宇治上神社

宇治上神社は、明治維新までは、隣接する宇治神社と二社一体で、それぞれ、離宮上社(りくうかみしゃ)、離宮下社(りくうしもしゃ)と呼ばれていました。 祭神は宇治神社の祭神でもある悲運の皇子の菟道稚郎子(うじのわけいらつこ)のほか、父の応神(おうじん)天皇と兄の仁徳(にんとく)天皇を祀っています。 本殿(国宝)は、平安時代後期の、神社建築として最古のものに属する建造物で、一間社流造の内殿三棟を左右一列に並べ、後世これらに共通の覆屋をかけたものです。 また、その身舎(もや)の扉には、建立当時の絵画が遺されています。なお、境内に湧き出ている桐原水は、宇治七名水の一つとされています。 ◆字治上神社の不思議 ・ お守りの紋や、おみくじなど、どうしてうさぎさんなの? 皆さんがご存知の当社の地名「宇治」ですが、かっては{うさぎのみち}「菟道」と書いて「うじ」と読みました。当社の御祭神の一柱であられる『菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)』は昔の漢字の「菟道(うじ)」と書きます。 ・ 世界遺産の建物、国宝の建物はどれ? 本殿と拝殿は『国宝』で、それぞれ1060年(康平3年)、1215年(建保3年)頃に建立されたと思われます。歴史資料等が無く、先の年代は「年輪年代測定法」により算出されたものです。春日社は「重要文化財」です。世界文化遺産の指定は当社個別の指定ではなく平成6年に京都の17箇所同時に「古都京都の文化遺産」として指定を受けました。当社の「世界文化遺産指定区域」は「後ろの木々の景観も含め境内地・建物すべて」です。 ・ 正面の二つのお山のお砂はなんのため? 拝殿前の砂で盛られた円錐形の小さな二つの山は「清め砂」といい、当社では八朔祭(9月1日)に氏子さんたちによって奉納され、境内のお清め用の砂として1年間盛られ続けます。 お正月、お祭等大切な日に際して、境内にまき散らし、境内地を「お清め」いたします。 当社での「清め砂」は、まさに境内地「お清め」の為のお砂であり、よく、他の社で見られる、神が降りられる依代(よりしろ)を表しているのではありません。 ・ 桐原水(きりはらすい)って湧き水なの?飲んでいいの? 湧き水ですが、もともと神社にお参りする為に手を清める為の「手水」として皆さんがお使いになられてますので、お飲みになられたい場合は、直接ではなく、一度沸かしてからお飲みください。 ・ 大きなご神木は何年たっているの? 拝殿右脇の大きな木は「ケヤキ」です。樹齢はおおよそ330年以上たっています。 ・ 本殿の右側に大きな石に小さな石がいっぱい積んであるのはなぜ? 下のおおきな石は昔、お社があった「社跡」の標です。上の小石は皆さんが各々お願い事をなさって積まれたものです。 ・ せっかくのおみくじ、結んで行かなくちやダメなの? おみくじは引く時に私の「いつの」「何を」神様に占っていただきたいのかを思い浮かべて引きます。その「いつの」が大事です。それが「来年1年の・・」なら「1年間」、「旅行中の・・」なら「旅行期間」、「今日の運勢」なら「今日中」は持っているのがよいのです。その期間が済んだら、近くの神社に結びに行きます。引いた神社に結ぱなけれぱいけない訳ではありません。 ・ 最後に!当社の境内に「宇治茶」の木が1だけあリます。

龍安寺

臨済宗妙心寺派に属する。 もと徳大寺家の別荘であったが、宝徳2年(1450)に細川勝元が譲り受け、義天玄承(ぎてんげんしょう)を請じて禅院とし、義天はその師日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を奉じて開山として、自らは2世となった。 一時、応仁の乱により焼失したが、明応8年(1499)、細川政元が再興、その後名僧が相ついで住し、豊臣秀吉や徳川氏も寺領を寄付するなどして、最盛時には塔頭(たっちゅう)23を数えるほど寺運は栄えた。 しかし、寛政9年(1797)に火災に遭い、その後次第に再建されたが、盛時の寺観は復興しなかった。 方丈庭園(特別名勝)は、室町時代末期の作と伝えられ、枯山水の名園として有名である。 長方形の敷地の中に白砂を敷き、15個の石を配し、一木一草も用いず、象徴的に自然を映し出しており、枯山水庭園の極致を示したものといえる。 あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているようにも見えるため、「虎の子渡し」とも呼ばれる。 その他、寺宝には、太平記12冊(重要文化財)などがある。 ◆由緒 臨済宗妙心寺派の寺院で、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。 もと徳大寺家の別荘であったが、宝徳2年(1450)に細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)を招いて禅院とし、玄承はその師日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を開山として、自らは創建開山となった。一時、応仁の乱により焼失したが、明応8年(1499)に細川政元が再興し、その後、名僧が相次いで住し、豊臣秀吉や徳川氏も寺領を寄付するなどして、最盛時には塔頭(たっちゅう)23を数えるほど寺運は栄えた。しかし、寛政9年(1797)に火災に遭い、その後次第に再建されたが、盛時の寺観は復興していない。 方丈庭園(国の史跡及び特別名勝)は、室町時代末期の作と伝えられ、枯山水の名庭として有名である。長方形の敷地の中に白砂を敷き、15個の石を配し、一木一草も用いず、象徴的に自然を映し出しており、枯山水庭園の極致を示したものといえる。あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているようにも見えるため、「虎の子渡し」とも呼ばれる。 方丈の東には、水戸光圀の寄進と伝えられる「吾唯足知」と刻まれた石造りの手水鉢がある。そのほか、寺宝として、太平記12冊(重要文化財)などを所蔵している。 現在の方丈は、そのとき西源院の方丈を移築したものである。方丈の前庭は枯山水の石庭として著名で、臨済宗妙心寺派に属し、大雲山と号し禅苑の名刹である。 ◆石群の鑑賞 石の象(かたち)、石群、その集合、離散、遠近、起伏、禅的、哲学的に見る人の思想、 信条によって多岐に解されている。 ◆庫裡 石段の正面の建物が庫裡で、禅宗寺院建築の簡素にして重厚、特に木組と白壁の調和がま た静寂の内に構成美をかもしだしている。 ◆鏡容池 この池は徳大寺家によって築かれたもので、かってはおしどりが群れ遊んだところからお しどり池と呼ばれた。石庭鑑賞後のひとめぐりも、何がなしぽっと心が和むのを覚えるの は、水の効果というものだろう。池の堤防からは龍安寺全景の山々が古来の姿そのままに 眺望され、四季それぞれの美しさは又格別である。 ◆つくばいと佗助椿 方丈の北東に据えてある銭形のつくばいは、一見“五、隹、止、矢"の文字に読まれるが、 中心の口を共用すれば、“吾唯足知“(ワレタダタルヲシル)と成り、禅の格言を謎解き に図案化された無言の悟道である。徳川光圀の寄進といわれている。秀吉が賞讃したと今 も伝えられる佗助の老樹が枯淡で景趣をそえている。 ◆茶室蔵六庵(非公開) 方丈から東庭を隔てた東北隅の茶室を蔵六庵という。蔵六という語は亀の別名で、頭・尾 ・四肢の六つを甲羅の中に隠すのでこの名がつけられた。江戸初期の茶人不遠庵僖首座の

下鴨神社(賀茂御祖神社)

太古、この地を占有していた賀茂氏が創祀したわが国最古の神社の一つである。 祭神として、賀茂建角身命と玉依姫命を祀る。玉依姫命は賀茂氏の祖神賀茂建角身命の子で、瀬見の小川(賀茂川)の川上から流れてきた丹塗り(にぬり)の矢によって身ごもり、別雷神を生んだという。 賀茂御祖神と呼ぶのはこのためである。 平安遷都(794)後は王城の守護神としてあがめられ、賀茂斎院、行幸式日、参篭御幸、関白賀茂詣、式年遷宮等の制度も設けられ、中世には山城国一ノ宮と呼ばれて、崇敬をあつめた。 境内糺の森は、約12万平方メートル(約3万6千坪)で古代山城北部が森林地帯であった頃の植生と同じ生態が保たれている貴重な森林であり、国の史跡に指定されている。 社殿は、文久3年(1863)再建の国宝の本殿二棟と重要文化財の殿舎五十三棟などがあり、平成6年(1994)世界文化遺産に登録された。 毎年5月15日、都大路に王朝絵巻を繰広げる葵祭は有名である。 行列が当神社に到着すると「社頭の儀」が行なわれる。また、流鏑馬、御蔭祭など数々の伝統神事が行なわれている。 ◆由緒 平安時代以前から存在する京都で最も古い神社の一つで、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。 上賀茂神社(かみがもじんじゃ)の祭神である賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)の母の玉依媛命(たまよりひめのみこと)と玉依媛命の父の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祀ることから、正しくは賀茂御祖神社といい、上賀茂神社とともに賀茂社(かもしゃ)と称される。 平安遷都(794)後は王城の守護神として、朝廷をはじめ公家や武家の崇敬を集め、弘仁(こうにん)元年(810)以降、約400年にわたり、斎院(さいいん)(斎王の御所)が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。 江戸末期の文久(ぶんきゅう)3年(1863)に造替された東本殿と西本殿が国宝に指定されているほか、多くの社殿が重要文化財に指定されている。 また、約12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)に及ぶ境内の自然林は「糺(ただす)の森」として市民に親しまれ、平安京以前の原生林を残す貴重な森林として国の史跡に指定されている。 毎年5月15日には、京都三大祭の一つである葵祭(あおいまつり)が行われ、御所から当神社を経て上賀茂神社まで向かう行列が、都大路に王朝絵巻を繰り広げる。また、5月3日の流鏑馬(やぶさめ)神事や7月の土用の丑の日に行われる御手洗祭(みたらしまつり)などもよく知られている。 ◆鴨の七不思議 ① 連理の賢木  3本の内、2本が中ほどでつながっている珍木。えんむすぴのシンボル。 ② 何でも柊   比良木神社のまわりの木は全て葉がギザギザになり柊化する。 ③ みたらし川の水あわ  夏の土用になると清水に足をひたし無病息災を祈る。池から湧く水あわを形どったのが、みたらし団子。 ④ 泉川の石(烏縄手)   紅葉橋のたもとに昔、雨乞いを祈る「こがらし社」があり、願いがかなうと泉川の小石が飛び跳ねた。 ⑤ 赤椿     下鴨の神主は位が高く、他から来るお使いは位が低いことが多かったので、装束に気を使って赤い椿を植え、目立たぬようにした。 ⑥ 船ヶ島・奈良社   日照りや戦乱の時、流れをかき回すと小石が跳ね、願いが成就する。 ⑦ 切芝   糺の森のへそ(真中)、古代からの祭場である。 ◆賀茂御祖神社境内 賀茂御祖神社(通称 下鴨神社)は、「山城国風土記」逸文に祭神の賀茂建角身命、玉依媛命の神話伝承が、そして「続日本紀」に賀茂祭の事、さらに「社記」には崇神天皇時代の記録などが記されているように、古くからの大社であった。また、玉依媛命の御子神は、賀茂別雷神社(通称 上賀茂神社)に祀られている。 境内の糺の森は鴨川と高野川の三角州に山背盆地の植生を残す貴重な森林でその美しさは古くから物語や詩歌にうたわれてきた。 社殿の造営は、「社記」に天武天皇6年(677)のこととされ、長元9年(1036)には、21年ごとの式年遷宮が定められた。現在の社殿は、江戸時代の造替えで、両本殿が国宝、他の社殿53棟は重要文化財である。 平安遷都以降は、皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称され、全国に60以上の庄園を持ち、山城国一の宮、全国賀茂神社1300社の総本社として広く崇敬されてきた。 弘仁元年(810)には、賀茂斎院の制が定められ、皇女を斎王として35代約400年間賀茂社の神事に仕えさせられた。斎院御所は、この糺の森の西北に、常の御所は紫野大宮に設けられていた。 また、桓武天皇が延暦13年(794)平安遷都祈願の行幸をされて以来、歴代天皇、上皇、関白などの賀茂詣でも盛んであった。 さらに、毎年5月15日に賀茂祭(葵祭)が行われ、この祭は「源氏物語」をはじめ王朝の文学、詩歌にその華やかな行列の様子が描かれ、単に祭といえばこの葵祭を指すほどの盛儀で、その起元は、欽明天皇5年(545)にさかのぼる。また、御蔭祭、騎射(流鏑馬)、蹴鞠、歌舞など千数百年伝承されている神事も多い。 このたびこのような賀茂神社の歴史的意義を重視し、境内全域を国の史跡に指定して保存することとなった。

銀閣寺(慈照寺)

東山(とうざん)と号する臨済宗相国寺派の寺で、足利将軍義政の隠居所東山殿を遺命によって寺としたものである。 東山殿は、文明14年(1482)から建設を進め、東山文化の粋をつくした数々の仏殿、住宅や庭園が造られた。 しかし、永禄元年(1558)の兵火により、銀閣、東求堂を残して建物が焼失し、元和元年(1615)に現在の寺観が整えられた。 銀閣(国宝)は、長享3年(1489)の建立、こけら葺き二層建てで、下層は心空殿と呼ばれる書院造りの住宅風、上層は潮音閣と呼ばれる禅宗仏殿風の室となっており、観音像を安置する。 実際には銀箔は貼られなかったが、北山鹿苑寺(ろくおんじ)の金閣に対し一般に銀閣と呼ばれる。 金閣に比べて枯淡幽雅な特色が見られ、東山文化を代表する名建築である。 東求堂(国宝)は、文明18年(1486)建立の東山殿の持仏堂で、日常生活用住宅建築の遺構としては最古のものといわれ、内部には仏間、同仁斎(どうじんさい)などがある。 同仁斎は茶室の元祖ともいわれるが、元来は書斎である。 庭園は、西芳寺(苔寺)の庭園を模して義政が作ったものといわれ、上段石組、下段池泉廻遊式の二段からなり、銀閣とよく調和した名園である。 ◆由緒 銀閣寺は臨済宗相国寺派に属する禅寺で、建立は文明14年(1482)室町幕府八代将軍足利義政公による。義政公は、祖父にあたる三代将軍義満公の北山殿金閣(鹿苑寺)にならい、隠栖生活を過ごすため、山荘東山殿を造営。 この東山殿が銀閣寺の発祥である。銀閣寺の名は俗称であり、正しくは東山慈照寺。 義政公の法号慈照院にちなみ、後にこう命名された。 ◆義政公の悲願 銀閣寺は、五山の送り火でしられる大文字山の西、月待山の麓に位置する。東山殿造営当時は、錦鏡池を中心に広がる池泉回遊式庭園の周囲に、大小十二棟の建造物が点在した。その壮麗な景観は、禅の思想と浄土信仰が融合した、義政公の精神世界の投影である。 東山殿当時そのままの遺構が、観音殿(銀閣)と東求堂で、いずれも国宝である。 銀閣寺の象徴とされる観音殿は、一層を心空殿、二層を潮音閣と、それぞれ呼ぶ。 ◆東山文化の伝統 政治の世界から逃れ、ここ東山殿に隠栖した義政公は、芸術三昧の晩年を過ごした。 諸芸道の達人をここに集め、いわゆる東山文化のサロンを形成した。茶道、華道、香道、能などの日本を代表する伝統文化は、この東山文化のなかから生み出された。 その舞台となったのが、東求堂内の同仁斎であり、現存する最古の書院造り、また四畳半の間取りの原型として知られる。 平成5年(1993)に造営された書院には、世界的に評価の高い明治期の画家、富岡鉄斎の襖絵が収められ、東山文化の系譜を今に伝えている。 ◆観音殿(銀閣)(国宝) 鹿苑寺の舎利殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、本来、観音殿とよばれた。二層からなり、一層の心空殿は、書院風。二層の潮音閣は、板壁に花頭窓をしつらえて、桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式。閣上にある金銅の鳳凰は東面し、観音菩薩を祀る銀閣を絶えず守り続けている。 ◆東求堂(国宝) 義政公の持仏堂。一層の入母屋造り、檜皮葺きの現存する最古の書院造り。南面に拭板敷、方二間の仏間が設けられ、北面には六畳と四畳半の二室がある。北面東側の四畳半は、同仁斎とよばれ東山文化を生み出す舞台となり、また草庵茶室の源流、四畳半の間取りの始まりといわれている。

高山寺

栂尾(とがのを)山と号する真言宗の寺である。 寺伝によれば、宝亀5年(774)光仁天皇の勅願によって開創され、当初、神願寺都賀尾(とがを)坊と称したが、建永元年(1206)後鳥羽上皇の院宣によって、明恵(みょうえ)上人が華厳宗復興の道場として再興し、寺名を高山寺と改めたと伝えられている。 広い境内(史跡)には、石水院(国宝)、開山堂、金堂などが建ち並び、中でも石水院は、鎌倉時代初期の寝殿風住宅建築で、後鳥羽院の賀茂別院を移築したものといわれている。 寺宝としては、鳥羽僧正筆の鳥獣人物戯画(国宝)をはじめ、数多くの貴重な文化財を蔵している。 また、境内の茶園は、鎌倉時代初期に明恵上人が栄西禅師から贈られた茶種を植えたところで、ここから全国に茶が普及したといわれている。 この由緒から、毎年11月8日には、宇治の茶の製造業者から新茶が上人廟前に献上される。 ◆由緒 後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺」で知られる当山は、774年(宝亀5年)光仁天皇の勅願によって開創され、神願寺都賀尾坊といったが、814年(嵯峨天皇の弘仁5年)、栂尾十無尽と改称された。 その後、876年(貞観18年)には後の十三台天台座主となり、天神縁起絵巻で菅公の怨霊を鎮めたといわれる法性房尊意僧正が、11才より4年間当山で修行し、大いに法力を得たと伝えられている。 鎌倉時代、明恵上人(成弁、後に高弁と改名)が出て、後鳥羽上皇・近衛・鷹司・西園寺家等の帰依により堂坊を復興し中興開山した。 明恵上人は、後鳥羽上皇の院宣によって南都東大寺の華厳を根本とし戒密禅を兼ねた寺とし、1206年に勅額「日出先照高山之寺」を賜ったので、寺号を「高山寺」と改称した。 その後、当山は仏道実践の霊域として護持され、いつの時代も上下の崇信を受け、特に藤原氏一門には、氏神鎮守社春日明神とならび氏寺のごとく保護された。 室町末期の戦乱にまきこまれて堂坊の多くを焼失したが、江戸時代になり、1636年(寛永13年)永弁・秀融上人が堂坊の再興にあたり旧観をやや回復した。 明治維新後、寺運の衰えたこともあったが、昭和6年、明恵上人七百年遠忌記念として、茶祖上人の茶恩に報い、その遺香を後世に伝えるため全国の茶道家の懇志を集めて茶室遺香庵が建てられた。 また、昭和34年には、国宝や重要文化財、史学上の文献等の永久保存のために収蔵庫が建設され、昭和36年には、菩提心の勧発の拠り所として、開山堂横に聖観世音菩薩像が安置された。 昭和56年の750年遠忌には、春日明神社が篤志家により金堂横に復興された。 ◆明恵上人 紀州有田郡吉原に生まれ、父は平重国で高倉院の武者所、母は豪族湯浅権守藤原宗重の四女である。八才の時母は病死し、父も頼朝との戦いで戦死して孤児となり、九才の時文覚上人及び叔父上覚上人を頼って高尾山神護寺に入り、仏道修業に努め、 さらに東大寺や建仁寺にも学び、華厳、真言、禅等の奥義を体得し、東大寺において学頭として華厳学を講じられたこともあった。上人は限られた宗派や教説にとらわれることなく、ひたすら本師釈迦牟尼世尊に随順し、その教えのままに生き、清純無私な無我の行者、真の仏弟子として生涯を貫かれたのである。 世俗面においても、上人は北条泰時に政治の肝要として無欲を教え、承久の乱の公家方未亡人に、善妙尼寺を造って教化救済をされた。建礼門院が上人によって受戒されたことなどは有名である。 遺訓に「阿留辺幾夜宇和」(あるべきようわ)の七字があるが、これは人間日常の簡短にして深奥なる教えである。 ◆石水院 国宝。明恵上人が後鳥羽院より学問所として賜った建物で、上人時代の唯一の遺構である。 金堂の東の位置にあったものを、明治二十二年現在地に移した。簡素な中に優雅さを保ち、きわめて機能的な構造をもっており、生活の知恵の結晶ともいえる住宅建築の傑作である。 「阿留辺幾夜宇和」の厳しくも合理的な精神が今もなおうかがわれる。 南面長押の上の後鳥羽院の勅額「日出先照高山之寺」、西面に鉄斎の額「石水院」が掛けてある。

西芳寺(苔寺)

山号を洪隠山といい、禅宗に属する。 この寺の由緒はきわめて古く、奈良時代、聖武天皇の詔により行基(ぎょうき)が開創。 平安時代初期には弘法大師も一時住し、鎌倉初期には法然上人が中興して、淨土信仰の道場とした。 暦応2年(1339)、後醍醐天皇、足利尊氏の深い帰依をうけた夢窓国師(疎石(そせき))が再建、禅の厳しい修行の道場とした。 さらに夢窓国師みずから設計して庭園を作った。 庭は枯山水石組の上段の庭と、黄金池を中心とした池泉廻遊式の下段の庭からなり、当時すでに天下の名園として名高く、足利義満はじめここを訪れて坐禅にはげんだ人も多い。 現在、35000平方メートルに達する庭園(特別名勝および史跡)は、よく昔のおもかげを伝える名庭とうたわれている。 一面青苔におおわれ、その種類120種、四季それぞれに趣をそえて拝観者はあとをたたず、苔寺の名で親しまれている。 なお茶室湘南亭(しょうなんてい)は、千利休の二男少庵の作で桃山時代の建築(重要文化財)、明治維新の際岩倉具視(いわくらともみ)が一時隠棲したこともある。 禅寺の苔をついばむ小鳥かな 虚子