智積院

真言宗智山(ちさん)派の総本山で全国に3000余の末寺がある。 もと紀州根来山(ねごろ)の学頭寺智積院であったが、豊臣秀吉にせめられたとき、京の学頭玄宥(げんゆう)僧正は、難を京都に避け、後に徳川家康の帰依を受けて慶長5年(1600)この地の祥雲寺を賜わり、智積院の名を継いだ。祥雲寺は、秀吉が長男棄丸(すてまる)の菩提のため建立した寺で、当時は東山第一といわれた。 収蔵庫にある豪華な襖絵(国宝)は祥雲寺以来のもので、長谷川等伯の筆といわれ、桃山時代の代表的障壁画として知られている。このほか、張即之筆金剛経(国宝)、南画の祖といわれる王維の瀧図(重要文化財)をはじめ、仏画・経巻など多数の指定文化財を蔵している。 庭園(名勝)も同じく桃山時代の作庭といわれ、築山と苑池からなる観賞式林泉で京洛名園の一つに数えられている。 ◆由緒 智積院は真言宗智山派の総本山であります。真言宗は弘法大師空海上人に依り開かれましたが、降って三百年後平安末期に興教大師覚鑁上人が現われ、衰微した宗風と真言教学を振興し、刷新されました。その教学は鳥羽上皇の信任を得、高野山に大伝法院、密厳院等を開かれ、学徒の教育に当られました。 晩年故あって、根来塗で有名な紀州(和歌山県)の根来山に移られました。時代を追うごとに学徒の数も増加し、戦国時代の最盛期には坊舎二千七百余、住侶六千、所領七十万石といわれております。 その根来も天正十三年(1585)住山の僧兵が時の為政者豊臣秀吉に刃向って、一山ことごとく焼払われ、滅亡してしまいました。その時、根来山塔頭院の学頭(今の学校長)をされていた方が、智積院の玄宥僧正でした。玄宥僧正は多くの学僧と共に、難を高野山、京都にさけ根来の再興を願われていました。 降って徳川家の時代となり、祐宜僧正、日誉僧正の代になりますと、智積院能菓(住職)の学識に日頃帰依されていた家康公は、秀吉が愛児鶴松の菩提を葬う為に建立した祥雲禅寺を、元和元年(1615)五月大阪城が落ちると共に寄進しました。時の能化は之を五百仏頂山根来寺智積院と改名し、以来法灯絶ゆることなく今日に至っています。 しかしこの間、再度の火災に遇い、特に明治15年一山の中心である金堂を焼失以来、宗団、総本山の宿願であった新金堂を昭和48年の宗祖弘法大師ご誕生壱千二百年記念事業として建立を計画、昭和50年6月15日、一宗の風格ある堂宇と、昭和の祈りをこめた本尊大日如来の尊像が造顕されました。その豪華さは東山随一を誇りうる壮麗な建物であります。 宗団には全国に有名な成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院等の大本山を初め、東京都の高幡山金剛寺、栃木県の出流山満願寺、名古屋市の大須観音宝生院を別格本山として現在全国に三千余力寺を擁し、また、全国約三十万人の檀信徒の総菩提所、総祈願所としての御本山であります。 ◆障壁画(国宝) 智積院に現存する絵は楓図、桜図、松に秋草図、松に黄蜀葵図、雪松図、松に立葵図等です。しかし、過去に何度か不慮の災禍に遭い、原形の四分の一以下にカットされております。作者は長谷川等伯一派。等伯は石川県の七尾で生れ、墨絵を専門に仏画や肖像画を描いていました。上京して狩野派の門をたたきましたが作風が合わず、一派と対立する人となりました。 その頃千利休と知己になり、大徳寺に出入しているうちに所蔵の名画に接し、独自の画風を創造して行きました。この時期の作品では松林図や枯木猿猴図が有名です。祥雲禅寺の障壁画にあっても、水墨画と同様独自のみずみずしい画境を示しました。特に桜図と楓図は、日本の壁画を代表するものとして世に知られています。 桜図は長子久蔵二十五才の作で、二本の桜を中心に、空間には弾力のあるしなやかな枝、画面全体に胡粉で盛上げた直径六センチもある八重の花を蒔き散し、地面には野の草花を配しています。他に立体感を作り出す金雲や群青の池。画面は大胆な構図のもと、金と白とを基調とし、春爛漫の景を描き出しています。作者久蔵は二十六才の若さで生を閉じていますが、翌年父等伯(五十五才)が人生無常の感を振りきり、自己の生命力を画面一杯に傾むけて楓図を描さ出しました。 画面中央に描き出された幹や枝の激しい動き、紅葉や秋草の写実性、空や他の抽象的な表現、また色彩は強烈なコントラストとパステルカラー調の配色を施しています。それらの全てが和合し生々と明るく絢爛豪華に描かれています。画壇の主流をなす狩野派の人たちが、威圧的か装飾的かの傾向に走ったのに対して、長谷川派は理想を見事に達成しました。彼らの会得した不変の法は、近代の画壇にも大きな影響を与えています。 ◆名勝庭園 智積院の庭園は、利休好みの庭と伝えられ中国の廬山を形どって造られています。正面右側、石橋より奥の方は祥雲禅寺時代に造られたもので、桃山時代の特色である自然石のみを用い、刈込を主体とし、また庭の外にある大木をも借り、深山の中にあるような奥行のある野性的な雄大さ勇壮さを感じさせてくれます。滝の落ちている正面を見ますと、石組と植込とが交互に並び、洗練された美しさが築庭の極限を表現し、江戸時代好みの感じを与えてくれます。これは智積院第七世運敞僧正(江戸三大名墨家)によって修築されたものです。 また池が建物の下に入りこんでいる所は、私たちを寝殿作りの泉殿か釣殿に居るように思わせてくれます。全体的に見ますと、庭自体は小さな面積にもかかわらず、他に類の無い雄大さと重厚味を感じさせ、その反面小さなもの特有のきめの細い所を見せてくれます。数多い名勝庭園の中でも傑作の一つとして世に知られています。この庭の見頃は植込の種類が多い為に、四季折々に私たちの日を心を楽しませてくれますが、特に五月下旬から六月下旬にかけてのサツキの頃が庭に一段と艶やかさを添えてくれます。

六波羅蜜寺

真言宗智山派の寺で、西国33所観音霊場の第17番札所として古くから信仰されている。 本尊十一面観世音立像は、天暦5年(951)に空也上人が疫病平癒のため開創した当時のものといわれる。 空也上人は歓喜踊躍(かんぎゆやく)念仏唱和の功徳を広めた六斎念仏の始祖である。 往時は寺域も広く、平氏の邸館や鎌倉幕府の探題も置かれ、源平盛衰の史跡の中心である。現在、旧堂や末寺の諸像を伝存し、本堂も鎌倉様式を伝える遺構である。 地蔵菩薩立像は今昔物語にも伝えられ、定朝(じょうちょう)の作といわれる。 運慶の菩提寺十輪院の本尊地蔵菩薩坐像や脇侍運慶、湛慶坐像もあり、運慶とその子湛慶、運助の作という。 その他、康勝作の空也上人立像、長快作の弘法大師像、閻魔王坐像、平清盛像など鎌倉時代の傑作も多く、美術史上貴重な存在である。境内に阿古屋塚や清盛の石塔がある。 ◆由緒 天暦5年(951)、疫病平癒のため空也上人により開創された真言宗智山派の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十七番札所として古くから信仰を集めている。空也上人の自刻と伝えられる十一面観音立像(国宝)を本尊とする。 空也上人は醍醐天皇の第2皇子で、若くして出家し、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えたことで知られ、今に伝わる六齋念仏の始祖である。 往時は寺域も広く、平家の邸館や鎌倉幕府の探題が置かれるなど、源平盛衰の史跡の中心でもある。 宝物館には定朝の作といわれる地蔵菩薩立像のほか、空也上人立像、平清盛坐像、長快作の弘法大師像など数多くの重要文化財を安置し、境内の十輪院が仏師運慶一族の菩提寺であったことから、本尊の脇に祀られていたという運慶・湛慶も所蔵している。 年中行事として、正月三が日の皇服祭、8月の萬燈会、かくれ念仏として知られる12月の空也踊躍(ゆやく)念仏(国の重要無形民族文化財)が有名である。 ◆西国三十三ヶ所観音霊場 第十七番札所 六波羅密寺 御詠歌 重くとも五つの罪はよもあらじ 六波羅堂へ参る身なれば たとえ五つの大罪(五逆罪=殺父 父を殺すこと、殺母 母を殺すこと、阿羅漢 聖者を殺すこと、出仏身血 仏の身を傷つけて出血させること、破和合僧 教団の和合を乱し分裂させること)を犯した者でも、御観音様と御縁を結び今後は六つの波羅密を日々実践する事により罪は消えて行くであろう 六波羅蜜とは、この世に生かされたまま、仏様の境涯に到るための六つの修行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智彗)をいいます。波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に到ることです。

御寺 泉涌寺

真言宗泉涌寺派の総本山で、皇室とのかかわりが深く、「御寺(みてら)」として親しまれている。 寺伝によれば、平安時代に弘法大師によって営まれた草庵を起こりとし、法輪寺(後に仙遊寺と改称)と名付けられた後、建保六年(1218)には宋(中国)から帰朝した月輪大師(がちりんだいし)・しゅうじょう(しゅんじょう)に寄進され、大伽藍(がらん)が整えられた。その際、境内に泉が涌き出たことにちなんで泉涌寺と改められた。仁治三年(1242)の四条天皇をはじめ、歴代の多くの天皇の葬儀が行われ、寺内に御陵が営まれており、皇室の香華院(こうげいん)(菩提所)として厚い崇敬を受けてきた。 広い境内には、運慶の作と伝えられる釈迦仏、阿弥陀仏、弥勒仏の三世仏を安置する仏殿(重要文化財)のほか、釈尊の仏牙(ぶつげ・歯)を祀る舎利殿、開山堂、御所の建物を移築した御座所、霊明殿(れいめいでん)など数多くの伽藍が建ち並んでいる。 寺宝として月輪大師筆の「泉涌寺勧縁疏(かんえんそ)」(国宝)、楊貴妃観音堂に安置される聖観音像(重要文化財)など、多数の貴重な文化財を所蔵する。 また、謡曲『舎利』の舞台としても有名である。 山内の塔頭(たっちゅう)には七福神が祀られており、毎年成人の日に行われる七福神巡りは多くの参拝客でにぎわう。 ◆由緒 東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ泉涌寺。ひろく「御寺(みてら)」として親しまれている当寺は。天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだ事に由来する。法輪寺と名付けられた後、一時仙遊寺と改称されたが、順徳天皇の御代(建保6年・1218)に当寺の開山と仰ぐ月輪大師しゅんじょうが時の宋の法式を取り入れてこの地に大伽藍を営み、寺地の一角より清水が湧き出た事により寺号を泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れる事なく涌き続けている。 大師は若くして仏門に入り、大きな志をもって中国の宋に渡り深く仏法の奥義を究められた。帰国後は泉涌寺に於いて戒律の復興を計り当寺を律を基本に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺として、大いに隆盛させた。時の皇室からも深く帰依せられ、仁治3年(1242)に四条天皇が当寺に葬られてからは、歴代天皇の山陵がこの地に営まれるようになり、爾来、皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めている。当寺が「みてら」と呼称される所以である。 境内には仏殿・舎利殿をはじめ、天智天皇以降の歴代皇族の御尊牌を祀る霊明殿などの伽藍を配し、春の新緑、秋の紅葉には一段とその美しい姿を映えさせている。 ◆霊明殿 現在の霊明殿は明治17年(1884)に明治天皇により再建されたもので、入母屋造り桧皮葺き、外観は宸殿風である。内部は内陣・中陣・外陣にわかれており、特に内陣は五室の宮殿となっている。天智天皇以来の歴代皇族の御尊牌が奉祀されており、皇室との御縁も深く、内部の荘厳具は明治天皇以降の御皇族から御贈進されたものである。 ◆仏殿・舎利殿 仏殿は寛文8年(1668)に徳川家綱により再建されたもので、重層入母屋造り本瓦茸、唐様建築の代表作である。内部の鏡天井には狩野探幽筆の龍図が描かれ、裏堂の壁には同じく探幽筆の白衣観音像が見られる。 舎利殿はもと御所にあった御殿を重層に改装したもので、内陣の宝塔内に仏舎利を安置する。天井には狩野山雪筆の龍を描き、広く「鳴龍」として知られている。 ◆三尊仏 仏殿内陣には伝運慶作の釈迦・弥陀・弥勒の三尊仏が安置されている。三世にわたって人類の安泰と幸福を守り、永遠の繁栄を願う人々の信仰を集めている。 ◆楊貴妃観音像 楊貴妃は唐の玄宗皇帝の妃として、又絶世の美女として知られる。玄宗は亡き妃を偲んで、等身坐像にかたどった聖観音菩薩像を彫らせた。この像は建長7年(1255)湛海律師によって当寺に請来された。その像容の美しさと尊さは人々の心を捉えて離さない。 ◆御座所 現在の御座所は、霊明殿再建時に明治天皇により御所内の御里御殿が移築されたものである。御殿西の御車寄に続く一棟は六室に分かれ南東には玉座があり、東北の御室はかつて皇后御産の間であった。玉座の間は一段と高くなっており、特徴ある違い棚が見られる。御室の中央には光格天皇御遺品の桑製の御机が置かれている。 ◆海会堂 海会堂は御所の御黒戸を移築したもので、歴代天皇及び皇族の御念持仏が祀られている。御仏体の御姿は様々であるが、各時代の代表的仏師が心を込めて彫像しただけあって、いずれも素晴らしい御像である。

圓徳院

高台寺の塔頭寺院。 開基は、北政所の甥木下利房。方丈の襖絵は長谷川等柏の筆(重文)。 現在は復元画を展示。北庭の枯山水は桃山時代の風香を伝え国名勝指定を受けている。臨済宗。 建立:1605(慶長10)年建立、寛永9年頃寺院となる 伏見城の化粧殿及び前庭(北庭)を移築し、北政所がその晩年を過ごした。 化粧御殿は焼失したが、前庭は北庭として残っている。 ◆由来 豊臣秀吉の没後、その妻北政所ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に、高台寺建立を発願し、慶長10(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住んだ。爾来北政所を慕い大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が訪れたと伝えられている。ねね、58歳のことである。これが今日の圓徳院の起こりであり、ねねは77歳で没するまでの19年間をこの地で余生を送り、この地は北政所の終罵の地となった。 そのねねを支えていたのが兄の木下家定とその次男の利房である。圓徳院は利房の手により高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開かれ、高台寺の塔頭とされた。寛永9年、ねねの没後9年目のことである。 ◆三面大黒尊天の由来 東山圓徳院の三面大黒天は、福徳信仰の象徴として豊臣秀吉が念持仏としたといわれる珍しい尊像であります。 三面大黒天とは、大黒天、毘沙門天、弁財天の三天合体の霊像であります。 大黒天は、いうまでもなく福の神であり、毘沙門天は、勝利あるいは子宝の神であり、弁財天は、音楽・知恵・情操等をつかさどる学問、芸術の神であります。 この開運三面大黒天を信仰されることによって皆様方の家運益々の隆昌と、ご家族の無事息災を得られることをお祈り致します。 ◆桧垣の手水鉢 宝塔の笠を利用し、笠石を横にして、その商を凹字形に切り取り手水鉢としたものである。笠石は室町時代の作と考えられている。 ◆正門 当院は木下家初代以降歴代藩主の墓が置かれ、木下家の屋敷となっていた。そのため正門は長屋門の形態がとられている。 ◆北庭 もともと伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したもので、当時の原型をほぼそのままに留める桃山時代の代表的園のひとつである。賢庭作で後に小堀遠州が手を加え池泉回遊式だが枯山水となっている。 原点となるのは東北部で、枯滝石組を構成し、築山を中心にして左右に多数の石組を二等辺三角形にまとめて数群展開させ、あるいは蓬莱石組を作る。(池泉にかかる数個の橋は見事巨石をあてているが、その厚さからくる迫力はこの庭の特筆すべき点でもあろう)このように多数の巨岩大岩ふんだんに置かれている庭は珍しく、これが桃山時代の豪華さ、豪胆さである。 ◆方丈 平成6年後藤佐雅夫師指導のもと山本長宏氏が方丈の解体修理を行った。 路地及び周辺庭園は北山安夫氏が整備をした。 ◆書翰・襖絵 桃山時代の気風そのままに、美しい辻が花染のきれで表装された、戦国武将の書翰や絢湖豪華な襖絵を所蔵している。

豊国神社

豊臣秀吉は没後、東山阿弥陀ヶ峰に葬られ、壮麗な豊国社に祀られたが大坂夏の陣後、徳川家康の手で取壊された。 現在の社殿は1880年(明治13)に再建のもの。 唐門(国宝)は伏見城の遺構で桃山期の逸品。 境内の宝物館には秀吉遺品を納めた唐櫃(重文)も。 宝物館拝観有料。 9月18日は「例祭」で、旧暦8月18日が祭神・豊臣秀吉の命日に当たる。 翌9月19日、茶道・藪内流家元による献茶式がある。 ◆由緒 豊臣秀吉を祀り、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。  慶長3年(1598)に63歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯の中腹に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦)には、広壮豪奢な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長9年(1604)8月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。 豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治31年(1898)には、荒廃していた廟墓も、阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。  正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。

養源院

豊臣秀吉の側室淀君が父浅井長政の追善のため文禄3年(1594)成伯法師(長政の従弟)を開山として建立した。 寺号は長政の法号養源院をとったものである。 もとは天台宗であったが、今は浄土真宗遣迎(けんこう)院派に属する。 建立後はほどなく火災にあったので、元和7年(1621)徳川秀忠夫人崇源院が伏見城の遺構を移して本堂を再建した。 この本堂の左右と正面の3方の廊下の天井は、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前、家康の命を受けて伏見城を死守した鳥居元忠以下の將士が自刃した時の板間を菩提のため当寺の天井に張ったものといわれ、俗に、血天井と呼んで知られている。 本堂の襖及び杉戸の絵(重要文化財)は俵屋宗達の筆と伝え、杉戸には唐獅子・白象・麒麟、襖には松を描いている。 ◆由緒 豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政の追善の為、長政の二十一回忌に秀吉に願って養源院を建立し長政の従弟で叡山の僧であった成伯法印を開山とし、長政の院号を以って寺号としたのは文禄三年五月(1594)である。其後程なく火災にあい、元和七年(1621)徳川秀忠が夫人崇源院殿の願により伏見城の遺構を移建したのが今の本堂である。以来徳川家の菩堤所となり、歴代将軍の位牌を祀って居る。 血天井、此の本堂の左右と正面の三方の廊下の天井は伏見城落城の時、烏居元忠以下の将士が城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を天井として其の霊を弔ったもので世に血天井と称して名高い。 宗達襖杉戸絵、此の本堂の襖(十二面)杉戸(八面)の絵は俵屋宗達の筆で、自刃した将士の英霊を慰める為に「お念仏、御回向」にちなんだ絵を画いたもので、杉戸には象や獅子や麟麟等の珍しい行動を画いて居り其の表現が奇抜で新鮮美に溢れ、又曲線美の効果が素晴らしい。 狩野山楽の襖絵、玄関の左の方に太閤秀吉の学問所とした牡丹の間がある。狩野山楽が牡丹の折枝の散らしの図案的な襖絵を描いている。 鶯張廊下、本堂の廊下は総て左甚五郎の造ったうぐいす張りで有名である。

六道珍皇寺

大椿山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。 当寺は、平安遷都以前、東山阿弥陀ヶ峰山麓一帯に居住した鳥部氏(とりべし)の氏寺(宝皇寺)が前身とも、空海の師、慶俊僧都が創建したものとも伝えられているが、正平年間(1346~70)に、建仁寺の僧、良聡によって再興され、現在に至っている。 薬師堂には、木造薬師如来座像(重要文化財)を安置し、閻魔(えんま)堂には、木造閻魔大王座像と小野篁(おののたかむら)の立像が祀られている。 また、当寺門前は、俗に「六道の辻(ろくどうのつじ)」と呼ばれ、毎年8月7日から10日までの4日間は、「六道詣り(ろくどうまいり)」といわれる精霊迎えのため、多くの参詣者で賑う。 「六道」とは、一切の衆生が生前の善悪の業因によって必ず往くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6種の霊界のことで、参詣者は、この期間、先祖の精霊を迎えるため、高野槇を買い求め、鐘(迎え鐘(むかえがね))を撞き、本堂で経木に戒名を書いて水回向を行う。 なお、境内裏庭には、小野篁が冥土通いをしたといわれる井戸がある。 ◆お迎え鐘 この鐘楼にかかる鐘は、毎年の盂蘭盆会にあたり精霊をお迎えするために撞かれるが、古来よりこの鐘の音は、遠くは十萬億土の冥土まで響き渡り、亡者はそのひびきに応じてこの世に呼び寄せられると伝わることから「お迎え鐘」と呼ばれている。 「古事談」によれば、この鐘は当寺を開基した慶俊僧都が作らせたもので、あるとき僧都が唐国に赴くとき、この鐘を三年間、この鐘楼下の地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立った。 ところが、寺僧は待ちきれず、一年半ばかりたって掘り出して鐘を撞いたところ、遥か唐国に居る僧都に聞こえたという。僧都は、「あの鐘は、三年間地中に埋めておけば、その後は人の手を要せずして六時になると自然に鳴るものを、惜しいことをしてくれた」と、大変残念がったという。 しかし、そんなはるか彼方の唐国にまでも響く鐘なら、おそらく冥土まで届くだろうと信じられ、このような「お迎えの鐘」になったと伝えられる。 かかる話は「今昔物語」巻三十一にも同工異曲(どうこういきょく)の物語で出ている。こうした由来の鐘であるから、お盆の時期にはこのお迎え鐘を撞く順番を待つ参詣人の列が八坂通りまで蜿蜒(えんえん)と続く。 そんな風景をみて昭和初期の歌人、川端茅舎は次のような俳句を詠んでいる。 金輪際 わりこむ婆や 迎え鐘 迎え鐘 ひくうしろより 出る手かな 毎年お盆の時期になると、このお迎え鐘は千年もの長きにわたり澄んだ音色を時空をこえて冥土まで響かせ、旅立たれた多くの精霊たちを晩夏の都に迎えている。そして、また来るお盆を迎えるまでは、この寺を訪れる多くの人たちの心の安らぎと幸せをもたらす「慈しみの鐘」として、その穏やかな音色は渇いた心をやさしく癒してくれる。 ◆冥土通いの井戸 当寺の本堂裏庭の北東角(格子窓より見て右手奥辺り)にある井戸は、平安時代の昔に篁が冥府の閻魔庁の役人として現世と冥界の間を行き来するのに使ったところといわれている。 いい伝えによれば、篁は亡き母御の霊に会うために、この鳥辺野にある当寺を訪れ、冥土に通じるといわれるこの井戸を使ったのが最初と言われている。 また、「矢田地蔵縁起」にある大和の国(奈良県)金剛山寺(矢田寺)の漫慶上人が、篁を介しての閻魔大王の招きに応じて、衆生を救うための戒行である菩薩戒を授けに閻魔庁へ赴くいたのも当寺の井戸からとされるなど、珍皇寺の井戸と篁さらには冥界を結びつける不思議な伝説は数多くある。 このように当寺にある井戸は、篁が冥土通いのために往来したところとして知られるが、その帰路の出口として使いこの世に戻ったところが、嵯峨の大覚寺南付近の六道町の一郭に明治の初め頃まであったとされる福生寺の井戸であるとする説もある。 しかし、残念ながら今はその遺址もなく、井戸の伝承はかつての福生寺の本尊として伝わる地蔵菩薩とともに清涼寺西隣の薬師寺に引き継がれている。 これは、平安の昔には珍皇寺あたりの洛東の鳥辺野とともに嵯峨の奥、化野(あだしの)もまた当時の墓所であったことより、ここにもやはり六道の辻は存在していたとすれば、閻魔王宮に出仕していた篁が、冥府よりの帰路に出口としていた説もうなずけるところである。 尚、当寺の冥土通いの井戸の傍の少祠には、篁の念持仏であった竹林大明神が祀られている。

京都霊山護國神社

幕末の動乱期に活躍した維新の志士たちを奉祀すべく、明治元年に「霊山官祭招魂社」として全国で初めて創立された。 昭和14年京都霊山護国神社と改称。境内には坂本龍馬、中岡慎太郎、桂小五郎を始めとする墓石、慰霊碑の他、従軍記念公園「昭和の杜」がある。 近接の霊山歴史館では明治維新関連の資料文献を展示公開している。 ◆由緒 当神社は、幕末維新に殉じた志士と第二次世界大戦にいたる京都府出身の英霊7万3千3柱を奉祀する。幕末、各藩が東山三十六峰の中心であるここ霊山にそれぞれ殉難者を祀ったのが当神社の起源で明治元年五月、太政官布告をもって我国初の官祭招魂社とすべきことがきめられた。この布告により各藩は社殿を建設し、同年七月には盛大な祭典が挙行された。ついで明治10年には皇室より巨費が下賜せられて神域が整備され、全国招魂社のうち最も崇敬をあつめた。さらに昭和4年6月には今上陛下御即位大礼の建物を下賜せられ、現社殿を整備し、昭和14年に護国神社を改称して現在に及んでいる。 霊山神域内には、坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允・平野国臣・宮部鼎蔵(みやべていぞう)をはじめ蛤御門の変・天誅組の義挙等に加わった志士の墓三百余基があり、1356柱が合祀されてあり、この地は明治維新をしのぶ大霊域・史跡である。

新那智山 観音寺 (今熊野観音寺)

泉涌(せんにゅう)寺の塔頭(たっちゅう)で、正しくは新那智山今熊野観音寺という。 西国33箇所観音霊場第15番目の札所になっている。 空海が自ら観音像を刻んで草堂に安置したのが当寺のはじめというが、斉衡(さいこう)年間(854~857)左大臣藤原緒嗣(おつぐ)が伽藍を造営したとも伝える。 文暦元年(1234)後堀河上皇を当寺に葬るなど、歴朝の崇敬を得て栄えた。 伽藍は応仁の兵火で焼失したが、その後、復興されて現在に至っている。本堂には空海作と伝える十一面観音像を安置する。 寺域は幽静で、郭公(かっこう)鳥の名所として名高く、本堂背後の墓地には慈円僧正・藤原忠通・同長家の墓と称せられる見事な石造宝塔3基がある。 ◆由緒 平安時代弘法大師が熊野権現より観音尊像を授(さづか)り嵯峨天皇の勅願により開運厄除の寺として開創された名刹です。 後白河法皇は本尊十一面観音を深く信仰され霊験によって持病の頭痛が平癒したので特に「新那智山・今熊野」称をこの寺におくられました。 それより頭の観音さんとして知られ病気封じ知恵授(さずか)り諸願成就の寺として広く信仰されています。

八坂庚申堂

金剛寺(こんごうじ)は、京都市東山区にある天台宗の寺院。山号は大黒山。 通称は八坂庚申堂。大阪四天王寺庚申堂、東京入谷庚申堂(現存せず)とともに日本三庚申の一つとされている。 本尊の青面金剛は飛鳥時代に中国大陸より渡来した秦氏の守り本尊であった。 ◆由緒 「八坂庚申堂」の正式名称は「大黒山金剛寺庚申堂」といい、大阪四天王寺庚申堂、東京入谷庚申堂(現存せず)と並び日本三庚申の1つです。 御本尊「青面金剛(しょうめんこんごう)」は、もともと、聖徳太子の時代に活躍した秦河勝により中国大陸より招来し、秦氏の守り本尊としていたものです。1000年以上前の平安時代に、このお寺の開基である浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)が、この御本尊を庶民もお参りできるようにとここ八坂の地に建立したのが、「八坂庚申堂」の開山の由緒です。以後、日本最初の庚申信仰の霊場として信仰を集めてきました。 「庚申(こうしん)」とは、干支(えと)、つまり庚(かのえ)申(さる)の日のことです。中国由来の道教の言い伝えでは、この前夜に、人間の体の中にいる三尸(さんし=3匹)の虫が寝ている間に体から抜け出して、天帝という神様にその人間の行った悪行を告げ口に行くそうです。天帝は、罰としてその人間の寿命を縮めます。それを防ぐために、庚申日の夜は寝ないで徹夜するという「庚申待ち」という風習が行われていました(三尸の虫は、人間が寝ている間しか体を抜けられないため)。 「青面金剛」は、この三尸の虫を食べると考えられていたので、いつの頃からか「庚申待ち」には、この仏様を本尊として拝む風習(=庚申信仰)が広まり、「青面金剛」は「庚申さん」と呼ばれるようになりました。この日、睡眠をささげて一晩一心に願い続ければ如何なる願いもかなうとされています。 「八坂庚申堂」は、難病・奇病を封じこめる祈祷「コンニャク祈祷」や、下の世話にならず元気に過ごすための祈祷・帯下の病平癒の祈祷「タレコ封じ」、家出人・行方不明・失せ物を引き寄せる「鈎召祈祷(こうちょうきとう)」他、霊験あらたかなご祈祷でも有名です。 「庚申待ち」の夜や庚申日は、昔も今も多くの参拝の人々で賑わいます。付近の民家や商店の軒先には、この寺のお守りである「くくり猿」が軒先にたくさん掛かっている風景にも出会えます。 コンニャク焚きの接待は、年6回の庚申日に行われます。これは、八坂庚申堂の開祖である浄蔵貴所が、父の病気平癒祈願にコンニャクを捧げたところ無事治ったということから、庚申日にコンニャクが振舞われるようになりました。このコンニャクは、少し変わった形をしています。八坂庚申堂には「くくり猿」という猿のお守りがあり、コンニャクはその猿の形にくり抜かれています。それを北を向いて無言で3つ食べると、無病息災で過ごせると言い伝えられています。 このお寺でよく見かけられる猿は、庚申の使いとされています。