東本願寺山科別院長福寺

真宗大谷派。東本願寺の山科別院。1732年(享保17)、本山17世真如上人が当時東本願寺の境内にあった長福寺を、現在地に移築し創建した。 本尊は阿弥陀如来立像。 毎年3月24.25日に蓮如上人御正当法要と9月24.25日に親鸞聖人報恩講が厳修される。 山科別院より南西へ徒歩3分、「真宗再興の祖」と仰がれる本願寺八世蓮如上人の御廟所がある。

双林院 (山科聖天)

本尊は、大聖歓喜天。 1665年(寛文5)公海大僧正によって毘沙門堂とともに再建。聖天さんは、十一面観音と大日如来の化身の姿という。 頭が象で、首から下は人間の姿。 二体が向かい合って抱擁されていることから「男女合体神」「陰陽和合」を表わす。 この像は厨子に納められ秘仏として拝まれており、直接お姿を見ることはできないが霊顕あらたな天尊である。 本尊のほか70体近い歓喜天像を合祀している。 ほかに、由緒めずらしい不動明王・阿弥陀仏はお姿を拝むことができる。 建立:1665(寛文5)年 毘沙門堂門跡の山内寺院として建立 春は桜、秋はもみじが見どころ ◆大聖歓喜天(聖天さま) その御尊像は、十一面観世音菩薩と大日如来が力を合わされ、大自在天として化身し、頭が象で体が人身という2体の抱擁身の姿で出現されたインドより渡来の密教の仏様です。 ご利益は現世利益が中心で、御本誓として「現世の苦を除き現世の幸福を増す」と説かれ、願い事は、一心に聖天様におすがりして祈ることによって叶え荒れるという。 法力が大変強大であらたかなことから、そのお姿は修行をした聖天行者しか拝むことができない秘仏(非公開)として信仰されている。 内陣中央部には真中に御本尊が安置され、脇には修法として「浴油」という、油をかけて御祈祷する金銅の尊像が納められている。後壇の中心には、ご本体である十一面観世音菩薩を祀り、両脇には創建当時から今日まで、各方面からの奉納や預けられた聖天像(客天と云う)が、70数体安置され、その中には武田信玄が出陣の際、兜に入れていたと伝えられる聖天像も安置されている。 ◆不動明王 本尊 不動明王(桃山時代作)は、比叡山の千日回峰行者であった第24代住職が、明治16年に比叡山無動寺谷より勧請されたもので脇佛に四大忿怒像を従えた五大明王である。 本尊は愛染明王や馬頭観音(平安期以前の作)その他複数の仏像が巧みに組み合わされたもので、その数は約300部材に及ぶ。特に頭部には如来の螺髪があり、その頂点には楊枝状の部材が約100本納められているという、他に例のない大変珍しい仏像である。 織田信長の焼討ちにより損傷した多くの仏像を当時の仏師が2度とこのような悲劇が起こらないよう祈りを込め、災難の種を護摩の炎により消滅させ、私達人間の苦しみの身代りとなって願いをかなえて頂けるという不動明王として蘇らせたものであると言われている。

本願寺山科別院

浄土真宗本願寺派。本願寺中興の祖と仰がれる蓮如上人ゆかりの聖地が、この山科別院であります。上人64歳の時、1478(文明10)年、近州・金森道西の願いにより、山科郷野村西中路に坊舎を建てられました。これが、山科本願寺の始まりです。 中宗堂にご安置されている蓮如上人像は、上人54歳の御自作として、永くご本山に伝えられてきましたが、明治期に中宗堂を本山中宗堂代と定められ、これよりこの御像は永く山科の地に安置されることとなりました。

はねず踊(隨心院)

3月最終の日曜、隨心院。ちょうどはねず(うすべに色)の梅が咲くころ。 小野小町を偲ぶ土地の童唄と踊りが、隨心院前庭の梅林に屋台を組んで催される。 小野小町・少将に扮した少女の踊りが人目を引く。 一時途絶えていたが1973年(昭和48)に復活した。

岩屋寺

当寺は従来天台宗に属し、比叡山三千坊の一にして、山号を神遊山と号し、曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で、むかしは山科神社の神宮寺であったと伝えられる。 本堂に安置する本尊不動明王は智証(ちしょう)大師の作と伝え、大石良雄(よしお)の念持仏であったという。 本堂の下段境内に大石良雄の遺髪塚及び宅址がある。赤穂城明渡しの後、彼はここにかくれてひそかに討入りの謀をめぐらしたが、事成ってのち、邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進した。その後、当寺は荒廃したが、嘉永年間(1848~1854)に堅譲(けんじょう)尼が京都町奉行浅野長祚(ながとし)等の寄付をうけて再興した。 境内には本堂・毘沙門堂のほか、明治34年(1901)に建立された木像堂があり、堂内に浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)公の位牌(いはい)及び大石良雄の遺品、他に47士の位牌木像を安置する。

毘沙門堂

護法山出雲寺と号する天台宗の門跡(もんぜき)寺院である。 大宝3年(703)創建と伝え、延暦年間(782~805)伝教大師(でんぎょうたいし)が下出雲路(しもいずもじ)で自ら作った毘沙門天を安置して下出雲路寺と名づけ、天台宗をひろめたので、世人はこれを毘沙門堂と呼んだ。 中世以降、たびかさなる戦乱で荒廃し、天正年間(1573~91)に織田信長の兵乱で堂宇を全焼した。 慶長16年(1611)に天海僧正が後陽成天皇の勅命によって再興をはかり、中途で天海が亡くなったため、その高弟公海が遺志を継いで寛文5年(1665)に再建され、以来、代々法親王が入室されて毘沙門堂門跡と称された。 本堂には伝教大師作の毘沙門天を本尊としてまつっている。 ◆由緒 毘沙門堂は、護法山出雲寺と号する天台宗の門跡寺院である。建久6年(1195)、平親範が平等寺、尊重寺、護法寺を統合して平安京外東北の出雲路に寺院を建立したのに始まる。中世後半には荒廃したが、寛文5年(1665)には公海が現在地を寺地として幕府より賜り、さらに元禄・宝永年間には公弁が寺地の整備を行い、今日のような寺観に整えられた。 本堂は将軍家綱が大檀越となり、また紀伊と尾張の徳川家からは材木が寄進されて、寛文6年に竣工した。全体に漆塗や彩色、彫刻が施されて、豊かな装飾に特色がみられる。本堂の前方に建つ唐門、仁王門は共に本堂と同時期のもので、和様と禅宗様が混合した特徴的な手法で一貫し、日光東照宮の諸建築に通じる雰囲気をもっており、畿内では他に例があまりない。仁王門西方の鐘楼は、様式上17世紀後半のものと考えられる。 これら寺院としての施設に対して、境内の西寄りには宸殿をはじめとする門跡の住居施設が並ぶ。宸殿は、17世紀末の造営になる六間取方丈型平面の建物で、西面に使者の間と玄関が接続する。各室は金碧障壁画(京都市指定・登録有形文化財)で飾られ、なかでも北東隅の帝鑑の間は上段となって背面には2間の床と1間の棚を備え、南の四愛の間を次の間としている。一部改造されているものの、近世門跡宸殿の典型を示すものである。また、この前方に建つ勅使門と薬医門は18世紀初期の造営になる。 毘沙門堂のこれらの一連の建築群は、近世門跡寺院の景観を伝えるものとして貴重であり、昭和60年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。

随心院

真言宗小野流の大本山で、正暦2年(991)弘法大師第8世の法孫仁海(にんがい)僧正の開基であって、もと牛皮山曼荼羅(ぎゅうひざんまんだら)寺といった。 当院は真言宗小野流発祥の地であって、第5世増俊が塔頭に随心院を建立し、第7世親巌の時、後堀河天皇より門跡(もんぜき)の宣旨をうけ、以来、小野曼荼羅寺御殿随心院門跡と称した。 その後、応仁の兵火で炎上したが、慶長4年(1599)九条家から入った第24世増孝が再興し、今日にいたっている。 本堂は再興当時のもので、本尊如意輪観世音菩薩像のほかに、阿弥陀如来像(重要文化財)及び快慶作の金剛さった像等を安置する。 書院は徳川秀忠(ひでただ)夫人天真院尼の寄進である。 この附近は、小野小町の旧跡と伝え、境内には小町文塚、化粧の井戸があり、小町の艷書をはったという地蔵菩薩も安置されている。 なお、境内地は昭和41年6月21日文化財保護法による史跡に指定された。 真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師の八代目の弟子に当たる仁海(にんがい)僧正が正暦2年(991)に創建した。 もとの名は牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひざんまんだらじ)といい、その名は、ある夜、亡き母が牛に生まれ変わっている夢を見た仁海僧正が、その牛を探し求めて世話を尽くしたものの、間もなく死んだため、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて本尊としたことに由来する。 その後、第五世増俊(ぞうしゅん)が曼荼羅寺の塔頭(たっちゅう)として隨心院を建立し、第七世親厳の時、後堀河天皇より門跡(もんぜき)の宣旨を受け、門跡寺院となった。 この辺り小野は小野一族が栄えた場所であることから、絶世の美女として名高い小野小町ゆかりの寺としても知られ、境内には小町(こまち)に寄せられた多くの恋文を埋めたという文塚(ふみづか)や、化粧の井戸などが残されている。 梅の美しい寺としても有名で、三月の最終日曜日には、小野小町に恋した深草少将の百夜通(ももよがよ)いの悲恋伝説をテーマにした「はねず踊り」(はねずとは梅花の薄紅色のこと)が披露される。 ◆由緒 当山は、真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師より八代目の弟子にあたる仁海僧正の開基にして、一条天皇の正歴二年(西暦991年)奏請して、この地を賜り一寺を建立されました。 古くは牛皮山曼荼羅寺と称されました。仁海僧正一夜の夢に、亡き母が牛に生まれ変わっていることを見て、その牛を鳥羽のあたりに尋ね求めて、飼養しましたが、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を画き本尊にしたことに因んでいます。 牛尾山は仁海僧正が牛の尾を山上に埋めて、菩堤を弔ったと伝えられています。又、仁海僧正は深く宮中の御帰依を受け、勅命により、神泉苑(京都御池大宮西)に請雨の法を九回も修法し、その度に霊験にあって雨が降ったので、雨僧正とも称されました。 その後、第五世増俊阿闍梨の時に、曼荼羅寺の子房として、隨心院を建立し、ついで第七世親厳大僧正が、寛喜元年(西暦1229年)後堀河天皇より、門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡と称されています。 堂舎も次第に整備され、七堂伽藍は壮美を誇っていましたが、承久應仁の兵乱にあってことごとく灰となってしまいました。 その後、慶長四年(西暦1599年)に本堂が再建され、以後九条二条両宮家より門跡が入山し、両宮家の由緒をもって寄進再建されました。 ◆謡曲「通小町」と随心院 謡曲「通小町」の前段、即ち深草少将が小町の許に百夜通ったという伝説の舞台がここ隨心院である。 その頃小町は現在の隨心院の「小町化粧の井」付近に住んでいた。 積る思いを胸に秘めて訪ねて来た少将であったが、小町は冷めたかった。 少将は「あなたの心が解けるまで幾夜でも参ります。今日は第一夜です」と、その標(しるし)に門前の“榧(かや)の木”の実を出した。 通いつめた九十九夜-その日は雪の夜であった。門前にたどり着いた少将は疲れ切って九十九個目の“榧の木”を手にしたまま倒れ再起出来なかった。という。 隨心院の境内には思い出の「文張地蔵尊」「文塚」があり、道筋には榧の大木”がある。 ◆小町の史蹟 一.卒塔婆小町坐像 恵心僧都 作 小町晩年の姿を写したと言われる坐像 二.文張地蔵尊像 伝小野小町 作 小町に寄せられた文を下張りにしていると言われる地蔵尊像 三.極彩色 梅匂小町絵図 グラフィックアートユニットだるま商店奉納作品。 生誕地から当地に至るまでの、小町の一生を描いたもの。 四.小町榧 深草少将の百夜通いに登場する、小町が捲いたとされる榧の実。イチイ科。 五.文塚 深草少将をはじめ当時の貴公子たちから小町に寄せられた千束の文を埋めた塚と伝えられている。 六.化粧井戸 小野小町の屋敷跡に残る井戸で、小町が朝夕この水で粧をこらしたと、「都名所図絵」に記されている。

勧修寺

亀甲山(きっこうざん)と号する真言宗山階派の大本山である。 寺伝によれば、昌泰3年(900)醍醐天皇が、生母藤原胤子(いんし)の御願により創建したと伝え、寺号は、天皇の祖父に当る藤原高藤(たかふじ)の諡(い)号をとって勧修寺と名付けられた。 本堂は、江戸時代に霊元天皇より仮内侍所を、書院と宸殿は、明正天皇より旧殿を賜って造られたといわれ、本堂内に千手観音像を祀る。 庭園は、氷室池を中心とした池泉回遊式庭園で、夏には、池の水蓮が美しい花を咲かせる。 ◆由緒 勧修寺は昌泰3年(900)に醍醐天皇が創建され、千有余年の歴史があります。 庭園は「勧修寺氷池園」と呼ばれ、「氷室の池」を中心に造園されていて、且つ周囲の山を借景し、即ち庭の中に前方の山を取り込んで庭の風景が造られ、広大な自然美を楽しむ「池泉庭園」です。古く平安時代には、毎年1月2日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その厚さによってその歳の五穀豊凶を占ったと言われ、京都でも指折りの古池である。 書院の前庭にある灯篭は水戸光圀公の寄進で「勧修寺型灯篭」と言い、水戸黄門さまらしいユーモラスなスタイルを以て有名なものです。又この灯篭を覆うように生えている植樹「ハイビヤクシン」は、「ひの木科」の常緑灌木で樹齢は750年と言われ、我が国無双の名木として名高いものです。

三千院

天台宗の門跡寺院で、伝教(でんきょう)大師が比叡山に一宇を建てたのに始まり、その後、近江東坂本・その他に移り、天正年間(1573~1592)この地に移った。 本堂往生極楽院(重要文化財)は、寛和元年(985)の建造と伝え、舟底の天井で名高く、内陣に金色丈六の阿弥陀如来坐像・観音勢至の両脇侍(重要文化財)を安置する。池泉廻遊(ちせんかいゆう)式の庭園有清園は、茶人金森宗和の作庭といい、宸殿の虹の襖絵は下村観山の丈作で、客殿の襖絵は竹内栖鳳(せいほう)等、近世画家五氏の筆である。 ◆由緒 大原の地一帯は、千有余年の昔から魚山と呼ばれ、天台声明(仏教音楽)の修行の地として信仰を集めた所です。 三千院は別名を梶井門跡、梨本門跡、円融院門跡とも呼ばれる天台宗五箇室門跡のひとつであります。 門跡寺院とは、皇子皇族が住職になられた御寺で、当院は宮門跡であります。開基は伝教大師最澄上人(767~822)で、本尊は薬師瑠璃光如来(秘仏)です。 移りゆく自然と歴史のなかで、御参拝の皆様には心安らかなひとときが得られることと存じます。ようこそお参り下さいまして、ありがとうございます。 ◆往生極楽院 平安時代の寛和2年(986)に建立された三千院の源ともいえる簡素な御堂。恵心僧都が父母の菩提のために姉安養尼とともに建立したと伝えられます。御堂内部の、船底天井および壁画は極楽の花園の図を、極彩色で描いております。単層入母屋造柿葺で、阿弥陀如来座像を中心に、向かって右に観世音菩薩、左に勢至菩薩。いずれも正座しています。 それはちょうど、掌をあわせて皆さんをあたたかくお迎えして、「どうぞ私の掌にお乗り下さい。苦しみの世界から楽しみの世界にお連れいたします。」と言っているお姿なのです。 ◆庭園 客殿・見所台からは聚碧園、宸殿からは往生極楽院に通じるところに有清園の庭園がそれぞれみえます。とくに杉木立と苔、紅葉は見事です。 ◆客殿・円融房・宸殿 客殿には鈴木松年、竹内栖鳳など明治の京都画壇を代表する日本画家の襖絵や古文書を観ることができます。また客殿から見所台を通って法話を聞いたり、希望者は写経ができる円融房があります。 宸殿内仏には恵心僧都の阿弥陀如来、救世観音菩薩、不動明王(いずれも重文)をお祀りしております。玉座の間は虹の間とも呼ばれていて、下村観山の筆になるものです。 宸殿は歴代住職、有縁無縁の方のご回向法要を行います。とくに毎年5月30日には、後醍醐法皇から伝承されている御懺法講(声明による法要)を奉修する道場でもあります。 ◆金色不動堂 平成元年に建立されたご祈願の根本道場。堂内には、長い間秘仏であった金色不動明王(智証大師作)を本尊としてお祀りしています。 ◆観音堂 二十五菩薩を中心に、補陀落浄土に模した石庭のかたわらに、身の丈3メートルの観音像が奉祀され、またご縁の方の小観音像がその両側に安置されています。奉安のご希望の方は係員までお申し出下さい。

鞍馬寺

奈良唐招提寺(とうしょうだいじ)の開山鑑真和上(がんじんわじょう)の高弟で、慈悲の権化といわれた鑑禎上人が、宝亀元年(770)正月4日に、白馬(あおうま)が鞍を置いて雲中にあるかのようなたたずまいを、この山容に感じて霊地と定め、さらに毘沙門天を感得してその姿をまつったのがこの寺のはじまりである。 4600