光則寺

「立正安国論」などによって日蓮聖人が佐渡へ流された時、弟子の日朗上人も、北条時頼の家臣であった宿谷光則の屋敷に捕えられました。やがて、光則は、日蓮聖人に帰依し、屋敷を光則寺としたと伝えられています。 境内の裏山には、日朗上人が捕えられていたといわれる土牢が残っています。 境内には法華経の信者だった宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩碑があり、樹齢200年といわれるカイドウの古木をはじめ、四季折々さまざまな花が見られる鎌倉有数の花の寺です。

高徳院

鎌倉大仏の名で親しまれている高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像は、1252(建長4)年から10年前後の歳月をかけて造立されたとみられる。 制作には、僧浄光が勧進した浄財があてられたという。鋳工として丹治久友、大野五郎右衛門の名を記す史料もあるが、原型作者も含め、創建に関わる事情の多くは謎に包まれている。尊像を収めていた仏殿は、1334(建武元)年と1369(応安2)年に大風で損壊したらしい。15世紀以後、同仏殿が再建された形跡は認められない。 国宝鎌倉大仏 この大仏像は阿弥陀仏である。源頼朝の侍女であったといわれる稲多野局が発起し、僧浄光が勧進(資金集め)して造った。零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して作ったものではない。初めは木造で暦仁元年(1238)に着工し六年間で完成したが、宝治元年(1247)大風で倒れたので、再び資金を集め、建長四年(1252)に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏殿を造って安置した。原型作者は不明であるが、鋳工として大野五郎右ェ門や丹治久友の名が伝へられる。大仏殿は建武元年(1334)と慶安二年(1369)とに大風に倒れ、その都度復興したが、明應七年(1498)の海潮に流失以来は復興せず、露像として知られるに至った。大正12年(1923)の大震災には台座が崩れ 仏像は前に傾いたが倒れなかった。大正14年(1925)台座を補強し仏像を台座に固定せしめる耐震構造の修復がなされた。昭和35年、36年(1960~61)の修理では、前傾している頭部を支える頚部の力を、強化プラスチックで補強し、大正修理でなされた耐震構造を改め、大地震の際は、台座と佛体が離れる免震構造が施された。この強化プラスチックの利用と台座の免震構造は、日本の文化財としては最初のものである。

安養院

尼将軍と称される北条政子が、夫である源頼朝の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した祇園山長楽寺が前身であると伝えられます。その後、鎌倉時代末期に善導寺の跡(現在地)に移って安養院になったといいます。安養院は北条政子の法名です。 延宝8年(1680)に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱がかつて建立した田代寺の観音堂を移します。こうして「祇園山安養院田代寺」となりました。

甘縄神明宮

和銅三年(710)8月行基の草創により染谷太郎時忠が山上に神明宮、麓に神輿山円徳寺を建立、後に寺号を甘縄院と名付けたことに始まるという。 また源頼義公が当社に祈願して八幡太郎義家を当地に生み、康平六年(1063)には当社を修復、永保元年(1081)には八幡太郎義家公が当社を修復したという。 「吾妻鏡」によれば、伊勢別宮として源頼朝公が崇敬し、文治三年(1186)10月、社殿を修理し、四面に荒垣及び鳥居を建てている。また建久五年(1194)までに頼朝公は三度、政子の方は二度、実朝公は一度参詣している。 「相模風土記」には「神明宮、里俗甘縄明神と唱う」「別当臨済宗甘縄院」とある。明治維新の神仏分離により、別当甘縄院は廃絶し、神明宮は明治6年村社に列格された。明治20年5月、五社明神社を合祀し、明治40年4月神饌幣帛料供進神社に指定された。昭和7年社号を甘縄神明神社と改称した。常には里人慣習で甘縄神明社宮と呼称している。 一、御祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 伊邪那岐尊(白山) 倉稲魂命(稲荷) 武甕槌命(春日) 菅原道真公(玉神) 一、御由緒 和銅3年庚戌(かのえいぬ)年(西歴710年)染屋太郎大夫時忠の創建です。 永保元年辛酉(かのととり)年(西歴1081年)源義家公が社殿を再建されました。 源頼朝公、政子の方、實朝公など武家の崇敬が篤く、古来伊勢別宮と尊稱されている鎌倉で最も古い神社です。 社殿の裏山は御興ヶ嶽(見越ヶ嶽とも書く)と言い、古くから歌に読まれています。 源頼義は相模守として下向の節、当宮に祈願し、一子八幡太郎義家が生まれたと伝えられています。 都にははや吹ぬらし鎌倉の             神輿ヶ崎 秋の初風

虚空蔵堂

アジサイ参道を下ると左手に鎌倉十井星月ノ井と当山所有の虚空蔵堂がある。 正・五・九月十三日には本尊を開扉し護摩供養を行う。(午前11時・午後2時)虚空蔵菩薩さまの功徳は智慧を授けて下さり、丑・寅歳の方の守り本尊である。