顕本法華宗の総本山。康応元年(1389)日什上人により、六条坊門室町(現在の、烏丸五条あたり)に創建。 度々の兵火にあい市内各地を移転。昭和43年に寺町二条から岩倉の地に移転。 境内には仏舎利を納めたインドブッダガヤ大塔を模した仏舎利塔がそびえる。 展示室には、娘道成寺で有名な安珍清姫ゆかりの鐘が安置されている。 本坊の雪の庭は、松永貞徳が造園した雪月花三名園の一つ。 ◆由緒 妙満寺を創建した日什大正師は、もと天台宗で名を玄妙といい、比叡山三千の学頭にまでなった人であるが、故郷の会津で日蓮聖人の教えに触れ、67才という高齢にもかかわらず宗を改め日蓮門下に入られた。 日什上人は、日蓮聖人の遺志である帝都弘通を想い御歳68にして都に上がり、時の帝・後円融天皇に上奏。二位僧都の位と「洛中弘法の倫旨」を賜り、康応元年(1389)六条坊門室町に妙塔山妙満寺を建立し、根本道場とした。 妙満寺はその後、応仁の乱など幾度かの兵火に遭い、そのつど洛中に寺域を移し興隆してきたが、天正11年(1583)秀吉の時代に寺町二条に移され400年にわたり「寺町二条の妙満寺」と親しまれてきた。 その後、都市化が進み日毎に増す喧噪と環境悪化を避けるため、昭和43年に「昭和の大遷堂」を挙行。現在の岩倉の地に移り今日に至る。 日什上人は稀代の碩学でありながら一巻の書物をも残さなかった。これは「その書物のために仏の教えを誤解されてはならない」と配慮されたためであり、釈迦牟尼仏より日蓮聖人に受け継がれた正しい教えを、自分の意見をはさまず素直に受け持つように戒めた。これを「経巻相承・直受法水」といい、妙満寺の宗是である。 ◆「雪・月・花」三名園の一 雪の庭 妙満寺本坊にある「雪の庭」は、俳諧の祖と仰がれる松永貞徳(1571~1653)の造営であり、貞徳は清水・北野(一説には祇園)にも同時に庭園を造ったとされる。 清水を「月の庭」・北野を「花の庭」(現存せず)と称し、それぞれが成就院という坊にあったことから成就院「雪・月・花」の三名園と並び称されていた。比叡の峰を借景にした冠雪の眺望が最も美しく、これが「雪の庭」と称される由縁である。当山の岩倉遷堂の際に成就院より本坊に移築した。 ◆霊鐘 安珍・清姫伝説の鐘 「鐘に恨みは数々ござる」で知られる紀州道成寺の霊話は長唄、歌舞伎等の芸能に取り入れられている。その物語に縁あるこの鐘は数奇な運命で当山に伝わった。正平14年(1359)3月11日、道成寺では安珍・清姫の伝説以来、永く失われていた鐘を再鋳し、鐘供養を盛大に営んだ。その席に一人の白拍子が現われ、呪力で鐘を落下させると、蛇身に変わり日高川へと姿を消した。その後、近隣に災厄が続いたため、清姫のたたりと恐れた寺は鐘を竹林に埋めたが、後にその詰を聞いた「秀吉根来攻め」の大将・仙石権兵衛が掘り起こし、京都に運び込み妙満寺に納めた。時の妙満寺貫首日殷大僧正の法華経による供養で怨念を解かれ、鳴音美しい霊鐘となった。 当山では、例年の春の大法要において鐘供養を営み安珍・清姫の霊を慰めており、道成寺を演じる芸能人はこの鐘に芸道精進を祈る。 ◆インドブッダガヤ型 仏舎利大塔 インド・ブッダガヤ大塔は、釈迦牟尼仏が覚りを開いた聖地にアショーカ王が妃元前200年頃建てた供養塔で、仏教最高の聖跡である。「釈迦牟尼仏の精神に帰れ」という妙満寺の教えの象徴としてこの大塔をイメージし、昭和48年に全国檀信徒の写経浄財によって建立されたのが、当山の仏舎利大塔である。ブッダガヤ大塔を型どったものとしては日本初の建築である。一階正面には釈迦牟尼仏坐像を安置し、最上階には古来より当山に伝わる仏舎利が奉安されている。 ◆加藤清正公肖像画 当山所蔵の名画として、土佐派中興・土佐光則による「加藤清正公肖像」がある。清正公は旗指物に南無妙法蓮華経のお題目を書くほどの熱心な信者であり「南無妙法達華経 従四位清正行年五十才」と自署した大手判(丈26cm)を当山に奉納している。 ◆松永貞徳肖像画 当山には松永貞徳の唯一の肖像画を所蔵している。雪の庭の作者である貞徳は連歌から俳諧を文芸として独立させ、後の松尾芭蕉にも大きな影響を与えた。寛永6年(1629)当山を会場に俳諧大興行が行われ、初めて俳諧が公式の場に登場することとなった。いわば当山は俳句発祥の地である。 ◆雪の庭由来 俳諧(俳句)の祖といわれる松永貞徳(1571~1653)の造営した庭 貞徳は寛永6年(1629)11月25日、当妙満寺を会場に正式俳諧興行として「雪の会」を催した これにより俳諧は連歌から独立した文芸として認められるところとなり、後に松尾芭蕉や与謝蕪村などを輩出して確立し今日に至っている 妙満寺は俳諧(俳句)発祥の地といえる 妙満寺の塔頭・成就院の時の住職日如上人は貞徳の門人であり、その縁からこの「雪の庭」を造営した。 清水寺本坊の「月の庭」・北野(一説に祇園)の「花の庭」(現存しない)とともに、いずれも成就院にあったことから成就院にあったことから成就院「雪・月・花の三名園」と並び称されていた 昭和43年妙満寺が中京区の寺町二条からこの岩倉の地に遷堂した際、石組をそのままに移築し本坊の庭として復興した その名の通り 冠雪の比叡山を借景とした眺望が最も美しい
下鴨・宝ヶ池・平安神宮
霊鑑寺
円成山と号し、臨済宗南禅寺派の禅尼寺である。 承応3年(1654)後水尾(ごみずのお)上皇が円成寺址に、皇女浄法身院宮宗澄尼(じょうほっしんいんのみやしゅうちょうに)を開基として創立され、隣地に荒廃していた如意寺(にょいじ)の如意輪観音像と霊鏡(れいきょう)とを併せまつられたことから霊鑑寺と名づけられた。 貞享4年(1687)、後西天皇当時の御所御殿(今の書院・居間)を寄せられた時、諸堂を現地に移建された。それまでは南の鹿ヶ谷(ししがたに)の渓流に沿っていたので、この寺を谷御所または鹿ヶ谷比丘尼(びくに)御所という。 代々皇女、皇孫女が住持され、明治23年(1890)までは伏見宮の尼僧が門跡(もんぜき)として在院された。 現在の本堂は、徳川家斉の寄進で、本尊如意輪観音像の傍の不動明王像は伝教大師の高弟智証大師(円珍)の作という。 後奈良(ごなら)・正親町(おおぎまち)・後水尾・後西天皇の宸翰(しんかん)をはじめ、親王・女王の真筆・東福門院の十二単衣・歴代門跡の遺品真蹟など皇室との由緒を伝える宝物が多い。 庭は、江戸初期の作で、般若寺型石燈籠(いしとうろう)や後水尾上皇御遺愛の散椿(ちりつばき)が名高い。 ◆由緒 円成山と号する尼門跡寺院で、臨済宗南禅寺派に属す。承応3年(1654)後水尾院の勅許により、同皇女多利宮を開山として建立した寺である。当初は現在地より少し南の渓谷沿いに位置していたことから「谷の御所」とも呼ばれていた。代々皇女、皇孫女、伏見宮の姫宮が住職を継承され、歴代天皇の宸翰をはじめ、親王、宮家の真筆、御所人形など皇室との由緒を伝える宝物が多い。本尊の如意輪観音像は当寺の東方山中にあった如意寺(廃寺)の本尊であったといわれている。 境内は、石段を登ったところに西面して表門が開き、その北東に玄関、書院が続いている。書院は後西院の御所を移建したもので、この時に現在のところに講堂が移された。書院の東、小高くなったところに本堂が南面して建ち、本堂の前方には鎮守社が建てられている。徳川家斉の寄進と伝えられる本堂もその後増改築されているが、当初の形態をよく残しており、院御所の旧殿遺構である書院を中心に尼門跡の格式を備え、一連の建物は江戸時代における尼門跡の寺院の景観を伝えている。境内庭園の南西隅に生えている「日光椿」は当寺が創建された頃に植栽されたものと伝えられている。 ◆庭園 主として書院、本堂の南面に広がる池泉鑑賞式庭園で東山連峰の大文字山より西にのびる稜線を利用して造られた庭園で、主庭は書院南面の池庭で、池と書院の間には白砂敷きとなっており、地紋が描かれている。池の東南隅に滝石組があり、かつては山中からの谷水が流れ落ち、池にかなりの水があったが現在は枯れている。護岸の石組も豊富で、山裾部分には大ぶりの立石を用い、池尻近くに2枚の板石を渡し、この石橋を渡った東側に般若寺型の石燈籠をたて、西側には2枚の燈籠塔を据えている。書院の東側と本堂との境の崖地には土留めを兼ねた石組が施され石階段で本堂への通路としている。また、春は椿、つつじ、秋は紅葉が庭園の季節感をひきたたせている。なかでも、椿の銘種が多数あり、椿の季節には庭内を種々の椿の花でうずめられる。 ◆天然記念物:日光椿(京都市指定) 雄しべが小さな花弁状になって円形にまとまる「カラコ咲き」の園芸品種のツバキで、この品種の原木に準じるものと考えられる。樹高6.96m、地上0.4mのところでに東幹と西幹に分かれ、幹周は地上0.5mで東幹0.94m、西幹に0.75mに達し、また、それぞれの幹はさらに枝分かれし、胸の高さでは、10本の大枝に分かれており、低い位置から枝分かれしているため、全体としてこんもりとした樹形をしている。樹齢300年以上といわれる。
聖護院門跡(森御殿)
満足稲荷神社
鷺森神社
貞観年間(859-77)創建と伝えられ、もと修学院離宮地にあったのを元禄年間(1688-1704)に現在地に遷座。スサノオノミコトを祀り、修学院、山端地区の産土神である。 また境内には触れると夫婦和合や良縁が授かるという「八重垣」の石がある。 5月5日の「さんよれ祭」は少年達が着物姿に紅たすき、菅笠姿で手には扇子を持ち‘さんよれ、さんよれ’のかけ声で鉦、太鼓で神輿とともにねり歩く。 巡行コースは赤山禅院発→氏子町→鷺森神社着。 参道は紅葉の美しさでも知られている。 建立:平安時代(貞観年間(859-77)) ◆由緒 当神社創建は貞観年間にして今より壱千百年余り前 比叡山麓の赤山明神の辺に祀られてあったが応仁の乱の兵火に罹り社殿焼失し、今の修学院離宮の山中に移し祀られてあった後水尾上皇この地に離宮を造営されるに当たり此の鷺森に社地を賜り元禄2年(西暦1689年)遷座(せんざ)相成り修学院山端地区の氏神神社として現在に至っている。 後水尾上皇も霊元法皇も修学院行幸の砌(みぎり)には当神社へも参拝され霊元法皇享保14年2月3日行幸の御時 をりふるを見し 鷺森 すぐかてに わけきて今日はむかふ神垣 との御製あり 毎年5月5日の神幸祭には霊元法皇乗御の鳳輦を改装した神輿の渡御(とぎょ)と共に”さんよれ”という踊と囃が珍しく少年達に菅笠に紅だすき姿で練り歩く風情が古風豊かで可憐である。 現本殿は安永4年(西暦1775年)に改築されたもので緑濃き神域には桜樹、楓も多く四季幽鳥の声を聞く閑静な境内であり御祭神の御神徳により広く人々の崇敬を集めている。 御祭神 素盞嗚命 神号を鬚咫天王と称し奉る 御神徳 家内安全、旅行安全、諸願成就 例祭日 5月5日