長岳寺

この寺は、淳和天皇勅願によって天長元年(824年)6月に空海(弘法大師)が開基したと伝える真言秘法の大道場と知られ、かつては本堂の外に五重塔、十羅刹堂、真言堂、経蔵、宝蔵、愛染堂、大師堂、宿堂及び寺中坊舎42坊、外客坊、浴室などがあった。 普賢院記録によれば、嘉禄元年(1225)8月12日西大寺の中興、興正菩薩が当時別院律家霊山院の静慶に不動弥陀胎蔵秘道場観を受けている。また正中年中には奈良興福寺大乗院門跡の聖信、明応年中には同門跡慈尋がそれぞれ本願となっている。 中世には広大な寺領を有し、室町時代の乱世には、場本氏の外護に預かったが、応仁の乱、また文亀3年(1502)2月の兵乱に仏閣は炎上、天正8年(1580)の指出にさいしては高300石であったが、秀吉の時に寺領を没収された。 しかし、慶長7年(1602)8月徳川家康は由緒を尋ね寺禄100石を寄せ境内地45町歩を附し、以来朱印地として明治維新におよんだ。 この寺も維新の変革で廃絶におよばんとしたが、民間に深く根ざした大師信仰によって寺運をとりもどし今日に至っている。 現在、長岳寺には、平安時代の楼門、同時代の造像銘のある本尊阿弥陀三尊像と旧地蔵院本堂、庫裡、五智堂、大門などの外、鎌倉時代の石仏等がある。 ◆由緒 山の辺の道にのこる長岳寺は天長元年(824)淳和天皇の勅願により弘法大師が大和神杜の神宮寺として創建された古刹であり、盛時には塔中四十八ヶ坊、衆徒300余名をかぞえた。以来、幾多の栄枯盛衰を重ねながらも、千百七十有余年間連綿と法燈を守り続け今日に至っている。千古の歴史を経て文化財も多く、重要文化財としては仏像5体、建造物4棟がある。 大門をくぐり両側に平戸つつじの生垣が続く玉砂利の参道を行くと我が国最古の美しい鐘楼門につく。12,000坪の広くて静かな境内には四季おりおりの花の香りが漂い、いにしえの趣と心の安らぎを求め、多くの参拝者があとを断たない花と文化財の寺である。 ◆阿弥陀三尊 重要文化財  仁平元年(1151) 中尊の阿弥陀如来及び、両脇侍の観世音菩薩、勢至菩薩の三尊は当寺の本尊である。 阿弥陀如来は西方のかなた十万億土に極楽世界をひらき、末法の世に生まれた私達をもお救い下さる仏さまである。また脇侍の観世音菩薩は阿弥陀如来の慈悲の分身であり、勢至菩薩は智恵の分身である。 堂々とした量感、写実的な表現は藤原時代にあって次の鎌倉時代の作風の先駆と云え、慶派に大きな影響を与えた。玉眼を使用した仏像としては日本最古である。 ◆多聞天・増長天 重要文化財 藤原時代 多聞天・増長天は共に元々、インドでは仏教以外の外道の神々であったが、仏教に帰依し仏教を守る守護神としての役割りをはたしておられる。800年を経た現在も色彩がよく残っている。 ◆弥勒大石棺佛 鎌倉時代 弥勒菩薩は今、都卒天で成道をめざして修業されており、五十六億七千万年後に如来となられ私達の世界に下生される。そして輪廻転生する私達の魂を救済されると云う。当寺の大石棺佛は古墳の石材を利用したもので、法量は2米近く如来形である。 ◆大地獄絵 狩野山楽筆 江戸時代初期 十王図、極楽地獄図とも云い、九幅から構成されており、全法量は縦4米、横11米に及ぶ。三途の河、八大地獄、餓鬼・畜生・修羅道十王裁判図などが画面いっぱいに描れ、圧巻である。毎年、秋に佛画展としての他の佛画と共に開帳される。 ◆繍佛阿弥陀来迎図 県指定文化財 南北朝時代 刺繍の一尊来迎図で毎年、秋に佛画展として他の佛画と共に開帳される。 ◆十三重石塔 鎌倉時代 西大寺中興の興正菩薩叡尊の供養塔と云われその為か叡尊ゆかりの文殊菩薩が刻まれているめずらしい石塔である。 ◆そうめん 大和名物の三輪手延べひねそうめんを5月~9月頃は冷やしそうめん、寒くなるとにゅうめんで味わえます。 ◆鐘楼門 重要文化財 平安時代 日本最古の鐘楼門であり、弘法大師当寺創建当初の唯一の建物である。上層に鐘を吊った遺構があるので鐘楼門という。 ◆旧地蔵院 重要文化財 寛永七年(1630) 当山四十八ヶ坊あった塔中の内、唯一残ったもので今は庫裏としてつかわれている。室町時代の書院造りの様式を残している。また同時代の美しい庭園がある。 ◆旧地蔵院本堂 重要文化財 寛永八年(1630) 延命殿とも云われ、普賢延命菩薩を本尊とする庫裏の持仏堂である。二間四面の小堂であるが桃山風で美しい。 ◆大師堂 県指定文化財 正保二年(1645) 当寺信仰の中心である弘法大師像と藤原時代の不動明王を奉祠する。 ◆本堂 天明三年(1783)再建 当寺の本尊である阿弥陀三尊や多聞天、増長天等の仏像や寺宝類を安置する。 ◆大門 寛永十七年(1640)再建 当寺の総門である。また肘切り門の異名があり僧兵と刀鍛治の伝説がある。 ◆五智堂 重要文化財 鎌倉時代 当寺西方約1kmの飛び地境内にあり、その形から傘堂あるいは眞面堂ともよばれる。真ん中に太い心柱がありこれによって建物のほとんどの重量が支えられている。心柱上部に四佛の梵字額があり全体で五智如来をあらわしている。

大和神社

大和神社(おおやまとじんじゃ)は、奈良県天理市にある神社。旧称は朝和之宮(あさわのみや)。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 『日本書紀』によれば、元々倭(日本)大国魂神は天照大神とともに大殿に祀られていたが、世の中が乱れ謀反を起こすなどするのは、両神の勢いだと畏れられた。そのため崇神天皇6年、倭大国魂神を皇女渟名城入姫を斎主として祀らせたが、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。崇神天皇7年2月、倭迹迹日百襲姫命が夢で「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた。また同年8月7日にも、倭迹迹日百襲姫命・大水口宿禰・伊勢麻績君らが同じ夢を見たため、同年11月に大倭直の祖・市磯長尾市(いちしのながおち)を祭主として、神地が定められ鎮座・創建された。 この伝承からアマテラスを天神とし、ヤマトノオホクニタマを地祇とする性格をはっきりさせたことが読み取れる。垂仁紀はもっと詳細に出ている。 当初の鎮座地は、現在の鎮座地の東方の山麓大市の長岡崎(現在の桜井市穴師および箸中の付近)であるとみられ、後に現在地に遷座したとされるが、遷座の時期ははっきりしない。一説には現在の長岳寺の位置であるという。長岡崎が長岳寺付近の丘陵を指す可能性もある。 朱鳥6年(692年)、持統天皇は藤原京の造営にあたって、伊勢・住吉・紀伊の神とともに当社に奉幣し伺いを立てた。寛平9年(897年)、最高位である正一位の神階が授けられた。『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。後に十六社・二十二社の一社ともなった。 平安初期までに、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。しかし、平安京への遷都や藤原氏の隆盛などにより衰微し、中世には社領を全て失っていた。 明治4年(1871年)、官幣大社に列せられた。江戸時代には社殿は寺院様のものに作り変えられていたので、官幣大社列格の際に新たに社殿が造営された。 戦艦大和には、同名であることから当社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。戦艦大和は昭和20年(1945年)に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀されている。昭和44年(1969年)、境内に「戦艦大和記念塔」が建立された。更に昭和47年(1972年)9月24日、巡洋艦矢矧外駆逐艦8隻の戦没將士英霊をも合祀して、坊の岬沖海戦の全戦死者3721柱が国家鎭護の神として祀られている。

長谷山口神社

当神社鎮座地は字手力雄とい い、景勝の地で、隠口(こもりく)の泊瀬山 長谷山の鎮護の神として延喜式 神名帳に見え、六所山口社の一 社にあたる古社であって、ご祭 神は大山祇神、天手力雄神、相 殿に豊受姫神を祀っている。 当社の由緒は極めて深く、霊 験あらたかにして、あまねく人々 の安泰繁栄と五穀豊饒の守護神 として崇拝されている。 祭礼は、正月、八月三十一日

聖林寺

聖林寺(しょうりんじ)は奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院である。山号は霊園山(りょうおんざん)、本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は定慧(じょうえ)とされる。国宝の十一面観音立像を所蔵することで知られる。 聖林寺は桜井市街地の南方、北方に奈良盆地を見下ろす小高い位置にある。伝承では和銅5年(712年)に多武峰妙楽寺(現在の談山神社)の別院として藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が創建したという。妙楽寺の後身である談山神社は当寺のはるか南方の山中に位置する。 聖林寺の近世までの歴史は不明の部分が多いが、江戸時代には性亮玄心(しょうりょうげんしん)が三輪山平等寺の遍照院を移して再興したという。 江戸中期には文春諦玄により現在の本尊・子安延命地蔵菩薩像が安置された。明治の神仏分離令の際に、三輪明神(大神神社)神宮寺の大御輪寺(だいごりんじ、おおみわでら)本尊の十一面観音像が聖林寺に移管された。