日蓮宗本山。1410年(応永17)近衛関白道嗣の嫡子、玉洞妙院日秀が今出川新町に朝廷より敷地三万坪を与えられて創建。 広宣流布山、本願満足寺と号す。 1536年(天文5)の天文法華の乱後、12世日重の代、1539年(天文8)関白近衛尚道の外護により現在の地に移り、後奈良天皇の勅願所となる。 1751年(宝暦1)35世日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈り、以来、将軍家の祈願所ともなった。 本尊は十界大曼陀羅。 又、尚道奉安の祖師像は、芹生村山麓禄より発見されたものでその山中より法華経読誦の声が上がったという有名な説がある。 境内墓地には山中鹿之介の墓、本堂脇には徳川家康二男秀康の正室、蓮乗院の石廟がある。 伝太子筆紺紙 金泥一字宝塔法華経並普賢経は重要文化財。 宗祖日蓮大聖人真蹟十界大曼荼羅御本尊ニ幅、狩野元信筆の祖師像はじめ寺宝多数。 尚、重要文化財は京都博物館 預け。
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瑞泉寺
慈舟山(じしゅうざん)と号し、浄土宗に属する。豊臣秀吉の甥、豊臣秀次(ひでつぐ)の菩提を弔うために建立された寺である。 秀次は、秀吉の養子となり、関白の位を継いでいたが、秀吉に嫡男秀頼が生まれてからは、次第に疎んぜられ、文禄4年(1595)7月、高野山において自害させられた。 次いで、8月、秀次の幼児、妻、妾たち39人が当寺の近くの三条河原で死刑に処せられた。 遺骸は、その場に埋葬され、塚が築かれ石塔が建てられていたが、その後の鴨川の氾濫などにより次第に荒廃した。 慶長16年(1611)角倉了以(すみのくらりょうい)が、高瀬川の開削中にこの墓石を発掘し、当地に移し塚を再建して堂宇を建立した。 これが当寺の起りで、僧桂叔(けいしゅく)を開墓とし、寺号は、秀次の法号、瑞泉寺殿をとって瑞泉寺と名付けられた。 本堂には、本尊阿弥陀如来像を安置し、寺宝としては、秀次及び妻、妾らの辞世の和歌を蔵している。 境内には、妻、妾たちの墓及び犠牲者49人の五輪塔がある。 ◆由緒 1611年(慶長16)角倉了以が豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立した寺。浄土宗西山禅林寺派。 豊臣秀吉から関白の位を譲られ聚楽第に住した秀次が、謀反の疑いをかけられて1595年(文禄4)に高野山で自刃させられた後、その子供5名と妻妾34名の計39名の一族が三条河原の南西詰めで処刑された。 瑞泉寺に伝わる絵縁起によれば、一族の遺骸を埋葬した処刑場の地には大きな塚が築かれ、塚の頂上には秀次の首を納め「秀次悪逆塚」と刻した石塔を据えて往来人への見せしめにしたと云う。 16年後、角倉了以が高瀬川の開削の際に荒廃した塚と石塔を発見して大層に心を痛め、僧桂叔と相談、碑面から「悪逆」の2字を削り新たに墓域を整備して墓碑を立て側に一宇を建立し慈舟山瑞泉寺と号した。 境内の西南隅にその墓域が見られる。本堂に了以と長男の角倉素庵の像を安置する。
誠心院
華嶽山東北寺(かがくざんとうぼくじ)誠心院と号する真言宗泉涌寺派の寺で、通称和泉式部(いずみしきぶ)の名で知られている。 寺伝によれば、関白藤原道長が、女(むすめ)の上東門院(藤原彰子(しょうし))に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当寺の起こりといわれている。 当所、御所の東側にあったが、その後一条小川(上京区)に再建され、さらに天正年間(1573~91)この地に移された。 和泉式部は、平安時代の代表的な女流歌人で、才色兼備で知られ、代々の勅撰集におさめられている和歌は247首に及んでいる。 本堂は小御堂(こみどう)と呼ばれ、道内には、本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置している。 境内には、式部の墓と伝える宝篋印塔及び式部の歌碑が建てられている。 また、傍らの梅の木は、式部が生前愛木した「軒端(のきば)の梅」に因んで、後に植えられたものである。
平等寺(因幡薬師)
この寺の起りは、「因幡堂縁起(いなばどうえんぎ)」(現東京国立博物館蔵)にくわしい。 すなわち、長徳3年(997)因幡国司橘行平が、任終って帰洛の途中、夢告によって因幡賀留津(いなばかるつ)の海中から一体の薬師如来像をひきあげ、仮堂に安置しておいたが、薬師は行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)行平は自宅を改造してこれをまつったという。 この霊験談はひろく親しまれ、歴代天皇はじめ一般庶民の深い信仰をうけ、承安元年(1171)には高倉天皇により平等寺と命名された。 しかし堂舎はたびたび火災にかかり寺地も次第に小さくなったが、明治初年再建の現本堂には、たび重なる火災にもかかわらずよく伝えられてきた本尊薬師如来立像を安置している。 藤原時代、一木作りの優品で重要文化財に指定されている。 嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つにかぞえられ、ことのほか信仰されている。 ◆由緒 長徳3年(997)因幡(現在の鳥取県)国司橘行平が、任を終えて帰京の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津(いなばがるつ)の海中から引き揚げ、安置しておいた薬師如来像が行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられている。この霊験談は広く親しまれ、歴代天皇をはじめ一般庶民の深い信仰を受け、承安元年(1171)には高倉天皇により平等寺と命名された。 なお、この寺の起こりは、「因幡堂縁起」(東京国立博物館蔵)に詳しく書かれている。 堂舎は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初年(1868)に再建された現本堂には、度重なる火災にもかかわらず伝えられてきた本尊薬師如来立像が安置されている。この薬師如来立像は藤原時代の一木作りの優品で、重要文化財に指定されている。嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つに数えられ、ことのほか信仰されている。
空也寺
法輪寺(達磨寺)
この寺は、臨済宗妙心寺派に属し、達磨寺の名で親しまれており、享保12年(1727)大愚和尚を開山とし、開基荒木宗禎に帰依を受けた万海和尚が創立した。 十六羅漢木像、徳川時代の鋳匠藤原国次作の妙音の弁天鐘、珍しい等身の金箔大寝釈迦木像や、白隠禅師の夜船閑話で知られた白幽子の旧墓石がある。 三国一を称する起上り達磨をはじめ、諸願成就に奉納された達磨およそ八千余をまつる達磨堂は特に有名で、節分は参詣者でにぎわう。 本堂には、わが国映画創業以来の関係者四百余霊がまつられる貴寧磨(きねま)寺や、島津源蔵夫妻の念持仏をまつる学神堂等がある。 達磨竹の逆さ竹を中心に印度・中国産の竹の珍種も繁茂し、本堂の東側には禅の悟りの段階を示す十牛の庭、南側に白砂の上に苔で心字を描き出したユニークな庭がある。 ◆だるま寺〔法輪寺〕の略縁起 この寺は洛陽円町、北野天神ゆかりの紙屋川畔にある。臨済宗妙心寺派の名刹であり、通称「だるま寺」の名で親しまれている。 享保13年(1718)大愚宗築禅師を開山とし、荒木光品宗禎居士が開基となり、万海慈源和尚が創建したものである。創建には十年の歳月を要したといわれている。開基の荒木氏は両替商であり、武家の開基になる寺院の多い妙心寺派にあっては異色の禅刹である。 爾来、春秋260年、三度の天災地変に遇い、寺運もまた盛衰があった。しかし近代にいたり、昭和8年第十代伊山和尚を迎えるや、檀信徒の帰崇を一身に集め、大書院の建立が成った。伊山和尚は三十七歳の時に、名著『白隠和尚全集』を刊行し、白隠の名とともに伊山和尚の名は江湖に響きわたった。また和尚はつとに起き上がり達磨禅を鼓吹して、得意の文筆と長広舌とによって、起き上がり小法師をもって、禅の大衆化、生活化をはかった。 戦後、起き上がり達磨堂を建て、達磨節分会をはじめ、少林寺拳法道場を開いた。かくして、だるま寺(法輪寺)の名は洛陽に高く、日本中に普及してきた。 当寺は市街地にありながら、五千平方メートルの境内に創建当初の姿を残す本堂を中心に諸堂の甍がそびえている。三国最初随一の起き上がり達磨堂、朱塗に輝く衆聖堂、活眼達磨型煉瓦が天にそびえる大本堂、拳法道場などの建物がある。 毎年二月の節分には数万人の参詣者でにぎわい、一山はことごとく達磨で埋まる。諸願成就、厄除開運、疾病速消の縁起達磨が授与されているのは同寺だけである。 ありがたや だるまも石も 苔むして ◆起上(おきあがり)達磨の由来 インドから中国へ禅を伝え、禅宗の初祖となった達磨大師は、今日、日本では「だるまさん」として親しまれ、子供にいたるまで知らぬものはない。 達磨大師は西暦527年、インドから海路3年かかって中国に渡られた。そして当時仏心天子とたたえられていた梁の武帝を「無功徳」と喝破し、揚子江を渡り崇山の少林寺に去って、この地で面壁九年、手も足もなくなり、尻も腐ったと世間が評判するほどの忍苦の修行をなされ、禅宗の開祖となられたのである。 積極和朗の気に富む日本の国民性は、この達磨大師の忍苦の精神を慕い、貧禍疫病を転じ福寿を得んとの願いから、ついにこの静的坐禅の面壁達磨を動的七転八起の起き上がり達磨に姿を変え、日本独特の達磨に発展させたのである。 ここにおいて達磨大師は、仏壇や寺院から十字街頭に進出し、子供のためには玩具となり、大人のためには厄除縁起の神となり、千変万化して天真流露の活躍をすることとなった。 「七転八起」とは、倒れても自力で起き上がる力である。転んだ力の大きさで起き上がり、無抵抗の力で、苦にもめげず楽にもおごらない、一貫した忍苦の人間生活のシンボルが、起き上がり達磨の本質である。達磨寺は、この起き上がり達磨運動の根本道場である。 天竺の達磨老大師 日本の起き上がり小法師 彼にあっては、堂々、七宗を伏し 我にあっては、転輾、孩児を駭かす (白隠禅師) ◆本堂 単層、入母家、瓦葺、九六の本堂といわれ、広さおよそ百坪。享保3年(1718)の創建。3力年かけて初めて解体修理をして樫の名木でみごとに復元、昭和58年4月吉日落慶した。本堂前椽正面壁間高く「転法輪」の山額が掲げられる。当時の琉球中山国円覚寺世代の月羅山和尚の名筆である。車の輪が廻るように、仏法を説いて止めてはならぬ。仏法を行じて絶えてはならぬ。法輪寺建立の精神がここに書いてある。 ◆仏涅槃木像 金箔等身蓮上聡耳の木像。時代は桃山、4百余年前の作といわれる。仏頭、仏顔、仏身、仏足に触れてわが身を按ずると智慧と徳相と寿命とを得ると尊崇がきわめて深い。 ◆衆聖堂 山田無文老師の命名である。階上には仏涅槃木像などと共にキネマ殿(尾上松之助、牧野省三、大河内伝次郎、阪東三津五郎、望月優子、田中絹代の各氏はじめ、映画人6百有余霊を祀る)。階下には樟一本造り大達磨立像、十六羅漢木像、千変万化する達磨の諸相八千体などを奉安する。 ◆達磨天井画(樋口文勝老師画) 戦後世に達磨三福人とたたえられるは、蒐集して日本一は木戸忠太郎翁。説法して日本一は先住伊山和尚。画いて多数日本一は樋口文勝老師である。この天井画は老師83歳時の筆。賛は無文老大師が「不倒」と雄渾に書かれている。 ◆起き上がり達磨五訓 一、きはながく こころはまるく はらをたてずに ひとはおおきく おのれはちいさく 二、文句なしただ七転び八起して働くほかに手なし足なし。 三、働くはハタを楽にし己が苦を、苦にせず人の動く姿ぞ。 四、叩かれて内にふくれる達磨かな。 五、日の本の女性のかがみ姫達磨、内強うして眉目うるわしく。 洛陽大宝山法輪寺 (起上達磨寺) 願首比丘 弗云窟 大義拝願 ◆由緒 臨済宗妙心寺派に属し、三国随一といわれる起上り達磨をはじめ、心願成就を祈って奉納された八千余もの達磨をまつる達磨堂に祀っていることから、達磨寺の名で親しまれている。 江戸時代の享保12年(1727)に萬海和尚が創立したといわれ、珍しい等身大の寝釈迦木像、十六羅漢木像、徳川時代の鋳匠藤原国次作の妙音の弁天鐘、白隠禅師の「夜船閑話」で有名な京都の白川山中で数百年生きた仙人とされる白幽子の旧墓石などがある。 本堂には、我が国映画創業以来の関係者四百余霊が祀られる貴寧磨(きねま)殿や、島津源蔵(島津製作所の創業者)夫妻の念持仏を祀る学神堂等がある。 また、本堂の南側には禅の悟りの境地を示す無尽庭がある。
八坂神社大政所御旅所
蛸薬師堂(浄瑠璃山 永福寺)
養和元年(1181年)室町の林秀が、比叡山の御本尊薬師如来の夢告により与えられた伝教大師が彫られた石仏の薬師如来をおまつりした六間四面の堂を作り、永福寺と名付けられたのが始まり。 善光という僧が、戒めに背き、病気の母親に好物のタコを買う孝行譚に由来し、本尊薬師如来は蛸薬師の名で知られる。 病気平癒の御祈祷で有名で、毎月8日午前10時より午後2時まで大般若会が勤修され、ガン封じや心身の病気平癒、諸願成就を祈願する人々の参拝が多い。 ◆由緒 正しくは浄瑠璃山永福寺といい、本堂に「蛸薬師」と呼ばれる薬師如来の石造を安置している。 昔、この寺が二条室町にあったころ、付近に池があったことから、水上薬師または澤(たく)薬師と呼ばれ、これが訛って蛸薬師となったといわれている。 また、一説には、この寺にいた善光という親孝行な僧侶が、戒律に背いて病気の母のために蛸を買って帰るところを町の人に見とがめられ、箱を開けるよう求められたとき、薬師如来に「この難をお助けください」と念じたところ、蛸の足が八巻の妙法蓮華経に変わり、難局を逃れたという。 その後、母の病気も薬を飲まずに全治し、これは親孝行の僧侶を守った本尊の霊験であるとして、本尊の薬師如来を蛸薬師というようになったと伝えられている。 病気平癒の祈願のために参拝する人々でにぎわった参道は蛸薬師通と呼ばれるようになった。 ◆蛸薬師如来の由来 その昔、当寺に住していた善光(ぜんこう)という若い僧侶が、重い病に伏した母の「蛸が食べたい」というたっての願いを聞き、思い悩んだ末に僧の禁を破って市場で蛸を買いました。しかし、町の人々にそれを見咎められ、一心に「薬師如来様、この難をお救いください。」と祈ると、彼の手元で蛸は光を放ってありがたい法華経八巻に変化し、不思議なことにその威光に照らされた母の病もたちまち癒えて元気になりました。以来、京の町の人々から「蛸薬師さん」と親しみを込めて呼ばれるようになり、以来もろもろの病気平癒や厄難の消除には霊験あらたかと、たくさんの老若男女から信仰を集めてまいりました。
誓願寺
誓願寺は京都の中心地、新京極通りのど真ん中にある「浄土宗西山深草派」の総本山です。 創建は、はるか飛鳥時代まで遡り、その長い歴史の変遷の中、「法然上人」「西山国師」「立信上人」と続く浄土門の聖地として…、また深い山間ではなく、「街の中にあるお寺」、「暮らしに密着した信仰の場=念仏道場」として人々に愛され続けてまいりました。 そのためか誓願寺にゆかりの深い歴史上の人物も大変多く、ことに「清少納言」「和泉式部」「松の丸殿」といった女性たちからの深い信仰を集めたため「女人往生の寺」とも称され、そのほかにも落語の祖と呼ばれる「策伝上人」や謡曲「誓願寺(世阿弥作)」に謡われるなど、落語発祥の寺、芸道上達の寺としても広く信仰を集めております。 ◆扇塚の由来 世阿弥作と伝えられる謡曲『誓願寺』は、和泉式部と一遍上人が主な役となって誓願寺の縁起と霊験を物語ります。この謡曲の中で、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることが、能楽をはじめ舞踊など芸能の世界で尊崇され、江戸時代から誓願寺へ参詣するその筋の人が数多くありました。 特に舞踊家が多く、文化・文政・天保(1804~44)のころに京都で活躍した篠塚流の祖・篠塚文三郎(梅扇)は、幸若の系を引く能楽的な色彩と歌舞的な色彩を調和させた優れた芸風を示したといわれ、天保年間には山村舞とともに京阪で大いに流行しましたが、彼ら舞踊家の中に誓願寺の和泉式部信仰がありました。その信仰を、昭和・平成の時代まで伝承した舞踊家がありました。 誓願寺の『扇塚』に、芸道上達を祈願し『扇子』を奉納することには、上のような深い歴史的な意味が秘められているのであります。また、誓願寺第五十五世策伝日快上人(1554~1642)が『醒睡笑』八巻を著作して落語の祖と仰がれておられることも、「扇子」との強い絆を保持するゆえんであります。 ◆誓願寺の創建とご本尊 誓願寺は飛鳥時代に開かれた寺である。天智天皇は常に仏の心を求められ、ある夜の霊夢(※1)により、当時仏師として名を馳せていた賢問子・芥子国父子に丈六(※2)の阿弥陀如来坐像の造立を命じた。二人は別々の部屋で仏の半身を彫っていたが、合体すると寸分違わず合致して見事な仏像ができあがったという。ご本尊の阿弥陀如来の完成とともに仏堂が建立され、天智天皇6年(667)に七堂伽藍が完成、「誓願寺」と名づけられたのである。 ご本尊を父子が制作していたとき、夜になると大勢の人がオノやノミを使う音が聞こえるので部屋の中を見ると、賢問子が地蔵菩薩、芥子国が観音菩薩になり、闇の中で光を放ちながら彫っていたという。これらは春日大明神の本地(※3)であることから、ご本尊は春日大明神が造られたと崇め奉られ、今日に至っている。 ※1 神仏のお告げ ※2 一丈六尺=4.85メートル ※3 本来のお姿 ◆誓願寺と女人往生 誓願寺では平安時代に、歴史上有名な二人の女性作家が極楽往生している。ひとりは清少納言。当寺で菩提心をおこして尼となり、本堂そばに庵室を結んだ。その後、念仏して往生をとげたのである。 もうひとりは和泉式部。娘に先立たれ、その哀しみから世の無常を感じた式部は、播州の書写山へ高僧・性空上人を訪ねた。ところが、「京都八幡山の大菩薩に祈るべし」と言われ、石清水八幡宮へ参って祈ると夢に老僧が現れて「誓願寺で祈るべし」と告げられたのである。 そこで、当寺に48日間こもって一心に念仏をとなえたところ、今度は霊夢に老尼が現れて「念仏をとなえれば女人の往生は疑いなし」とのお告げがあったという。式部は尼となって庵を結び、ここでめでたく往生した。この庵室が「誠心院」であり、今も新京極に現存している。 ◆謡曲『誓願寺』と扇塚 世阿弥の作と伝えられている謡曲『誓願寺』は、和泉式部と一遍上人が誓願寺の縁起と霊験を物語る。和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから舞踊家の間に和泉式部信仰が生まれ、能楽など芸能の世界の人々の信仰が厚くなった。これが、「扇塚」に芸道上達を祈願して扇子を奉納することにつながっている。 また、当寺の住職であった策伝上人が「落語の祖」と仰がれていることも扇子との絆を象徴している。 ◆落語の祖・策伝上人 誓願寺第五十五世の安楽庵策伝上人(1554~1642)は、戦国時代の僧侶として布教に励むかたわら、文人や茶人としての才にも優れていた。教訓的でオチのある笑い話を千余り集めた著書『醒睡笑』八巻は後世に落語のタネ本となり、策伝上人は「落語の祖」と称されている。当寺では毎年10月初旬の日曜日に「策伝忌」を営み、奉納落語会を開催している。 ◆誓願寺の移り変わり 都が平城から長岡に遷ると誓願寺も移され、平安遷都とともに一条小川に七堂伽藍そのままに再現された。現在地の寺町三条に移ったのは天正19年(1591)、秀吉の命であった。秀吉の側室、松の丸殿(京極竜子)の深い信仰により諸大名の奥方にも勧進され、壮大な堂宇が建立されたのである。『都名所図会』(安永9年刊行)によると、表門は寺町六角、北門は三条通りに面し、6500坪もの境内に塔頭寺院が18カ寺あり、三重塔もみられる。 当寺は合計10度の火災に遭い、焼失と再建を繰り返してきた。明治のころの政治家が芝居小屋や見世物小屋が集まっていた寺町に目をつけ、このあたりに繁華街をつくろうと諸寺の境内地を没収。塀を取り払い、小川を埋め、三条から四条までの新しい街をつくった。これが今の新京極である。 ◆迷子のみちしるべ 現存の石柱は明治15年(1882)に建立された。正面に「迷子みちしるべ」、右側に「教しゆる方」、左側に「さがす方」と彫ってある。 まだ警察のなかった江戸末期~明治中期に迷子が深刻な社会問題となり、各地の社寺や盛り場に石柱が建てられた。迷子や落とし物などをしたとき、この石に紙を貼って情報交換したのである。月下氷人(仲人)役の石ということから、別名「奇縁氷人石」ともいう。
行願寺 (革堂)
正しくは行願寺。天台宗。西国三十三カ所第19番札所。 俗人のころ鹿を射止めた行円が、仏心を起こし、1004年(寛弘1)寺を建立、千手観音像を刻み、安置した。 皮の衣を着たので、皮聖と呼ばれ、寺は革堂と称した。 当初、今の上京区にあったが、移転と焼亡を繰り返し現在地に。 ◆由緒 霊鹿山行願寺と号する天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十九番札所である。 寛弘元年(1004)に行円(ぎょうえん)上人によって、一条小川(上京区)に創建された。子を孕んだ母鹿を射止めてしまったことを悔いた上人が、常にその皮をまとって鹿を憐れみ、人々から皮聖(かわひじり)とも呼ばれていたことから、この寺も革堂と呼ばれるようになったといわれている。 以後、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災火により寺地を転々とし、宝永5年(1708)の大火の後、この地に移された。 現在の本堂は、文化12年(1815)に建てられたもので、堂内には行円上人の作と伝えられる本尊千手観音像を安置している。 境内には、都七福神巡りの一つになっている寿老人神堂をはじめ、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔などがある。また、宝物館には、若い女性の幽霊が描かれている幽霊絵馬が展示されている。










