法観寺 (八坂の搭)

東山区八坂通下河町東入。 通称「八坂の塔」と呼ぶ。 飛鳥時代、八坂氏の氏寺として創建された古刹。 高さ46メートルの五重塔(重文)は、1440年(永亨12)足利義教の再建。他に薬師堂、太子堂が残る。 塔は東山の景観に欠かすことのできない存在。臨済宗建仁寺派有料。 ◆由緒 霊応山(れいおうざん)と号し、臨済宗建仁寺派に属する。  寺伝によれば、聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げにより建立し、往時は延喜式七ヶ寺のひとつに数えられ隆盛を極めたが、現在は八坂の塔(五重塔)と太子堂、薬師堂の二宇を残すのみである。  八坂の塔は本瓦葺5層、方6メートル、高さ46メートルの純然たる和様建築で、白鳳時代の建築様式を今に伝えるものである。創建以来度々災火により焼失したが、その都度再建され、現在の塔は永享12年(1440)に足利義教(よしのり)によって再興されたものである。塔内には本尊五智如来像5体(大日、釈迦、阿しゅく(あしゅく)、宝生、弥陀)を安置し、須弥壇(しゅみだん)の下には古い松香石製の大きい中心礎石があり、中央には舎利器を納めた3重の凹孔が残っている。  寺宝として、塔を中心に当時の社寺を描いた紙本著色八坂塔絵図のほか、足利義教画像、法観雑記など貴重な文化財を蔵している。

月真院 (御陵衛士屯所跡)

臨済宗建仁寺派、高台寺塔頭。 亀井豊前守の保護の下に、豊臣秀吉の外戚久林が1616(元和二)年開創。境内には織田信長の子、有楽斎が植えたとされる椿がある。 幕末には、新選組から分離した伊東甲子太郎が、孝明天皇御陵衛士を組織し、屯所を月真院にかまえた。

天得院(桔梗の寺)

万松山(ばんしょうざん)と号し、臨済宗東福寺派に属する。 南北朝時代の正平年間(1346~70)東福寺第30世住持無夢一清(むむいっせい)禅師が開創した。 その後、年と共に寺は荒廃していったが、大機慧雄(だいきえゆう)禅師により再興され、慶長19年(1614)文英清韓(ぶんえいせいかん)長老が住持となった。 清韓は、豊臣秀吉、秀頼の学僧として寵遇され、秀頼の請に応じ方広寺の鐘名を撰文したが、銘文中の「国家安康、君臣豊楽」の文字が、徳川家を呪詛(じゅそ)するものとして徳川家康の怒りを招き、ついに、寺は取り毀されたといわれている。 現在の堂宇は、その後の天明9年(1789)に再建されたもので、明治元年(1868)には、山内の塔頭本成寺を合併して今日に至っている。 庭園は、美しい苔に覆われた枯山水庭園で、桃山時代の作庭とも伝えられている。  また、境内には、歌人の荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の句碑が建っている。

芬陀院 (雪舟寺)

東福寺塔頭。 雪舟作と伝える鶴亀の庭があるところから雪舟寺で知られる。 元享年間(1321-24)に関白一条内経が創建。庭園は禅院式枯山水。 ‘茶関白’一条恵観ゆかりの茶室図南亭が有り、遺愛の勾玉(まがたま)の手水鉢が残されている。 ◆由緒 芬陀院は臨済宗東福寺派の大本山、東福寺の塔頭寺院の一つで、雪舟作の名園を伝えることから「雪舟寺」の名で親しまれる。 創建は鎌倉後期、後醍醐天皇の元亨年間(1321-1324)にさかのぼる。ときの関白一條内経(1291-1325)が東福寺開山聖一国師の法孫にあたる定山祖禅和尚を開山として創建。以来、一條家の菩提寺として今日に至る。 その後、二度にわたり堂宇を焼失するが、のちに桃園天皇の皇后恭礼門院より賜った御所内旧殿を移築。 現在の建物は、明治32年(1899)昭憲皇太后からの御内帑金により改築したものである。唐門も同じく恭礼門院の御所より移築された。 ◆雪舟庭園「鶴亀の庭」 南庭は「鶴亀の庭」と呼ばれる。水墨画家である雪舟(1420-1506)の作庭による。 雪舟が少年期を過ごした備中(岡山県)宝福寺は、大本山東福寺の末寺であり、当院とは深い法縁がある。雪舟の大本来山のおりには当院に起居したと伝わる。当時の大檀徒であった一條兼良公(1402-1481)の所望により雪舟が作庭した。 様式は禅院式枯山水。寛正・応仁期(1460-1468)の作で、京都で最古の枯山水庭園の一つとされる。向かって左の「鶴島」は折り鶴を、右の「亀島」は二重基壇により亀の姿をそれぞれあらわす。 二度の火災と永い歳月の中で荒廃し、林泉愛好家から惜しまれていたが、昭和14年(1939)作庭家重森三玲氏の手により、一石の補足もなく復元された。重森氏はその際に、同じく鶴亀の島を題材とした東庭を新たに手掛けている。 南庭が亀島を中心とするのに対し、東庭は鶴島を中心に構成されていることを特色とする。 ◆茶関白恵観公と図南亭 一條家第14代の関白一条恵観(昭良)公は、後陽成天皇の第9皇子にあたる。茶道を愛好したことから“茶関白”と呼ばれた。東福寺参拝の折には、茶席図南亭にて茶を楽しんだと伝えられる。 図南亭は宝暦の火災で焼失したが、昭和44年(1969)の恵観公300年忌法要にて復元され、これを機に「恵観堂」と称することにもなった。躙口のない貴人好みの茶室が往時の姿を偲ばせる。内部に公の木像を安置するほか、露地に公愛用の勾玉の手水鉢、崩家形燈籠を配している。「図南」の扁額は石川丈山の揮毫による。

大谷本廟

浄土真宗本願寺派(西本願寺)宗祖・親鸞聖人の廟所(祖壇)。 徳川幕府の命により1603(慶長8)年、現在の東山五条に移転。 明著堂、佛殿(本堂)、無量寿堂、総門などの建物が並び、参道正面の円通橋(通称「眼鏡橋」)は江戸期の遺構。 大谷墓地には約1万3千余基の墓地、無量寿堂には約3万2千基の仏壇付納骨所がある。 毎月第3日曜日には総門下の参道にて、朝市を開催している。(9:00~14:00雨天中止)

戒光寺(丈六さん)

御寺泉涌寺塔頭(たっちゅう)の一寺で、安貞2年(1228)宋国から帰朝した曇照忍律(どんしょうにんりつ)上人により八条大宮の東、堀川の西に創建され、後堀川天皇の勅願所となった。 その後、一条戻り橋の東に移り、更に三条川東を経て正保2年(1645)に現地に再興された。 本尊釈迦如来(重要文化財)は運慶・堪慶父子の合作、極彩色で宋風をおび、他に例をみない木彫の大仏であり、鎌倉時代の代表作でもある。 後陽成天皇皇后の御信仰や後水尾天皇の守護仏としても深く信仰されて再三勅願所となり、「身代わり丈夫さん」と呼ばれ皇室の御祈願所として栄えた。 京都八釈迦の一つにかぞえられ、嵯峨及び千本釈迦堂本堂とともに一般庶民にも深く信仰されている。 ◆縁起 皇室の菩提寺である真言宗 泉涌寺派総本山御寺 泉涌寺の塔頭で、総門をくぐると左側にある初めての寺院である。 当山の開創は鎌倉時代、後堀川天皇(在位1221年~1232年)の安貞2年(1228)、帝の勅命によって八条大宮の東と、堀川の間に建立され、後堀川天皇の勅願所として皇室、庶民の尊崇を集めた。 しかしながら、239年後の応仁元年(1467) に勃発した応仁の乱により堂舎はことごとく灰塵に帰したが、本尊釈迦如来立像と開山曇照忍律上人座像は兵火を逃れ一条戻り橋の元誓願寺辺りに移転、更に三条河原町に移転されだ。現在地に移転されたのは、正保2年(1645)後水尾天皇の発願により後光明天皇の時代に移転されたのである。 尚、八条大宮の東と一条戻り橋の東には現在も戒光寺町の名前が残り、昔を偲ぶことができる。 ◆本尊の釈迦如来立像(重要文化財) 宋風をおびた極彩色の寄せ木造りで、鎌倉時代の仏師「運慶・湛慶」父子の合作と伝えられ、身の丈一丈八尺 (約5.4メメートル)、総丈三丈三尺(約10メートル)に及ぶ世に比類の無い大仏であり、重要文化財に指定されている。世lこ「御身代わりの丈六さん」と呼ばれているが、古来より大きな佛様を丈六仏と呼んだそうである。 寺伝によると、後水尾天皇が東宮(皇太子)の時に御即位争いが起こり、危うく命を落とされようとしだ時に、釈迦如来が御身代わりに立たれたそうである。その証が像の首元にある刀傷と血の跡である。後水尾天皇はこれを大変尊び「万歳の後までも崇め奉らん」と、皇室ゆかりの泉涌寺の地に移されだのである。 これ以降、 特に首上一切の病気平癒と御身代わりの仏様として信仰され、御祈涛を願われる方も多く現在に至っている。 ◆開山淨業律師(1187~1259)(重要文化財) 曇照忍律上人と呼ばれ、28才で入宋求法。鉄扇守一師より戒律を学び奥義を極められ、宋の理宗皇帝より忍律の称号を受け帰朝、後堀川天皇より曇照の勅号を賜り、戒律復興に努められだ大徳である。 2度目の入宋の後仁治2年(1241)東林寺を建立、現在は廃寺となっているが、泉涌寺門前の南側に東林町という町名のみが残っている。 尊像は律僧特有の袖の大きな衣を着け、合掌して座す柔和な表情をした像であり、晩年の端座合掌して入滅した姿を彫刻したものと伝えられる。 ◆泉山融通弁財天(秘仏) 境内に祀られている「弁財天」は、泉山融通弁財天と呼ばれ、伝教大師・最澄御作と伝えられる木造極彩色の八臂座像で秘仏である。世のあらゆる願い事を成就させる尊天として融通さんと呼ばれ、古来よりお百度参りをし、所願成就を祈願する信者が後を絶たない。 特に1月の成人の日に行われる七福神巡り、11月3日の弁財天大祭には、特別御開帳があり参詣者で賑わう。 ◆御陵衛士の墓所(元新撰組隊士) 戒光寺墓所には幕末の勤王万元新撰組志士伊東甲子太郎 .藤堂平助・服部三郎兵衛・毛内監物ら悲運の高台寺党の墓地があります。

妙法院

天台宗の門跡寺院。妙法院という名称は、平安後期、比叡山西塔本覚院の快修がこの別号で呼称されたことに始まる。 幕末まで代々法親王が住持。庫裏(国宝)は1595年(文禄4)頃の建築で、本瓦葺入母屋造という。 豊臣秀吉の造営。大玄関、大書院(重文)は狩野派の障壁画で飾る。 大書院 妙法院にある江戸時代建築の重要文化財建造物。後水尾天皇中宮東福門院の御所の旧殿を賜ったと伝えられる。 壁・襖絵は狩野派によって描かれ、桃山時代の豪華な特色を見せている。 庫裏 妙法院にある桃山時代建築の国宝建造物。建棟高60尺近い建物。内部は土間・板間・座敷に分かれ、天井は小屋組が露出している。 豊臣秀吉が千僧供養を行った際の台所として建てられたと伝える。

禅居庵(摩利支尊天堂)

建仁寺第23世、清拙正澄(せいせつしょうちょう)(1274-1339)が晩年退隠された塔頭寺院。 小笠原貞宗が元弘年中に創建する。 禅師は中国福建省福州に生まれ、月潭紹円禅師に就いて出家後、浄慈寺、霊隠寺、育王寺を辺参、愚極智慧禅師の法を嗣ぐ。 また清規を制定し衆寮を造営、叢林の風紀を粛正する。 嘉歴元年(1326)禅師の名声を聞いた海東の檀信が師を日本に招請するに応じ翌年来朝、上京後北条高時に迎えられ鎌倉建長寺、浄智寺、円覚寺に住山。元弘3年(1333)後醍醐天皇の招請により京都建仁寺に住し、のち南禅寺にも住し再び帰山後当庵に退居する。 暦応2年(1339)正月17日自ら設けた「百丈忌」の当日、当庵にて遷化。世壽66歳。大鑑禅師と諡(おくりな)される。 当庵鎮守堂安置秘仏の「摩利支天像」は師が来朝に際して請来したもの。 (毎年10月20の大祭において秘仏摩利支天が御開帳される) ◆由緒 この寺は臨済宗建仁寺派の塔頭で禅居庵と申します。 禅宗寺院では境内に、本堂の本尊とは別に鎮守を祀ります。毘沙門天、弁財天、大黒天など、天部と言われるこれらの他にも、陀枳尼天(稲荷)や、天神さんなどを祀る寺院もあります。天災地変・火災盗難などから境内・諸堂を護り、仏法益々の興隆を願うのです。天部とは古代インドのバラモン教の神々が仏教に取り入れられ、仏教の守護神、護法神となったものを総称したものです。摩利支天もこの一つになります。 摩利支天の語源はサンスクリット語で、陽炎を意味するMarici(マリーチ)の音を漢字に写したものです。またそのルーツは威光、陽炎が神格化した古代インドの女神マーリーチで、創造神プラフマー(梵天)の子と言われています。 「仏説摩利支天経」によると、「天女あり。摩利支と名づく。大いなる神通自在の力をもつ。常に日月天の前を行く。日天・月天は彼を見ること能わず。彼は能く日を見る。人の見る能う無く、人の知る能う無し。人の捉える能う無く、人の縛る能う無し。人の害する能う無く、人の欺き誑かす能う無し。人の其の財物を債る能う無く・・・・・」などとあり、また「若し彼の摩利支天の名を知りて常に憶い念者あれば、彼の人亦、見られるべからずして知られべからず・・・・」と、その人は摩利支天と同様の功徳が得られると書かれています。 このように陽炎には実体が無いので、捕らえられて傷つけられることが無い。害されることが無いところから戦国の武将の間にこの摩利支天信仰が広がったようです。他にも楠木正成や前田利家は兜の中に摩利支天の小像を入れて出陣したと言われています。 ◆禅居庵の摩利支天 当庵のご開山大鑑清拙正澄禅師(1274~1339)は中国福建省福州のお生まれで、月潭紹円禅師に就いて出家後、浄慈寺、霊隠寺、育王寺など諸方を辺参され破庵派の愚極智慧禅師の法を嗣がれます。 このころ我が国からも多くの僧が禅の正法を求めて海を渡っており、嘉歴元年(1326)禅師の名声を聞いた「海東の檀信が師を日本に招請した」と記されています。禅師は劉氏の子として祖先より摩利支天を信仰しておられました。この折のことを当庵の縁起書は次のように伝えています。 「禅師は海岸に到って東海の渺々として遥かなるをご覧になって、彼の国の因縁は如何であろうかと思慮されたところ尊天、猪の背に坐し忽ち現れ告げられるのに『東の国に縁あり早く纜を解きなさい、我も師に随って同じく海を渡り師を守って永く迹を彼の国に留めて末世の衆生を利益し国家を鎮護せん』と。禅師、尊天に形を暫し留められんことを願い、師、手づから清浄の泥土で尊天の坐像を作り袈裟に包んで船に乗られる。海路、悪風、巨浪に師は少しも動ぜず、一心に尊天を念じ、また同船の人にも勧めて一心に聖号を唱えられ難なく尊天を奉じて筑前博多に来朝の一歩をしるされた。」 翌年正月、上京された禅師は北条高時に迎えられて鎌倉に下り、建長寺、浄智寺、円覚寺に住山されたあと建長寺山内に禅居庵を構えて退隠されます。しかし元弘三年(1333)には京都建仁寺に第二十三代住持として迎えられます。この折、境内に十境を新成しまた浴室を修造されています。やがて三年を経て南禅寺に住されますが、その間、小笠原貞宗の帰依を得て信州伊那に開善寺を創建し開山になっておられます。 南禅寺住持を辞し建仁寺山内禅居庵に退隠された禅師は暦応二年(1339)正月十七日、ここにおいて遷化されます。六十六歳でした。その日はくしくも、禅師が尊崇する、叢林での規則、「百丈清規」を著した唐の禅僧、百丈懐海禅師の正忌日に当たりました。 自らも「大鑑清規」を著すなど、我が国に大きな足跡を遺された禅師はその住されたところにこの摩利支尊天をいつもお祀りされました。禅師入滅の地となった当庵摩利支天堂にはこの摩利支尊天像が秘仏として六百八十年近く祀られています。そしてこの堂宇は初め元弘年間(1331~3)に小笠原貞宗により創建されましたが、天文の兵火で焼かれ、天文十六年(1547)に織田信長の父である信秀が建立したと伝えられています。その後、元禄、享保、安政の年に整備や大改修が加えられ、明治8年に小屋組み、平成7年に屋根部分の改修が加えられ今日に到っています。 また、天文の再建とはいえ、創建時代の禅宗様仏殿の遺構が残されており中世様式の貴重な建造物として平成7年、文化財の指定を京都府より受けています。 ◆摩利支天の姿と猪 摩利支天の姿は見えないのですが、像として祀られるその形は大きく次の二つに分かれるようです。『仏説摩利支天経』や『摩利支提婆華鬘経』によると、天女の姿に似ており、左手を乳の前に当てて拳をつくり天扇を握っている。右手は腕を伸ばし指も伸ばして下に垂らしているとあります。一方『大摩里支菩薩経』には別の姿で現されています。 即ち三面六臂の憤怒相で一面は菩薩の相、もう一面は童女の相をしている。六臂にはそれぞれ持ち物があり、弓・箭・針・線・鉤・羅索・金剛杵などの武器を持ちます。針や線は害するものの口と眼を縫い合わせ害を加えないようにするためです。また腕が八本の姿のものもあるようですが経には更に、猪車に乗りて立つこと舞踏の如し、と記されています。 禅居庵の摩利支天像をはじめ日本で祀られているこの像の多くが猪を眷属として従えているのはここから来ているのでしょう。一頭の上に片足で立つ像や、五頭や七頭の上に坐す像があります。農家では作物を荒らす嫌われ者の猪も、古代インドや西アジアではその素早さが智慧の迅速さや勇敢さをあらわすものとして結びついたのかもしれません。

恵美須神社

鎌倉期、栄西禅師が建仁寺建立にあたってその鎮守として創建。七福神の一つ‘ゑびす神’(八代言代主大神)を祀る。 商売繁盛、家運隆盛で大衆の信仰を集めている。 1月8日~12日の‘十日ゑびす(初ゑびす)大祭’は参詣者で大にぎわいとなる。 又、旅行安全でも知られている。