三宅八幡宮(虫八幡)

この辺りは古くは小野郷と呼ばれ、小野氏の居住する地域であった。 社伝によると、推古天皇の時代、小野妹子が遣隋使として筑紫を過ぎる時、病に罹ったので宇佐八幡に祈願をこめたところ、直ちに平癒したので、帰朝後、宇佐八幡を勧請したのがこの社の起源であるといわれる。 祭神は応神天皇である。俗に「虫八幡」といい、子供の疳の虫除けの神として幕末期より崇敬を集めており、特に9月15日に行われる例祭には子供連れの参詣者で大いに賑わう。 東方には、慶長年間、石棺及び墓誌(国宝)が発掘された小野毛人の墓がある。 墓誌には天武天皇五年(677)の年号が銘刻されているので名高い。

御辰稲荷神社

1705年(宝永2)、東山天皇の即室、崇賢門院が白きつねの霊夢を見たことから東山天皇の勅許を受け創建されたと伝える。 祀られた社が禁裏御所の辰(東南)の方角にある森であったことから、御辰稲荷と呼ばれた。 御辰稲荷は、「辰」の字が達成の「達」につながるとされ、芸事の神様として信仰されている。 「京の風流キツネは碁の好きな宗旦キツネと琴の上手な御辰キツネ」とうたわれ、昔から芸事をする人たちの参拝が絶えなかった。

本妙寺(赤穂義士の寺)

1574年(天正2)日典が新烏丸丸太町付近に創建。 宝永の大火のあと、現在地へ移った。 境内に赤穂義士吉田忠左衛門・同沢右衛門および貝賀弥左衛門夫妻らの墓がある。 貝賀の手槍、義士たちの手紙なども奉納され、四十七士の木像を安置。

妙円寺 (松ヶ崎大黒天)

「妙法」の送り火で知られる松ヶ崎東山「法」の下にある。 1616年(元和2)日英上人が創建の際、法華経の守護神として別棟にまつったのが大黒さん。 「松ヶ崎の大黒さん」として全国より参拝あり。日蓮宗。 1969年(昭和44)の火事で無事だったので、「火中出現の大黒天」とも呼ばれる。 60日に1回の甲子(きのえね)の日にご開帳。 諸願成就・寿福円満の御祈祷が執行される。 都七福神の一つ。 建立:1616(元和2)年3月15日 ◆由緒 松ヶ崎妙円寺と号し、日英上人の開基にかかる日蓮宗の寺である。 本尊の大黒天は伝教大師の作、日蓮聖人が開眼したものといわれている。 当寺は京都の表鬼門に位する所から、古来、福運を授ける神と信じられ、 昭和44年(1969)の火災にも無事で「火中の大黒さま」と呼ばれて、正月初子の日を始めとし、甲子の日には参詣者が多い。 当寺は京都・都七福神の第一番で背後の山では毎年8月16日盂蘭盆会の行事として「妙法」二字の送り火を点ずる。

金福寺

864年(貞観6)円仁(慈覚大師)の遺志を継ぎ、安恵僧都が創建。 江戸中期に鉄舟和尚が再興し、現在は臨済宗南禅寺派。 松尾芭蕉が鉄舟と親交を深めたという芭蕉庵は荒廃したが、のち与謝蕪村が再興。紅葉が美しい。 背後の丘に与謝蕪村ら近世の俳人の墓や句碑がある。 また、舟橋聖一作歴史小説「花の生涯」や諸田玲子の「奸婦にあらず」のヒロイン村山たか女は文久2年、勤皇の志士によって三条河原でさらし者にされたが、3日後助けられて金福寺に入り尼として明治9年まで14年間すごし、当寺で生涯を終った。 法名は清光素省禅と云う。 本堂では与謝蕪村と村山たか女の遺品が拝観できる。 庭園は皐月の築山と白砂の簡素な枯山水。 3段の生垣ごしには素朴な趣の芭蕉庵の萱葺き屋根が見える。 3月は紅梅とあせびの花、11月はさざんかと特に紅葉が美しい。 芭蕉庵からは洛中が一望できる。

百萬遍 知恩寺

長徳山功徳院と号し、浄土宗四本山の一つである。 もと賀茂社の社領とされた今出川の北(今の相国寺の辺)に賀茂社の神宮堂あるいは賀茂社の河原屋(かわらや)と呼ばれる草庵があって、法然上人もこの庵に止宿し、布教の地としたが、上人の死後、勢観房源智上人(せいかんぼうげんちしょうにん)は尊師法然上人を敬慕し、そのゆかりの地賀茂社の河原屋に御影堂を建て、功徳院知恩寺と名付けたのが当寺のおこりである。 元弘元年(1321)疫病が流行した際、宮中で七日間百万遍の念仏を唱え疫病を退散させたので、後醍醐天皇から百万遍の寺号を賜った。 その後、転々として寺地を変えたが、寛文元年(1661)この地に移った。 本堂には、本尊として法然上人四十三才の時の自作と伝える木像を安置し、その東南の御堂には釈迦如来座像を、西方の阿弥陀堂(念仏堂)には阿弥陀如来立像をそれぞれまつる。 墓地には法然上人やその弟子源智の廟や画家土佐光起(とさみつおき)の墓などがある。

八大神社

永仁二年(1294)に創建された。 御祭神には一乗寺の産土神、氏神として素盞嗚命、稲田姫命、八王子命を祀っている。 禊祓い、農耕・水、森林・山、縁結び・和歌、方除・厄除、学業・教育と様々な御神徳をそなえている。 境内には慶長九年(1604)宮本武蔵が吉岡一門と決闘せし当時の下り松の古木がある。 宮本武蔵が吉岡一門との「一乗寺下り松の戦」の前に八大神社に立ち寄った縁から、由緒ある下り松の古木が本殿西に保存されることとなった。 現在の本殿は大正十五年造営。 ◆由緒 当社は永仁2年3月15日勧請(今より約700年前)(西暦1294年)祇園八坂神社と御同神に坐し古来より北天王(北の祇園)と称し皇居守護神12社中の一にして都の東北隅表鬼門に位置し、方除、厄除、縁結び、学業の神として世の信仰厚く、後水尾天皇、霊元天皇、光格天皇、修学院離宮行幸の砌り御立ち寄り白銀等御奉納あり 明治6年10月5日 藪里午頭天王社(永享10年11月28日勧請)(西暦1438年) 明治7年3月5日  舞楽寺八大天王社(永享10年9月朔日勧請)(西暦1438年)   を合祀す。大正13年幣帛供進神社に指定せられる。 因みに、剣聖宮本武蔵が、吉岡一族と決斗せし当時の”下り松”の古木は本殿西に保存してある。 ◆剣聖『宮本武蔵』と八大神社 武蔵が一乗寺下り松に立って多数の敵にまみえた日のまだ朝も暗いうちに、彼は、死を期したこの危地へ来る途中で、八大神社の前で足を止めて、「勝たせたまえ、きょうこそは武蔵が一生の大事」と彼は社頭を見かけて祈ろうとした。拝殿の鰐口へまで手を触れかけたが、そのとき彼のどん底からむくむくわいた彼の本質が、その気持を一蹴して、鰐口の鈴を振らずに、また祈りもせずに、そのまま下り松の決戦の場所へ駆け向ったという。 武蔵が自分の壁書としていた独行道のうちに、 我れ神仏を尊んで神仏を恃(たの)まず  と書いている その信念は、その折ふと心にひらめいた彼の悟道だったにちがいない。 武蔵にこの開悟を与えたことに依って、一乗寺下り松の果し合いはただの意趣喧嘩とはちがう一つの意味を持ったものと僕はそう解釈する。 吉川英治「随筆 宮本武蔵」より

南禅院

御霊殿には亀山法皇の坐像(重文)を安置。 襖絵は狩野養朴筆。 亀山法皇によって作られた池泉廻遊式庭園は、夢窓国師の手で完成された京都で唯一の鎌倉時代の名園(史跡・名勝)。 南禅寺発祥の地である。 亀山法皇離宮の持仏堂であり、法皇はここで落飾された。 現在の建物は1703年(元禄16)、木下利三の縁者、円成院禅尼・徳川綱吉の母、桂昌院により再建された。