真宗大谷派の本山で、真宗本廟といい西本願寺と区別して一般に東本願寺と呼ばれている。 4252
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東寺(教王護国寺)
護王神社
桓武天皇に遷都を進言し、平安京の都造りを推し進めた和気清麻呂(わけのきよまろ)とその姉広虫(ひろむし)を祭神とする神社。 もとは、神護寺境内にあったが、明治19年(1886)この地に移された。 広虫が慈悲深く、京中の孤児を養育したことにより子育て明神と呼ばれ、育児の神として信仰される。 拝殿の前に狛犬(こまいぬ)のかわりに猪像があるが、これは清麻呂を猪が守護したという故事にちなむ。11月1日に亥子(いのこ)祭がある。 当社は、現在に至るまで2600年以上ものあいだ保たれ続けてきた日本の皇室の血統の護持に 著しい功績を残した、歴史上に実在するところの2人の人物、すなわち和気清麻呂公主その姉君である和気広虫姫とを、神々としてお祀りするものであります。 和気清麻呂公は、護玉大明神(王の情け深い守護神)として崇められており、また和気広虫姫 は、子育明神(母と子どもの守護神)として尊崇されております。これらの神々は、およそ 120 年前にご社殿が建てられた、ここ護王神社において奉斎されておりますロ ところで、猪は護王大明神の使者として信じられており、拝殿の両脇には、守護者として猪の石像が立っています。 一対の石造りの犬(狛犬)が、日本の神社の守護者として立っているのが一般的ですが、ここでは非常に珍しい猪の守護者(漁船をご覧になるととができます。それゆえ、当社の神は、十二支の猪年(亥年)にお生まれになった方々から敬意を払われております。 参拝される方はどなたでも、護王神社の神々によって守られます。悪運や災難を遠ざけるばかりでなく、長距離の旅の安全も守られることでしょう。また、和気清麻呂公の脚が回復されたことにちなみ、足腰の難儀が快復すると信じられております。また、和気広虫姫は、戦摘により身寄りをなくしだ子供たちを引き取り育てられたことから、博愛慈悲の神様として崇敬されております。 ◆和気清原手呂公といのしし 769 年、僧である弓削道鏡は、称徳女帝への影響力によって、皇位の継承をもくろんでいた。 宮廷官僚で、あった和気清麻呂公は、皇位継承についての助言を請うために宇佐八幡へ向かうよう、称徳天皇の勅命を受けた。 清麻呂公は、以下のような託宣を受けた。すなわち、「わが国は有史以来「君臣の分」が定まっている。皇位は、天皇の子孫によってのみ受け継がれることができるのであり、臣下を君主とするようなことは決してありえない」。さらには、「したがって、皇位をのっとろうとたくらむ邪悪な者は、速やかに排除されなければならない」という信託である。清麻呂公はこの信託を持ち帰り、偽りなく称徳女帝〈復奏(報告)された。しかしながら、この行いによって、清麻呂公は道鏡の恨みを買うこととなった。 道鏡の復讐を受けて、清麻呂公は大隅(鹿児島県)へ流された。九州への長く惨めな旅の途中で、清麻呂公は宇佐の大神に、真実の信託を下されたことへの大いなる感謝を示したいと願われていたが、やがて豊前の国(大分県)にさしかかられた。すると、突然、清麻呂公の乗った奥が、300頭もの猪によって取り囲まれたのである。猪たちは、清麻呂公を、そとから40キロばかりはある宇佐八幡まで無事にお送りした。同時に、深い傷を負われていた清麻呂公の足の傷も、奇跡的に癒えたのである。これらの伝説は、日本後記の巻八の 792 年から833 年についての記事に収められている。
大徳寺
臨済宗大徳寺派の大本山で龍宝山と号する。 鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提をとむらうために総見院を建立併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。 勅使門から三門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。千利休によって増築された三門二階部分を金毛閣と称し、利休の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休自決の原因となった。 本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第の遺構と伝える唐門(国宝)がある。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。(10月第2日曜日公開)
今宮神社
平安期以前から疫病鎮めに疫神を祀った社があったといわれる。 994年(正暦5)都の悪疫退散を祈り、御輿を造営し紫野御霊会を営んだのが今宮神社の起りである。現在の社殿は1902年(明治35)の再建。 「阿呆賢さん」と呼ばれる神占石は叩くと怒るともいわれ、撫でて軽くなれば願いが叶うとされる。四面仏石(現在は京都国立博物館に寄託)などが有名。 4月第2日曜のやすらい祭は京の三大奇祭の一つ。 徳川五代将軍網吉の生母 桂昌院の氏神社として、良縁開運「玉の輿」のご利益を願う人で賑う。 ◆由緒 大国主命・事代主命・奇稲田姫命の三柱をまつる神社で正暦5年(994)に船岡の上に創立されたといわれ、疫病の神として信仰が厚い。一条天皇は疫病除のために御霊会を修せられ長保3年(1001)に初めてこの三柱を現地に勧請せられた。 本殿は明治35年(1902)の再建で、その西にある疫神社は本社が鎮座される以前からあったといわれ、素盞鳴命を祀る。 今宮の名は、この古い疫神社に対し、新しい宮を意味する名称である。 なお、4月の第2日曜日に当社で行う「安良居祭」は桜の開花の頃に行う病鎮めの祭事であり、京都の奇祭の一つとして知られている。
平野神社
原谷苑
京都御所
賀茂別雷神社(上賀茂神社)
上古この付近一帯に繁栄した賀茂氏が創祀した京都最古の神社である。ご祭神として賀茂 別雷神を祀る。賀茂伝説によれば賀茂氏の祖神建角身命の女玉依姫命(たまよりひめ)( ともに下鴨神社に奉祀)が瀬見の小川(賀茂川)を流れ下る丹塗の矢に感じて、別雷神( わけいかづちのかみ・大自然を支配する神)が出現したと伝える。 平安奠都(てんと)(794)とともに賀茂別雷神に対する信仰は高まり、特に五穀豊穣 の神の雷神を祭ることから農民の信仰を集め、全国雷神の中心となった。謡曲「賀茂」は この縁起を叙べて、五穀豊穣国土守護の神徳を讃えた曲である。皇室でも嵯峨天皇の弘仁元年(810)以来、内親王が斎王として奉仕される慣わしとなり、山城国一ノ宮とよばれて伊勢神宮と並ぶ崇敬を捧げられた。 社殿は21年毎に造営される慣例であったが中世以来中絶した。本殿(国宝)は流造神殿 の典型で権殿(国宝)とともに三間社流造、桧皮葺で文久3年(1863)の建築である。 この外社域にある中門、幣殿など40棟の建物の多くは寛永5年(1628)の造替で重 要文化財に指定されている。 毎年5月15日の賀茂祭は三大勅祭の第一で俗に葵祭の名で親しまれており、当日は平安 朝の古式ゆかしい行列も都大路に繰りひろげられる。さらに5月5日の競馬会(くらべう
鹿苑寺(金閣寺)
北山と号する臨済宗相国寺派の別格本山で、足利義満が応永4年(1397)に営んだ山荘・北山殿を、その死後、禅寺に改め、義満の法号をとって鹿苑寺と名付けたものである。 金閣(舎利殿)は、宝形造り(ほうぎょうづくり)こけら葺きの山荘楼閣で、初層は藤原時代の寝殿造り風、第二層は鎌倉時代武家造りの仏間風、第三層は禅宗仏殿風の様式をとり、二層、三層とも漆塗の上に金箔を押してある。 昭和25年(1950)に焼失し、昭和30年(1955)に再建され、さらに昭和62年(1987)に金箔張替修理が行なわれた。 壮大な池泉回遊式庭園は、特別名勝に指定され、池の北方には、萩の違い棚と南天床柱で名高い茶室・夕佳亭(せっかてい)がある。










