諸羽神社

祭神は天児屋根命、天太玉命など、六柱。 貞観4年(862年)、清和天皇の勅により、社殿が造営され両羽大明神と称せられた。 その後、両羽の文字も諸羽と改称された。社殿は応仁の兵火で、その後再建の社殿も明和年間の大火で焦土と化した。 その後、三度目の造営がなされ今日に至る。本殿の西北に「琵琶石」といわれる石があるが、仁明天皇の第四皇子である人康親王の山荘の跡にあったものを移したと伝えられている。 10月の第3日曜日に行われる神幸祭には神輿2基が自動車編成により氏子中を巡幸する。そして神社近くの区間は往復共神輿を人が担ぐ。 ◆由緒 天孫降臨(てんそんこうりん)の神話の中で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の左右に従った天児屋根命(あめのこやねのみこと)と天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀るところから、兩羽(もろは)大明神と称したという。 貞観(じょうがん)四年(862)、清和天皇の勅命でこの地に社殿を建てたのが当社の始まりとされる。 この後、正殿(せいでん)に応神天皇、脇(わき)殿に伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・素戔鳴尊(すさのおのみこと)・若宮八幡を合わせ祀るようになり、社名の「兩羽」の文字も「諸羽」に改められた。社殿は応仁の兵火により焼け、その後もしばしば火災に遭った。 当社は、山科一八郷の中で第四番目に当たるとされ、古くは「四ノ宮」と呼ばれて、この付近の産土神(うぶすなのかみ)として人々に崇敬された。 神社の背後の山は諸羽山といい、平家物語の中に、「木曽、もろは山の前、四の宮川原に打出で・・・」と記されているのは、当社周辺のことである。