千本ゑんま堂(引接寺)

光明山歓喜院引接寺とごうする寺院で、本尊として閻魔法王を祀り、一般に「千本ゑんま堂」の名で親しまれている。 開基は小野篁卿(八〇二~八五三)で、あの世とこの世を往来する神通力を有し、昼は宮中に、夜は閻魔之廟に使えたと伝えられ、朱雀大路頭に閻魔法王を安置したことに始まる。 その後、寛仁元年(一四八八)に造立されたもので、高さは二、四メートルある。篁卿は「お精霊迎え」の法儀を授かり、塔婆供養と迎え鐘によって、この世を現世浄化の根本道場とした。 以降、宗旨・宗派を問わない民間信仰が続いている。 五月に行われる千本ゑんま堂大念仏狂言は、京都三大念仏狂言のうち唯一の有限劇で、京都市無形民俗文化財に指定されている。 名桜「普賢像桜」は咲いた時に双葉を持ち、花冠のまま落ちる珍しい桜である。 往時、この地に桜が千本あったことと、精霊供養の「千本卒塔婆」に由来して、「千本」という地名が生まれたと言われている。 また圓阿上人が至徳三年(一三八六)に建立した紫式部供養塔は、貴重な十層の多重石塔で、国の重要文化財に指定されている。 ◆由緒 開基 小野篁卿(おののたかむらきょう) 平安初期の漢詩人として有名な人である。延暦21年、参議小野岑守の長子として生まれ、長じて嵯峨・淳和・仁明・文徳の各帝に仕え、この問、東宮学士、遣唐副使、左大弁等の職を歴任した宮中の御役人であり、歴々たる為政者である。 こんな人がどうして千本えんま堂の開基(基礎を築き上げた人)であるのか。この人の事跡をこれ以上述べようとすると当時の世相から述べねばならない。 一、宮廷の設立 延暦13年、桓武天皇がこの京都に平安京を遷都されると、これまでの山城国はどんどんと改造された。まず幹線道路として、朱雀大路という大道路を南から北に向けて縦に長くどっかりと造成して、京の都を東西に大きく分断した。東半分を洛陽と名ずけ、西半分を長安と名ずけた。そして朱雀大路の南の入口に羅城門という壮大な関門を設け、北の入口に朱雀門という、これまた壮大な関門を(現在の千本今出川辺りに)設け、平安京はこれら二つの門に挟まれた、さながら城郭内の観があったという。 その中程辺りに(現在の千本丸太町辺り)儀式を行う朝堂院の中に大極殿(現在の寺院に例えば本堂)が建てられ、それに付随して内裏(だいり)と大内裏(おだいり)があり、これが天皇のお住まいであった。これを取り巻くように文武百官の諸官庁が置かれた。したがって、現在でこそ京都御所と称しているが、その時代は「おだいり様」と称していたと言う。 このほかに應天門、殷富殿、武徳殿等ありて華やかな宮廷生活がここで繰り展げられ、また国の政治もここで執務され捌かれるのであった。 二、当時の世相 かくの如く平安京として都を定められると京の都は爆発的に人口が増えた。人口が増えるということは死ぬ者も増えるという事である。加えるに天災地変により疫病が流行したり飢饉が襲ったりする。 数年後、今やれっきとした為政者に成長した篁卿は、こうした大問題に真正面から取り組んでいかねばならぬ立場であった。この時の篁卿は、現在の政局に当てはめれば、差し当たり福祉厚生局長官ぐらいにあたるであろう。そして彼の政治の理念が地蔵菩薩の信仰を中心とした事はさすがである。 およそ政治の要道は国の利益を図るとともに民百姓の人心を安らげ幸福な日暮しをさせる道を開く事である。それには地蔵菩薩の信仰に浸らせる事が、当時としては最上の方策であると篁卿は判断したのであった。 なにしろおびただしい死者が京洛の街に氾濫する。まずその処置として、周辺五ケ所に葬場を兼ねた墓地を設定した。即ち蓮台野、鳥辺野、化野(あだしの)、西院河原(さいがわら)、華頂山(かちょうざん)の五ケ所であった。このうち現在の舟岡山を中心とした蓮台野が最も大きかったという。 その時代の葬式は、平成の現代の、ごとき派手な葬式では決してない。特に貧富の差の激しいその当時にあっては庶民には風葬をとり行うのが常例であった。そうした世相の中に着任した篁卿は先づ埋葬を奨励した。更には進んで官庁の命令として強力にこれを推進した。何が故に彼がこうした政策を實行したのか、それは次ぎの地蔵菩薩の妙用の項で判る。ここで丁寧に地蔵菩薩を勧請してお弔いをする必要が生じてくる。またそうしなかったならば、いかに庶民といえども納得・得心しなかったであろう。この点を篁卿は重要視したのである。 彼はその回向、読経を、出家僧侶のみに任せず自分自らもそれを執り行った。因って時の人及び後世の人々も篁卿を称して地蔵菩薩の生まれ替わりだと言った程である。 人間死んだならば地蔵菩薩に引き取られ、極楽へ道案内してもらえる。この信念とこの行動を以て政治を行ったので、天平の治世は円く治まった。 三、地蔵菩薩の妙用(御働き) 此所で地蔵菩薩とはどうした佛様であろうか。その御働きと功徳を一寸述べる事にしよう。 地蔵菩薩はその名の如き我等の住めるこの大地を統括している佛様であります。云い換えたならば「大地即ち地蔵、地蔵即ち大地」なのです。考えて見たら私共がこの大地から受ける恩徳は誠に限りがありません。差当り衣食住の凡ては大地から受けております。動力源の石油も大地の賜物です。然るに此の恩恵に対して私共は大地にどんな報恩をしているでしょうか?その実態は報恩どころか、あくなき迷惑のかけ続けと云うのが真実でしょう。日々ヒリ出す排尿の処理も大地以外にありません。どんな汚い物でも大地はいとわず受容れて呉れます。しかもそれを清めて私共の生活に役立てて呉れます。谷間の清水、それから野菜を育てる肥料としての堆肥等がよい例です。これが現世に於ける地蔵菩薩のお働きであります。来世にはどうであるか。教典に云う「一度名号を聞く人に替りて苦を受く御誓い、衆生の業に泪して、迷の闇より救います、救わせ給うぞ有難や」とあります。かくして此の時季より徐々に風葬は姿を消し埋葬に替って行った。 四、千本通りの地名発生の根源 以上のごとく篁卿に依って蓮台野の墓地が設定されると、この場所も年を増す毎に騒々しくなってきた。即ち愛別離苦の苦しみは昔も今も変わらない。父や母、実子や兄姉は無論のこと、有縁の者一切、野辺の送りを済ませた者を、どうしてそのままに捨て置く事ができようか。塔婆を建ててこれを回向する心情においては昔も今も変わりはない。埋葬であれ、風葬であれ、その場所へ五輪の宝塔婆を建てて供養し、回向する者が年を重ねる毎に増大していくのだ。 こうした人々が朱雀大路をひしめき合った。建てられた塔婆は大小入り交じって千本以上も建てられていたので、ここへ行き交う人々によって、いつしかこの大通りも千本通りという名になってしまったという。 五、冥土の巡歴 さてこのように多才の篁卿に更にもう一つの大きな才能があった。それは何かと言うと、冥土(人間が死んでからの世界)を巡歴する事のできる神通力を持っており、彼はこの神通力を持ってしばしば現世界と冥土を往復したのであった。冥土の主宰者はえんま法王である。この神通力は篁卿の人柄により法王より授けられたものであった。 その篁卿の日に映った冥土、特に地獄の現相は誠に恐ろしきものであった。等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間の八地獄に悶えている亡者を見て、なんとかして救い上げてやりたいと思った。ところがこの亡者の中に、特に閻魔様に呼び出されてお許しを受け、他の亡者の羨望裡に喜びに打ち震えるようにして娑婆に帰り行く者の姿が篁卿の目に留まった。不思議に思った篁卿は早速その由を閻魔様に伺ったのであった。 「これはいかなる理由によるのでしょうか。」 「これは亡者の遣族が娑婆において死者の回向の為、塔婆を捧げてくれたのじゃ。およそ塔婆の功徳は一枚が仏像一体に匹敵する。塔婆を建て清き真心より追善供養を営めば、たとえ地獄に落ちている亡者でもその苦悩を免れて極楽に往生し、そしてあのように娑婆にも帰る事ができる。」 これを承った篁卿は「このような有り難い功徳は、すべての亡者に及ぼして、極楽の喜びを受けさせたいものだ。」と考え、閻魔法王より「塔婆供善」の秘法を授かり娑婆に帰ってくると早速船岡山を訪ねて、麓に祠を建て篁卿自ら閻魔法王の像を刻んで安置しここで塔婆供養の厳法を修されたのである。即ち現在の閻魔堂これである。 六、結ぴ 京都が千年の王城として、とりわけ佛都として栄えた事は何と言っても弘法大師、伝教大師の遣徳の然らしむる所と言ってよい。 しかし、小野篁卿の善政も無視出来ない。此の偉人達に肩を並ぶる人と言っても過言ではあるまい。 仁寿二年篁卿は五十一才で崩じた。筆者は此の思いを深くする。記事の都合でこの略縁起もここで擱筆するが勿論これで終りではない。千本えんま堂が基礎づけられると、世は藤原道長の時代に至り、比叡山、横川の僧定覚上人に依って、引接寺が開山されそして普賢象櫻が植えられ、ゑんま堂狂言が開創される等々記す事は数多いがそれ等は次ぎに発刊される「引接寺由来記」に譲る事とする。 ◆塔婆供養の御薦め (特に四十九目内の新佛様への訴え) 此所に塔婆供養と申しますのは、祥しくは「五輪宝塔婆に依る供養」の儀であります。この塔婆が我が日本に渡来したのは弘法大師に上って眞言密教が中国から伝承された時からと推察されますが、現今にては宗派を問わずどこのお寺でも、追善回向には必ずと言ってよい程使用されております。 それもその筈、功徳力甚大だからです。何分眞言密教のみ教えがこれ一本に凝集されており、加えてその表現は佛様が座禅しておられる姿なのです。当千本えんま堂の塔婆供養は開基小野篁卿がえんま法王より直伝の秘法である所に特長があります。 今より千年程のその昔、塔婆供養の法を伝授された小野篁卿が此所、舟岡山の山麓、蓮台野を訪ねて祠を建て自作のえんま法王像を安置されて塔婆供養を行われたのが最初であります。勿論その時の法王像は損消し現在の御尊像は室町時代に改作されてからでも五百年。ずっと現在の場所に鎭坐ましましているのだから律とす可きであります。 経典に「塔婆は浄土往生への舟筏なり」とあります。くだいて言ったら極楽へ行く舟か筏であるとの意味であります。 人のこの世は永くして、変らぬ春と思いしに無常の嵐吹きぬれば、春の朝に花を玩遊びし人も夕辺には北郎の煙と消えて行く。 これがこの浮世の誠の相であります。皮肉な事にはそんな人は一家にかけがえのない大切な人がほとんどであります。 一息永く絶えて定命既に尽きぬれば一生涯の内に二度となく、しかも初めて経験する冥土の旅。それは往方も知らぬ黄泉の闇路なれどトポトボと訪迷い歩かねばならない。 数年前に京都から選出された代議士で内閣では法務大臣迄登閣した人があったが此の人が健在なりし時「俺は死んだら坊主のお経なぞ不用だ、葬式なぞしていらん!」と豪語しておられたのを知っているがこの人の葬式の事は知らないが七十才台で逝去された事は確! こんな人でも死なれたならば孤独で野垂れ死にをした者と平等です。 娑婆にありし時にどの様な高位顕官であろうと又如何程の大富豪であろうと今この時は何の支えにも、助けにもならない。 その時にサッと五色の光明がさしこむと共に六道能化の地蔵菩薩がお出ましになり、右手には御供えした宝塔婆を棒持しつつ極楽へ招き御導き下さいます。 これが塔婆供養の御利益であります。

相国寺 慈照院

臨済宗相国寺派に属し、もとは大徳院と称した。延徳2年(1490)足利義政の塔所影堂となり、その法号より慈照院とした。 当院第七世の仏性本源国師(きん叔顕たく(きんしゅくけんたく))は桂宮初代智仁親王、二代智忠親王と親交を深め、寛永6年(1629)には桂宮が当院境内に御学問所を建てられ、同9年に国師に下賜された。 この建物が現在の書院棲碧軒(せいへきけん)である。こうしたところから数ある塔頭の中でも格式の高い寺である。 国師は千宗旦(せんのそうたん)(利休の孫)とも交流があり茶室頤神室(いしんしつ)は宗旦との合作で「宗旦好みの席」とも呼ばれ、四畳半の下座床で躙(にじり)口はなく、南側に障子二枚引の貴人口を設け、床には宗旦に化けた狐の伝説で知られる「宗旦狐」の掛軸がある。 また、席内に持仏堂があり布袋像を安置する。 この像の首は機に応じて利休の首とすげ替えられるようになっており、当時は世間体をはばかり公然と利休を祀れなかったため、こうした工夫がなされたと伝える。

妙蓮寺

本門法華宗の大本山で、卯木山と号し、日像上人(にちぞうしょうにん)を開基とする。 永仁3年(1295)に、柳屋仲興道妙蓮が日像上人に帰依して、西洞院五条の邸を寺に改め、柳寺と称したのが当寺のはじめで、永享(えいきょう)年間(1429~1440)に、日存、日動、日隆、日慶らが、大宮通四条下るに伽藍を移築造営し、妙蓮寺と改めた。 その後、たびたび寺地をかえ、天正15年(1587)豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい)造営のとき、いまの地に移った。 現在の建物は、天明の大火(1787)後の再建である。 玄関、奥書院の襖絵は、長谷川等伯(とうはく)一派の筆といわれる濃彩の金碧(こんぺき)画で、庭内の奇石とともに秀吉が寄進したものと伝える。 なお、寺宝には、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の筆になる立正安国論(りっしょうあんこくろん)(重要文化財)などがある。 ◆由緒 大本山妙連寺は、宗祖日蓮大聖人より帝都弘通宗義天奏の遺命を受けた日像聖人によって、永仁2年(1294)に創建され㍍日像聖人が遺命を果たすため鎌倉より京都へ上られた時、五条西洞院の柳酒屋は深く聖人に帰依し、未亡人は邸内に一字を建立して聖人を請じ、卯木山妙法蓬華寺と称した。これが妙蓮寺の縁起である。(柳の文字を二つに分けて卯木山という。) その後、たびたびの法難にあい衰退していたが、応永年間(1420年頃)本迹勝劣、本迹一致の論争を契機に妙顕寺を退出した日慶聖人によって柳屋の地に本門八品門流として再興される。その後、寺域を堀川四条に移し、皇室ならびに伏見宮家と関係深い日応僧正を迎えるにおよび、皇族始め足利将軍義尚等の参詣多く、また今出川家の公達日忠聖人は、三井寺より改宗して当寺に投じて学室道輪寺を創立し、本化教学の道場を開く。ここにおいて当寺の法運は隆昌を極め、山門の様式も格式高いものとなった。 天文5年(1536)には、法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗を筆頭に諸宗の僧俗10万人によって襲撃され、妙蓮寺をはじめとする日蓮大聖人門下21本山は、ことごとく灰燵に帰し堺に立ち退いた。 天文11年(1542)大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)には、豊臣秀吉の聚楽第造営に際して現在地に移転した。当時は、1k㎡の境内に塔頭27ヶ院を有する大寺院であったが、天明8年(1788)の大火によって、そのほとんどが焼失し、わずかに宝蔵・鐘楼を残すのみとなった。寛政元年より漸次復興して、現在に至り、塔頭8ヶ院を有す。 ◆鐘楼 元和3年(1617)の建立全国的にも数少ない本格的な袴腰型鐘楼で、日本建築史上、江戸時代を代表する貴重な建造物である。 ◆大本山 妙蓮寺 山門 文政元年(1818)に、禁裏より拝領し建立する。両袖番所付山門は、希にみる格調の高い雄姿を誇る。 ◆妙蓮寺蔵松尾一切経 平成5年(1993)夏、妙蓮寺土蔵から松尾一切経が発見された。松尾一切経は、永久3年(1115)頃より、松尾神社の神主秦宿祢親任、その子秦宿祢頼親が願主となり、康治2年(1143)に完成された。安政4年(1857)に妙蓮寺の熱心な檀徒嶋田弥三郎義忠の寄進により妙蓮寺の寺宝となる。平成9年(1997)経櫃とともに三千余巻が重要文化財に指定された。 ◆立正安国論(重文) この立正安国論は、始聞仏乗義(重文)と共に、日源聖人65年(1619)に本阿弥光悦が書写したものである。日蓮大聖人の立正安国論の主旨は、幕府に法華経の精神求すると共に、国民に正しい教えによる世界平和実現の道を説くものとして名高い。 ◆十六羅漢石庭 桂離宮の造園を指図した妙連寺の僧、玉淵坊日首の作であきな青石は、臥牛石といい、秀吉公によって伏見城より移された名石である。 この庭は、火災による損傷が激しかったが、近時に至って造園当時の姿に復元された。 ◆妙蓮寺椿の図 海北友松筆 ■妙蓮寺椿=室町時代、連歌師として有名な宗祇(1421~1502)が、妙蓮寺椿の一枚を写生し、その上に “余の花はみな末寺なり妙蓮寺" と賛した掛軸の写しが、妙蓮寺記なるものに載せられている。 宗祇の在京時代は、妙蓬寺が皇室と関係深い日応僧正を迎えて隆盛を極めた時代と一致し、即ち妙蓮寺椿の名称は、この時よりすでに存在し、500年以上の歴史をもつものである。 ◆法華経(重文) 伏見天皇が、御父後深草天皇の崩御に際し、御父君の遺書(御消息171)の背面に法華経八巻を書写されたものである。 伏見天皇は、とくに和歌、書道に秀でられ、その書風は伏見院流として名高い。 これを納めてある箱は、中国伝来の沈金蒔絵の逸品で、重文である。 ◆十六羅漢石庭 桂離宮の造庭した妙蓮寺の僧玉淵坊日首の作で、白河砂に十六の石を配置し、北山杉を植え込んだ庭園である。 近年になって修復されているが、中央の大きな青石は、豊臣秀吉より賜わったものと伝え、牛が伏せている姿に似ているため、臥牛石といい、「宝命牛玉」という版木が残っていることから、祝儀の時に愛でられたものであろう。 白砂は、宇宙を表し、十六の石は、苦悩する大衆の中から立ち上がって世界を救済すると妙法蓮華経に予言された地涌の菩薩(大地から涌現する菩薩)を表現している。 宇宙大法真理(仏)と個人の小宇宙(仏性)と交響することを感応道交というが、白砂の波は、その交響する波動を表現している。 しかし、仏教庭園は、庭園そのものが宗教であり、観る側に自由な感応を呼びさますものであるので、説明にとらわれる必要はない。

立本寺

日蓮宗本山。1321年(元亨元)日像が京都最初の道場として四条大宮に開いた妙顕寺龍華院を始まりとする。 1413年(応永20)比叡山の衆徒に破却されるが立本寺として再興、その後後水尾天皇のより「園林堂(客殿)」を賜る程の名刹となった。以後何度か場所を変えるが、宝永の大火(1708年・宝永5)で類焼した後、現在地に移った。広大な境内を有し、明治維新前は20に及ぶ塔頭を擁し、現在でも4ヶ寺の塔頭が残る。本尊は十界曼陀羅。 本堂・刹堂(鬼子母神堂)・客殿(園林堂)・鐘楼・山門(総門)は京都市指定有形文化財。 西から南へ広がる庭園は1850年(嘉永3)頃に造営されたもので、京都市の指定名勝になっている。 境内墓地には吉野太夫を見受けした灰屋紹益や石田三成の軍師、島左近らの墓がある。 安産・子育て守護で有名な子安鬼子母神のご開帳は毎月8日2時より。また毎年4月8日には花まつり、11月8日にはお会式の法要がある。 本堂の日蓮上人座像には兜の御影の伝説が、刹堂に祀られる日審上人には幽霊子育て飴の伝説が伝えられている。 京都国立博に寄託の法華経宝塔曼荼羅の完全レプリカを客殿で常設展示。 ◆由緒 立本寺(りゅうほんじ)は日蓮宗の本山で、具足山(ぐそくざん)と号する。創建については二説あって定かでないが、中世には寺地を転々とし、さらに宝永5年(1708)の大火で本堂以下を焼失したのちに今出川寺町より現在地へ移転してきた。 本堂は、現在地へ移ってからもすぐには再建されず、上棟したのは寛保3年(1743)であった。平面は、近世における日蓮宗七間堂の典型的な構成であるのに対して、立面構成では全体に装飾が多く、また変化に富んだ空間構成となっている点に時代的特徴がみられる。 刹堂(せつどう)は、日蓮宗の守護神である鬼子母神(きしぼじん)と十羅刹女(じゅうらせつにょ)を本尊とし、鬼子母神堂とも呼ばれる。享保4年(1719)に再建されたが、天明3年(1783)に再び焼失し、その後文化8年(1811)に再建されたのが現在の建物である。小規模ながら、日蓮宗本堂の平面構成を踏襲した本格的なつくりである。 客殿は、享保十三年に上棟され、六間取(むまどり)方丈形式の平面を基本とするが、仏間が背面に張り出されている。こうした例は、日蓮宗客殿においては早い方に属する。 当寺にはこのほか、鐘楼(寛文年中・1661~1673)、表門(安永7年・1778)も残り、近世中期における日蓮宗本山の寺観をよく伝えている。

瑞春院 (雁の寺)

相国寺塔頭。室町末期「蔭涼軒日録」(おんりょうけんにちろく)=禅寺の僧事一般を将軍へ披露する役を務めた蔭涼軒主の公用日記=を記した亀泉集証が創建。初め雲頂院と号した。 天明の大火で焼失、弘化、嘉永年間(1848-54)に再建(客殿は明治31)された。 水上勉の『雁の寺』の舞台として知られる。(非公開)

清浄華院 

浄華院ともいう。浄土宗四大本山の一つ。 法然上人二十五霊場の二十三番札所。貞観2年(860)清和天皇の勅願によって禁裏内道場として創建され、後白河法皇が受戒のとき本院を宿所としたことから浄土宗に転じたと伝えられる。 もと土御門内裏(つちみかどだいり)の付近(元浄花院(もとじょうかいん)町)にあったが、天正13年(1585)豊臣秀吉によってこの地に移された。その後も再三火災にあい現堂舎は明治44年の再建である。 本堂(御影堂)には本尊法然上人を安置する。不動堂には不動明王画像を安置するが、むかし、僧証空が師の臨終に際し身代りになろうとしたところ、日夜信仰する不動明王が証空の身代りになろうといわれて師の病難を救ったという霊験談があり、世に「身代り不動」と呼ばれて有名である。 その物語を記した「泣不動縁起(証空絵詞)」(重要文化財、室町初期)を寺宝として所蔵している。 なお河原町通にまで続く墓地には戦国時代以来の名士の墓が多い。

水火天満宮 

923年(延長1)醍醐天皇の勅願により菅原道真の神霊を祀ったと伝える。 水難火難除けの神として知られ、もと上京区上天神町にあったが堀川通の拡張により昭和25年現在地に移転した。 菅公(道真)が降り立ったという登天石が境内にある。

本法寺

叡昌山と号し、日蓮宗本山の一つである。永享8年(1436)本阿弥(ほんあみ)清信が日親上人を開基に請(しょう)じて創建したのが当寺の起りという。 はじめ四条高倉にあったが、天文5年(1536)法華(ほっけ)の乱によって山徒に焼かれ、のちここに移った。 江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護をうけて繁栄し、中山法華経寺(千葉市中山にある日蓮宗総本山)輪番にあたる上方三山の一つでもあった。 現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたものであるが、本阿弥光悦作庭の「巴(ともえ)の庭」は有名である。 このほか当寺は本阿弥家の菩提寺であったことでも名高く、一門の墓もあり、本阿弥光悦は多くの書画・什器をよせている。 寺宝には、銭舜挙(せんしゅんきょ)筆と伝える蓮花(れんげ)図、群介図・中文殊(もんじゅ)左右寒山拾得(かんざんじっとく)画像、長谷川等伯筆の仏涅槃(ねはん)図など絵画十点と本阿弥光悦筆の法華題目(だいもく)抄なお書二点の重要文化財を所蔵している。 ◆由緒 叡昌山と号し、日蓮宗本山の一つである。永享8年(1436)本阿弥清信が日親上人を開基に請じて創建したのが当寺の起りという。 はじめ四条高倉にあったが、天文5年(1536)法華の乱によって山徒に焼かれ、のちここに移った。江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護を受けて繁栄し、中山法華経寺(千葉市中山にある日蓮宗本山)輪番にあたる上方三山の一つでもあった。 現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたものであるが、本阿弥光悦作庭の「巴の庭」は有名である。このほか当寺は本阿弥家の菩提寺であったことでも名高く、一門の墓もあり、本阿弥光悦は多くの書画・什器をよせている。 寺宝には、銭舜挙筆と伝える蓮花図、群介図・中文殊左右寒山拾得画像、長谷川等伯筆の仏大涅槃図など絵画十点と本阿弥光悦筆の法華題目抄など書二点の重要文化財を所蔵している。 ◆朝鮮通信使ゆかりの地 1592(文禄元)年から98(慶長三)年まで七年におよんだ文禄・慶長の役(韓国・朝鮮では壬辰倭乱(イムジンウェラン)、中国では万暦朝鮮役(ばんれきちょうせんえき)などとよぶ)は朝鮮半島の人々に甚大な犠牲を与えた。豊臣秀吉の死によって戦闘は終息したものの、その戦後処理は難航した。朝鮮側は新しく日本の政権を握った徳川家康の真意を確かめることが先決だと考えていた。そこで1604(慶長九)年に松雲大師惟政(ソウウンデサン・イジョン)という高い地位にあった僧侶をまず派遣することにした。松雲大師はこの戦中に僧兵を率いて日本軍と戦った人である。同年十二月末に対馬島主などと共に入洛した松雲大師は本法寺に滞在し、家康との会見を待った。その間、京都五山の著名な僧侶たちが本法寺に大師を訪れて詩文の交流をしたり、仏教や儒教の知識について筆談問答を重ねた。ある日本の僧侶は松雲大師を「博覧強記・筆跡もまた麗し」と評している。家康との会見は翌年三月初旬に伏見城で行われた。 この会見で家康は「我は朝鮮に讐怨(しゅうおん)なし。和を請う」と述べた。この報告を松雲大師から得た朝鮮朝廷は、「家康からの謝罪の意思を表わした国書の到来」などが国交回復の条件とした。これが届いたので、1607(慶長十二)年には朝鮮から戦後初めての使節団(回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし))が来日することにつながった。

御霊神社(上御霊神社)

祭神として崇道天皇(早良(さわら)親王)、吉備真備(きびのまきび)、橘逸勢(たちばなのはやなり)はじめ十三柱の神霊を祀る。 この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺(かみいずもでら)があったが、延暦13年(794)平安京奠都(てんと)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運のうちに薨(こう)じた八柱の神霊を祀ったのが当社の初めである。 のち明治天皇の御願により祭神五柱が増祀され、平安時代には御霊信仰(天変地異や疫病流行は怨霊(おんりょう)のたたりであるとする信仰)が盛んで、この怨霊をなだめ祀るための御霊会(ごりょうえ)が数々行なわれたが、当社は古来疫病除の霊社として有名である。 このため創建以来朝野の信仰あつく、とくに御所の守護神として皇室の尊信が深い。本殿は享保18年に下賜された賢所(かしこどころ)御殿の遺構を復元したものであり、また当社には神輿・牛車等皇室の御寄附品多数を蔵する。 境内は「御霊の杜(もり)」といい、応仁元年(1467)正月18日畠山政長と義就(よしなり)の合戦が行なわれ応仁の大乱の発端となったところである。 御霊祭は明治までは8月18日であったが、現在では当日は例祭(社頭(しゃとう)の儀)、5月1日神幸居祭(しんこういまつり)、同月18日還幸祭が行なわれる。