勧修寺

亀甲山(きっこうざん)と号する真言宗山階派の大本山である。 寺伝によれば、昌泰3年(900)醍醐天皇が、生母藤原胤子(いんし)の御願により創建したと伝え、寺号は、天皇の祖父に当る藤原高藤(たかふじ)の諡(い)号をとって勧修寺と名付けられた。 本堂は、江戸時代に霊元天皇より仮内侍所を、書院と宸殿は、明正天皇より旧殿を賜って造られたといわれ、本堂内に千手観音像を祀る。 庭園は、氷室池を中心とした池泉回遊式庭園で、夏には、池の水蓮が美しい花を咲かせる。 ◆由緒 勧修寺は昌泰3年(900)に醍醐天皇が創建され、千有余年の歴史があります。 庭園は「勧修寺氷池園」と呼ばれ、「氷室の池」を中心に造園されていて、且つ周囲の山を借景し、即ち庭の中に前方の山を取り込んで庭の風景が造られ、広大な自然美を楽しむ「池泉庭園」です。古く平安時代には、毎年1月2日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その厚さによってその歳の五穀豊凶を占ったと言われ、京都でも指折りの古池である。 書院の前庭にある灯篭は水戸光圀公の寄進で「勧修寺型灯篭」と言い、水戸黄門さまらしいユーモラスなスタイルを以て有名なものです。又この灯篭を覆うように生えている植樹「ハイビヤクシン」は、「ひの木科」の常緑灌木で樹齢は750年と言われ、我が国無双の名木として名高いものです。

大石神社 

この神社は、昭和10年赤穂義士大石良雄の義挙を顕彰するため、大石を祭神として創建された。 大石の山科旧居は神社の付近にあった。毎年4月14日の春季大祭と12月14日の討入りの日に義挙記念祭が行われる。 大石は、赤穂城の明け渡しの後、元禄14年(1701)6月下旬に、以前からこの付近に田地・屋敷を持っていた親類の進藤源四郎の世話でこの地に移った。 閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利で事件の善後策を講じるのに何かと便利であったからであろう。 この地でしばしば同志の会合を開いた。 はじめ、はやる同志を押さえ、亡主浅野長矩(ながのり)の弟大学長広を立てて主家の再興を図った。 しかし、翌、元禄15年(1702)夏、結局、再興は許されず、吉良義央(きらよしなか)邸討入りに方針を固め、同志はひそかに江戸に集った。 大石は、同年5月、妻子を離縁し、8月にはここを引き揚げ、いったん京都四条寺町に移り、10月江戸に向かった。

日向大神宮

5世紀末、第23代顕宗天皇の時、筑紫の日向の高千穂の峰の神蹟を移したのが起こりという。 天智天皇が神田を寄進、神域の山を日ノ御山(ひのみやま)と名付けた。応仁の乱(1467-77)で焼失したが、篤志家が社殿を造営し、更に慶長19年の再建には徳川家康により失った社領も戻された。 清和天皇・後奈良天皇・後陽成天皇の勅額がある。 開運、厄除、縁結びの神。 創建:487年頃(古墳時代)