崇道神社

奈良後期、光仁天皇の皇子早良親王を祭る。 早良親王は反桓武帝の中心勢力で、のち捕われ自殺。 当時都に悪疫が流行したのは親王の祟りとされ、その霊をなぐさめるため崇道天皇の追号を贈り、同地に祭られたのが始まりという。

大石神社 

この神社は、昭和10年赤穂義士大石良雄の義挙を顕彰するため、大石を祭神として創建された。 大石の山科旧居は神社の付近にあった。毎年4月14日の春季大祭と12月14日の討入りの日に義挙記念祭が行われる。 大石は、赤穂城の明け渡しの後、元禄14年(1701)6月下旬に、以前からこの付近に田地・屋敷を持っていた親類の進藤源四郎の世話でこの地に移った。 閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利で事件の善後策を講じるのに何かと便利であったからであろう。 この地でしばしば同志の会合を開いた。 はじめ、はやる同志を押さえ、亡主浅野長矩(ながのり)の弟大学長広を立てて主家の再興を図った。 しかし、翌、元禄15年(1702)夏、結局、再興は許されず、吉良義央(きらよしなか)邸討入りに方針を固め、同志はひそかに江戸に集った。 大石は、同年5月、妻子を離縁し、8月にはここを引き揚げ、いったん京都四条寺町に移り、10月江戸に向かった。

日向大神宮

5世紀末、第23代顕宗天皇の時、筑紫の日向の高千穂の峰の神蹟を移したのが起こりという。 天智天皇が神田を寄進、神域の山を日ノ御山(ひのみやま)と名付けた。応仁の乱(1467-77)で焼失したが、篤志家が社殿を造営し、更に慶長19年の再建には徳川家康により失った社領も戻された。 清和天皇・後奈良天皇・後陽成天皇の勅額がある。 開運、厄除、縁結びの神。 創建:487年頃(古墳時代)

由岐神社

大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀っている。 天慶3年(940)御所内に祀られていた祭神をこの地に勧請(かんじょう)したのが当社の初めといわれ、天皇の御病気や世上騒擾(そうじょう)のとき、社前に靭(ゆぎ)(矢を入れる器具)をかかげて平安を祈ったため靭社の名がついたと伝え今日では由岐神社とかえている。 拝殿(重要文化財)は別名を荷拝殿または割拝殿といい、桁行六間・梁間二間・入母屋造桧皮葺(いりもやづくりひはだぶき)で、慶長15年(1610)豊臣秀頼によって再建された。 崖にのぞんで建てられ、後方は崖上に出て、前部は舞台造となっている。 このほか石造の狛犬(こまいぬ)一対も重要文化財に指定されている。 有名な鞍馬の火祭はこの社の例祭で、毎年10月22日夜行われ、祭神遷座の時、葦のかがり火をたいたという故事にかたどり里人が大小さまざまの松明(たいまつ)をかついで鞍馬街道から当社へ参詣するので一面火の海となって壮観を極める。 ◆御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)(別称 大国主命) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 相殿 八所大明神 ◆御由緒 天慶3年(940)旧暦9月9日に天下泰平・万民の守護神・都の北方の鎮めとして朱雀天皇の詔により御所に御祀りされていた由岐大明神がこの地に御鎮座なされました。 その様子を遺し伝えたのが『鞍馬の火祭』の起源であります。その後、豊臣秀吉公の崇敬も厚く御本殿、拝殿は豊臣秀頼公によって再建されました。現在は、拝殿(国の重要文化財)のみが残っております。 ◆御神徳 御祭神は国を治め、人民の生活をお教えになり、特に医薬の道をお授けになった医薬の祖神であります。そのため商売繁盛・病気平癒・縁結び・安産・厄除火難除の神様として古くより信仰をあつめております。 御神階 天正17年(1589年)御陽成天皇正一位宣下 例祭 10月22日「鞍馬の火祭」

八瀬天満宮

祭神として菅原道真(すがわらのみちざね)(八四五~九〇三)を祀る。 道真が亡くなった後、師である叡山(えいざん)法性坊阿闍(ほうしょうぼうあじゃ)梨(り)尊(そん)意(い)(八六六~九四〇)の勧請(かんじょう)により建立されたと伝えられ、社殿の背面扉の内側には、十一面観音絵像が祀られている。 十一面観音は道真の本地仏(仏としての姿)である。 道真が若い時、自己研鑽のため比叡山へ通う折り、此の地で休息したといわれ、江戸時代まで「矢(や)背(せ)天神宮」とも呼ばれたこの辺りの風情は、壬申(じんしん)の乱(六七二)の際,此の地で矢傷を癒した天武(てんむ)天皇以来の歴史を偲ぶことができる。 天満宮社には九つの摂社が祀られ、本殿南側の秋元(あきもと)神社は、宝(ほう)永(えい)七年(一七一〇)比叡山との境界論争勃発の際、八瀬村の利権(租税の免除)を認めた裁決の報恩として、時の幕府老中で,この訴訟の担当者であった秋元(あきもと)但馬(たじまの)守(かみ)喬(たか)知(とも)を祀り、以来毎年「赦免(しゃめん)地踊(ちおど)り」が奉納されている。 また裏山中腹には、足利(あしかが)尊(たか)氏(うじ)に追われ比叡山へ逃れた後(ご)醍醐(だいご)天皇の行(あん)在所(ざいしょ)(天皇が外出した時の仮の御所)があった「御所谷」、境内には、「後醍醐天皇御旧跡」、「復租紀恩碑」、「皇后陛下御歌碑」、「弁慶背比べ石」、「菅公腰掛け石」等の史蹟がある。 天満宮社の例祭は五月五日。 秋元神社の例祭「赦免地踊り」(八瀬郷土文化保存会執行)は十月体育の日の前日夜に実施される

神川神社

祭神は底筒男命・中筒男命・上筒男命・表津少彦命。 延喜式内社。 難船防止の祈願のため、摂津住吉の神を勧請したのが始まりで、鴨川水運に関連した信仰が篤かった。 周辺の鴨川という地名は、明治10年現社名に改称。

貴船神社

創建年代不詳。水の供給を司る神「たかおかみのかみ」を祀り、歴朝はじめ現在も農漁業、醸造業者らの信仰が厚い。 社殿は1055年(天喜3)元々の御鎮座地より現在の本宮の遷へ移されたという。 元々の御鎮座地は奥宮としてお祀りされている。古くから「氣生根(きふね)」とも表記され、氣力の生ずる根源の地であると信仰される。御神徳は運気隆昌、諸願成就。 また、平安時代の女流歌人、和泉式部も参詣し、不和となった夫との復縁祈願が成就した逸話があり、えんむすびの神としても若い世代より絶大な崇敬を集めている。 水徳神高おかみの神(たかおかみのかみ)を祀る旧官幣中社で、社名は古くは木船、貴布祢とも書いたが、明治4年(1871)以降「貴船」と改められた。 延喜の制には名神大社となり、二十二社の一つに列せられた。弘仁9年(818)以来歴朝の奉幣、祈願がたびたびあり、もっぱら祈雨、止雨の神として崇められ、祈雨には黒馬、祈晴には白馬または赤馬が献ぜられるのが例であった。 江戸時代には賀茂別雷社(上賀茂神社)の摂社とされたが、明治以後独立した。 本殿、拝殿、権殿(ごんでん)等があり、本殿は文久3年(1863)に改修された。川に沿って上ると奥の宮がある。また、境内には祈雨の行事を行った雨乞の滝、奥宮本殿の西には船石といって船の形に積んだ石墨がある。

金札宮

750年大きな流れ星が降る異変があり、第46代 孝謙天皇(女帝で在位749~758年)が深く憂慮された時に伏見久米の里に白菊を植え賞でている翁がおり 「この地に日照りが続き、稲が枯れるような時、私が愛でた白菊の露の一雫より清水が湧き出す」 吾は、太玉命で天下の豊秋を喜ぶ。 「人々が一度この白菊の露の一雫より、福運が着き、家運は長く隆盛で、子孫繁栄し、火災のわざわいから除かれるであろう」との事をお聞きになった天皇は、事のほか喜ばれ、天皇みずから筆をとられ社殿造営の指示をだされた。 社殿建築中に、「永く伏見に住み国土を守らん」と書かれた金の札が降り人々が集まって来るうちに、 空から声がし「我こそは天照大神より遣わされた天太玉命なり、我を拝まんとすれば、なお瑞垣(みずがき)を作るべし」 と聞こえたとの話です。 伏見の金札宮(きんさつぐう)は、伏見で最も古い神社のひとつといわれ、旧久米(くめ)村の産土神として崇敬されてきた。 観阿弥作の謡曲「金札」の題材になっている。