦3年(1657)名匠坂上作左衛門が再建、以来享保15年(1730)、天明8年(1788)の二度に京都大火は、西陣一帯を焼野原としたが、当寺は、奉祀している鬼子母神の霊験によって焼失をまぬがれ、「不焼寺」として有名である。 境内3300坪に西陣五井の一の名井「千代乃井」及び七代目脩に由来する「夜泣止松」がある。 本堂、祖師堂、客殿、三光殿、鐘楼、経蔵、宝蔵、南門、塔頭八ヶ院等の諸堂を有し、宝物には、日蓮上人真筆大曼陀羅、法華玄論、十六羅漢絵像、名器三管、法華経七万字版木等がある。
清和院
第五十六代清和天皇(在位八五八~八七六)ゆかりの寺で、真言宗智山派に属する。 平安初期にその後の摂関政治の礎を築いた藤原良房の邸宅「染殿第」の南に仁寿年間既に創建されていた仏心院を基に、清和天皇譲位後の後院として清和院が設けられたのが始まりである。 清和院は代々皇子や親王が住し、また在原業平らの歌会の場ともなったが、徳治三年(一三〇八)に再建、仏寺化された。 今も京都御所の東北に「染殿第跡」や清和院御門が現存し、その名残をとどめている。 本尊は木造地蔵菩薩立像(鎌倉時代・重文)で等身大・玉眼入り、極彩色の精緻を極めた見事な尊像である。 清和天皇が清和源氏の祖であったことから、室町将軍足利氏も深く帰依し、その保護を受けて栄えたが、寛文元年(一六六一)の御所炎上の際に清和院も類焼し、後水尾院と東副門院によって現在地に移転再興された。 また、一条鴨川西岸にあった河崎観音堂が消失後合併されたため、洛陽観音霊場の結願所でもある。
泉妙院(尾形光琳菩提所)
勝福寺(親鸞聖人旧蹟)
寺伝によれば,当寺はもと「清水(しみず)庵(あん)」、「一條坊(いちじょうぼう)」と呼ばれ、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人(一一七三~一二六二)が一時期住居とした旧蹟である。 親鸞聖人は布教のため関東にて約二十年を過ごしたが、故郷の京都に戻ってきたのは、六十歳を過ぎた頃といわれる。帰洛後は主に「教(きょう)行(ぎょう)信証(しんしょう)」(親鸞の集大成的著作)の補筆完成に精進すると共に、都での教化活動にも力を注いだ。 帰洛後の住まいについては、洛中を転々としたが、嘉(か)禎(てい)二年(一二三六)に一条附近にあった清水庵に居住したという。 当寺に残る「御生(ごしょう)骨(こつ)縁起(えんぎ)」によると、この寺で教化している時、親鸞聖人の歯が抜け落ち、 「秋はつる 落葉は冬ぞ いざさらば 無量寿国の春ぞ なつかし」 と一首詠んだ。 四季の移ろいの中に自らの老いを重ねるというその歌に感動した、弟子の真仏房(しんぶつぼう)平(へい)太郎(たろう)は、聖人に対し、形見に歯を所望したところ、聖人はその願いを聴きいれ、自ら彫った木像を共に与えた。それが当寺の伝わる「落葉(おちば)の尊形(そんぎょう)(親鸞像)」であり、その由来である。 永(えい)正(しょう)十六年(一五一九)に本願寺第九世の実(じつ)如(にょ)上人は当時の一條坊善正(ぜんしょう)に対し、「当寺が親鸞聖人の重要な旧蹟であること、また落葉の尊形を子々孫々大事に保管せよ」と書状を与えている。
大応寺
常照寺(檀林の寺、吉野の寺)
当山は、元和2年(1616)本阿弥光悦の土地寄進を受け、寛永4年(1627)その子光瑳の発願により日蓮宗総本山身延山久遠寺第21世寂照院日乾上人(じゃくしょういんにちけんしょうにん)を招じて開創された山城六壇林(やましろろくだんりん)の一偉観「鷹峰壇林」の旧跡である。 吉野門と呼ばれる朱塗りの山門は、寛永三名妓天下随一の太夫と謳われた二代目吉野太夫(灰屋紹益(はいやじょうえき)の妻)が寄進したものである。 境内には本堂を中心に開山堂、鬼子母尊神堂(きしもそんじんどう)、常富堂(つねみどう)、衆みょう堂(しゅうみょうどう)(書院)、梅樹庵(庫裡)などがある。 また吉野太夫の墓所や吉野窓を設えた茶席遺芳庵(いほうあん)、聚楽亭や全国でも唯一の帯塚(おびづか)などがある。 毎年4月第2日曜日には吉野太夫を偲ぶため「吉野太夫花供養」が行われ、太夫道中や供茶法要、茶会などが催され全国各地からの参詣者で賑わう。 ◆由緒 寂光山常則寺は洛北の山裳にあり俗に鷹峰三山と呼ぶなだらかな三つの丘陵を西に望むところにある。 当山は、元和2年3月(1616)本阿弥光悦の土地寄進とその子、光瑳の発願によって身延山第二十一世日蓮宗中興の相、と敬仰される寂照院日乾上人を招じて開創された鷹峰檀林(学寮)の旧跡で、それ以来連綿と続き世に山城六檀林中の一偉観をなしてきたのである。 盛大な頃は広大な境内に大小三十余棟の堂宇がならび幾百人となく勉学にいそしむ学僧で賑わったことは本阿弥行状記や元政上人の日記などに紹介されている。 ◆開山廟 本堂の右裏手に墓地がありその中央の建物に日乾上人の五輪塔のお墓がまつられている。ケヤキのお扉には珍しい形の五七の桐か彫刻されている。 ◆寺宝と茶席遺芳庵 檀林関係の写本類が多く特に珍種とされる祖書研究資料の録内啓蒙の版木、伝教大師作と伝えられる三面大黒天、妙見大菩薩像、日乾上人像、光悦筆の扁額「学室」正面の栴檀林の額は六牙日潮筆、光悦画「蓮乗口輪」などく吉野太夫の好んだ大丸窓(俗に吉野窓)を配した遺芳庵という茶席は墓地の北側の谷を望むところにあり毎月佳人を偲んで釜がかけられて賑わう。 また四月の桜の季節には名妓慰霊のため島原の太夫道中による墓参、供茶法要が営まれ境内随所に野点茶席が設けられて京の名物行事となっている。 ◆吉野太夫の墓 吉野太夫は遺言により日乾上人廟の裏手に葬られている。「唱玄院妙蓮日性信女」がその戒名であり、歌舞伎俳優や芸能人、数奇者のこの地を訪れる人が多い。 ◆名妓 吉野太夫 都の六条三筋町の郭に寛永のころ、天下の名妓として、一世を風靡しその才色兼備を謳われた二代吉野太夫(松田徳子)が光悦の縁故により日乾上人にまみゆるやその学徳に帰依し寛氷5年二十三才のとき自らに財を投じて朱塗の山門を寄進したのが今に残る吉野門である。吉野は和歌、連歌、俳句、書、茶湯、香道、音曲、問答、双六と諸芸に秀で、その美貌は唐の国にまで喧伝されたという。夫の豪商灰屋紹益(佐野重孝)も文学、趣味豊かな粋人で二人のロマンスは後世演劇、歌舞伎に戯曲化されて有名である。 吉野は寛永廿年八月廿五日齢三十八才で病没した。 ◆鬼子母尊神 当山境内の北西(いぬい)の方には、三体の鬼子母尊神像と、十羅刹女をまつる鬼子母尊神堂がある。 鬼子母尊神は、もともと子供を殺して食べる悪鬼だったが、仏の教えを聞いて懺悔し、改心してのち、子育て、子授けの神様、信仰する者を守護する神様となった。十羅刹女はその眷属である。堂内右側の厨子には、行者守護を表わす鬼面の鬼形鬼子母尊神、左側には子安の母形鬼子母尊神がまつられ、正面には、鬼面をして、お腹に子供を宿し、足もとに男女の子供を連れた姿の、行者守護と子安の両面を示す、双身鬼子母尊神がまつられ、子供め成長や、さまざまな願いを持った人々が祈願に訪れる。 ◆常富大菩薩のご縁起 当山境内には鎮守社として常富大菩薩をまつってある。 享保年間のこと、学寮に於て智湧という学僧が勉強しておられた。山内にしばしば奇瑞不思議が起るので噂となりとかく常人と異る智湧をいぷかった学頭職空妙院日善上人が一夜その室を覗いたところ白狐が一心に書見していたという。姿をみられた白狐はやむなく当山を去って摂津能勢妙見山に登って修行を重ね常富大菩薩となられたのであるが、当山を去るに際し檀林首座宛に道切証文、起請文(二通とも末文のところに爪の印が押されている)を書いて残していったのが当山に霊宝として保存されている。 ◆比翼塚 吉野太夫と紹益の比翼塚と歌碑が昭和46年歌舞伎俳優の片岡仁左衛門丈らによって建てられ、ここを訪れる人々に当時を偲ばせてくれる。 ◆帯塚 女性の心の象徴"帯"に感謝し祈りを捧げる全国初の帯塚が在洛の各界知名士の発起によって昭和44年5月ゆかりの吉野門のほとりに建立された。 因みに塚石は四国吉野川産の自然石(吉野石)で珍しい帯状をなしている。重さは6トン、作庭は造園界の権威中根金作氏によって苔をもって鷹峰三山を表現したもの。恒例行事として毎年五月には帯の時代風俗行列や帯供養が営まれる。 ◆帯塚由緒 万葉の昔から今日まで帯は時代によってその様式意匠に幾多の変遷を重ねてきました。わが国の工芸人達は帯に魂を込め祈りを捧げ、又愛好者もその魂の移り香を懐かしみました。このように帯は常に日本女性のいのちを表現してまいりました。 この日本伝統の美風を永く存続し、染織文化に携わる人は勿論、全国きもの愛好家の美と文化への感謝の象徴として、京洛各界名士の発起により昭和44年(1969)5月全国初の帯塚が建立されました。珍しい帯状をなした四国吉野川産の塚石は重さ6トンあり、苔をもって鷹ヶ峰三山を表現した庭園は中根金作氏の設計監理によるものです。ここに帯着物を供養し皆様の幸福と文化の発展を祈るものです。 ◆名妓 吉野太夫の墓 吉野太夫は西国の武士松田某の娘として育った。故あって後、京都島原(六条三筋町)名妓となる。遊女としての最上位にあったというだけではなく、教養高く詩歌、管弦、茶の湯、香道の諸芸に秀で、当時上流階級の社交場の花とうたわれた。京の町衆の代表的な文化人であった灰屋紹益とのロマンスは特に名高く、今なお美しい語り草とされている。 佳人薄命であった吉野は寛永20年8月25日、38歳の若さで没したが、当山開山日乾上人に深く帰依し生前山門を寄進した縁によりここに葬られる。 後に歌舞伎の第十三代片岡仁左衛門らによって当山に紹益・吉野比翼塚が建立される。