名称 | 天授庵 |
住所 | 606-8435 京都府京都市左京区南禅寺福地町86-8 |
拝観時間 | 9:00~17:00 冬期(11月15日~)は9:00~16:30 |
拝観料金 | 大人(大学生)400円 高校生 300円 小・中学生 200円 但し、修学旅行生は各料金より半額(グループ行動も含む) 11月15日~11月末日まで ライトアップ PM5:30~9:00 大人(大学生)500円 高校生 400円 小・中学生 300円 |
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1339年(暦応2)光厳天皇の勅許により虎関師錬が南禅寺開山無関
普門(大明国師)の塔所として建立。1602年(慶長7)細川幽斎が再興した。
方丈の襖絵は長谷川等伯の筆で重文。池泉を主にした庭と枯山水と二つの庭園がある。
◆由緒
天授庵は南禅寺の開山第一世大明国師無関普門禅師を奉祀する南禅寺の開山塔であり、山内で最も由緒のある寺院である。
凡そ七百年前の文永元年(1264)亀山上皇は当地の風光を愛されて離宮を営まれ、禅林寺殿と号された。たまたま正応年間(1288年頃)妖怪の出現に悩まされ給ふたが、これを一言の読経を用ふるでなく、唯だ規矩整然と坐禅するのみで静められた当時の東福寺第三世大明国師の徳に深く帰依されて自ら弟子の礼をとり法皇となられ、正応4年(1291)離宮を施捨して禅寺とされ、大明国師を奉じて開山となし給ふた。これが南禅寺の開創である。
国師は離宮を賜はって禅寺とされたが既に老境にあり、未だ寺としての構造が整はざるに先立って正応4年12月東福寺に於いて病を得られ同月12日80歳の生涯を終わられた。
此の時亀山法皇は東福寺の龍吟庵に国師の病状を見舞われ御手づから薬湯をすすめられた事が侍従として御供された実躬卿の日記に記されている。
大明国師は入寂に先出ち規庵祖円禅師を推挙して第二世とされたが、離宮を改めて禅寺として構基を整備されたのは、尽く規庵禅師南院国師の功績であったため大明国師の開山としての功績は殆ど湮滅の状態となり、このためこの後数十年間は開山塔の建設さえなかったのである。
暦応2年(1336)虎関師錬が南禅寺第十五世にでるやいたくこの状態を気に留め、同年朝廷に上奏して開山塔建立の勅許を請い同年9月15日光厳上皇の勅許を得、塔を霊光と名付け菴を天授と名付くとの勅状を賜って建設に着手し、翌3年始めて南禅寺に開山塔の建立を見るに至った。これが天授庵の開創である。然るに文安4年4月2日(1447)の南禅寺大火に類焼し、幾ばくもなく再び応仁の兵火に見舞われた後は復興の事もなく後輩のまま130年余を経過した。
慶長年間に至り世情の安定と共に伽藍の復興が盛んとなるに及び一山の僧達は協議の結果開山塔天授庵の復興を当時五山の間に屈指の名僧と言われた当時の南禅寺住持たる玄圃霊三和尚に一任するに至った。
霊三はその弟子雲岳霊圭をして天授庵主とし、知友であった細川幽斎に天授庵に復興を懇請したのである。
霊圭は若狭国熊川の城主山形刑部少輔の子で細川幽斎の室光壽院の俗姪であり五山の間に知られた名僧でもあったので幽斎の快諾する処となり、此処に幽斎の寄進によって慶長7年8月(1602)現存の本堂、正門、旧書院を始め諸堂尽く重建せられ旧時の面目を復興し今日に至ったのである。
◆本堂
前述の如く幽斎の重建する処である。優雅な柿皮葺屋根をもつ建築であり光厳帝御銘の霊光塔を復興したものである。
中央に開山大明国師等身大の木像を安置し、一隅に幽斎夫妻を始め細川家歴代の位牌所がある。
棟札には玄圃霊三の自筆によって慶長七歳舎八月吉日、住山霊三、復興沙門霊圭、大工木工藤原宗正、坂上新左衛門吉家と記されている。
◆本堂襖絵(非公開)
桃山画壇の偉才長谷川等伯の筆であり、三十二面全て重要文化財に指定されている。
本堂重建の慶長7年に制作されたもので、等伯64才晩年の傑作である。
中央の室に禅宗祖師図、上間に高士騎馿図、下間に松鶴と夫々趣きの変わったものが描かれている。
等伯は画題の多彩な事で知られているが、当庵の禅宗祖師図の如く禅宗の祖師の行状、逸話を題材とし禅の鋭く且つ厳しいはたらきを描き出したものは他に類例を見ず恐らく当庵のものが唯一であろうと思われる。
豪放とも表現しがたい筆致の上に等伯晩年の作風を伝えるものとして有名である。
◆庭園
本堂前庭(東庭)と書院南庭とに分かれる。東庭には枯山水で正門より本堂に至る幾何学的な石畳を軸として配するに数箇の石と白沙を以てし、これに緑苔を添えたものである。二条の石畳の中で正門より本堂に至るものは恐らく暦応4年当庵建設当初のものと思われるが一方の短いものは幽斎の廟所に向ふもので、慶長15年幽斎没後に設けられたものである。
書院南庭は庭園の根本的構想或は設計とも言うべき地割の上から見ると明らかに鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えている。特に中央の出島にそれが顕著である。即ち書院側より長大な出島を作り、向い側からやや小さい出島を配し、之等をさながら巴形に組み合わせることによって東西大小の二池を区切って居る処、また大小の出島を作り池庭の汀の線に多くの変化を見せている事、或いは東池を西池より小にし之になだらかな斜面の堤を設けるなど、東池瀧組付近の石組に残る手法と共に暦応4年本庵創建当時に作庭されたものであることを物語っている。
東方築山付近わずかに慶長重建の際に改造したらしい趣きが見られるのと、更には西池蓬莱島を設け石橋を作るなど明治初年に著しい改造を行った為一見すると明治調が強く感じられるのが惜しまれる。
幸いにも改造が庭の生命ともいうべき地割にまで及ばなかったのがこの庭の風趣をして南北朝の古庭らしい高雅さを保持せしむる所以であって、最初作庭の時最も苦心した地割の美しさを入念に味得して欲しい処である。
◆その他
当庵には少なからぬ古美術品を所蔵するが中でも国内唯一といわれる大明国師自讃の肖像は国師の筆跡としてこれのみで重文に指定されている。聖一国師自讃像一幅、平田和尚自讃像二幅、細川幽斎夫妻像二幅等はいづれも重文指定である。
墓地には幽斎夫妻の墓、細川忠利遺髪塔の外、細川家の墓多数があり、幕末の勤王詩人梁川星巌夫妻、幕末の学者で維新政府の参議であった横井小楠、近くは京都新聞創刊の功労者村上作夫、堀江純吉等の墓もある。