浄土真宗本願寺派。本願寺中興の祖と仰がれる蓮如上人ゆかりの聖地が、この山科別院であります。上人64歳の時、1478(文明10)年、近州・金森道西の願いにより、山科郷野村西中路に坊舎を建てられました。これが、山科本願寺の始まりです。 中宗堂にご安置されている蓮如上人像は、上人54歳の御自作として、永くご本山に伝えられてきましたが、明治期に中宗堂を本山中宗堂代と定められ、これよりこの御像は永く山科の地に安置されることとなりました。
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はねず踊(隨心院)
瑞光院
紫雲山と号し、臨済宗大徳寺派に属する。 慶長18年(1613)因幡(いなば)国(鳥取県)若桜城主山崎家盛が大徳寺琢甫和尚を開山に請じて一寺を建立したが、家盛の没後、その法号にちなんで瑞光院と称したのが当寺の起りである。 もと堀川鞍馬口にあったが昭和37年11月ここに移った。 元禄初期には当院第3世陽甫和尚が播州(兵庫県)赤穂城主浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)夫人瑤泉院と族縁に当るところから、浅野家の香華祈願所となった。 元禄14年(1701)長矩が江戸城中で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に忍傷に及んで切腹したとき、当院内に供養塔が建てられ、また翌年上野介を討った大石良雄らが切腹したさい、その遺髪が寺内に葬られた。 境内には長矩、良雄ら46義士の墓のほか、良雄が生前愛したという梅の古木がある。 12月14日の義士討入りの日には義士ゆかりの寺として参詣する人が多い。
安祥寺
嘉祥元年(848年)、仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子の発願により、入唐僧・恵運によって創建された。天皇の母に関係した寺であることから斉衡2年(855年)に定額寺となる。 『延喜式』によると順子の陵は山科にあるとされ、この寺との深い関係がうかがえる。 安祥寺には醍醐寺同様、裏の山にある「上寺」と麓にある「下寺」が存在した。この2寺の詳細な成立時期はよく分かっていない。先に僧侶の修行場としてすでに「上寺」があり、その後恵運に帰依した順子によって下寺が建立されたという説が有力である。 恵運が貞観9年(867年)に作成した「安祥寺伽藍縁起資財帳」(現在東寺蔵)によると、上寺には礼仏堂と五大堂とから成る堂院・東西僧房・庫裏・浴堂などの施設が、下寺には約2万平方メートルの寺域内に塔・仏堂・僧坊・門楼などがあったとされる。 しかし、順子が死去したあとは朝廷の庇護を失い次第に衰微していったようで、『小右記』ではすでに上寺に行く道が非常に荒れていることが記述されている。平安時代後期にこの寺に入った宗意は下寺の復興をはかる。その後、上寺の方は延文年間まではかろうじて存続していたようだが、他の京都の多くの寺同様応仁の乱により、上寺・下寺共に完全に廃寺となる。 江戸時代に残った寺宝を元に現在地に移転して再建されるが、上寺の方は再建されず廃絶した。このときには高野山宝生院兼帯所となる。さらに、寺領のほとんどを寺の維持のために毘沙門堂門跡に売却、寺の規模は大幅に縮小される。江戸時代においても何回も火災に遭い、明治39年には多宝塔を焼失、以後再建されていない。 現在は江戸時代後期に再建された本堂、地蔵堂、大師堂のみが残る。(Wikipediaより)
勧修寺
亀甲山(きっこうざん)と号する真言宗山階派の大本山である。 寺伝によれば、昌泰3年(900)醍醐天皇が、生母藤原胤子(いんし)の御願により創建したと伝え、寺号は、天皇の祖父に当る藤原高藤(たかふじ)の諡(い)号をとって勧修寺と名付けられた。 本堂は、江戸時代に霊元天皇より仮内侍所を、書院と宸殿は、明正天皇より旧殿を賜って造られたといわれ、本堂内に千手観音像を祀る。 庭園は、氷室池を中心とした池泉回遊式庭園で、夏には、池の水蓮が美しい花を咲かせる。 ◆由緒 勧修寺は昌泰3年(900)に醍醐天皇が創建され、千有余年の歴史があります。 庭園は「勧修寺氷池園」と呼ばれ、「氷室の池」を中心に造園されていて、且つ周囲の山を借景し、即ち庭の中に前方の山を取り込んで庭の風景が造られ、広大な自然美を楽しむ「池泉庭園」です。古く平安時代には、毎年1月2日にこの池に張る氷を宮中に献上し、その厚さによってその歳の五穀豊凶を占ったと言われ、京都でも指折りの古池である。 書院の前庭にある灯篭は水戸光圀公の寄進で「勧修寺型灯篭」と言い、水戸黄門さまらしいユーモラスなスタイルを以て有名なものです。又この灯篭を覆うように生えている植樹「ハイビヤクシン」は、「ひの木科」の常緑灌木で樹齢は750年と言われ、我が国無双の名木として名高いものです。
岩屋寺
当寺は従来天台宗に属し、比叡山三千坊の一にして、山号を神遊山と号し、曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で、むかしは山科神社の神宮寺であったと伝えられる。 本堂に安置する本尊不動明王は智証(ちしょう)大師の作と伝え、大石良雄(よしお)の念持仏であったという。 本堂の下段境内に大石良雄の遺髪塚及び宅址がある。赤穂城明渡しの後、彼はここにかくれてひそかに討入りの謀をめぐらしたが、事成ってのち、邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進した。その後、当寺は荒廃したが、嘉永年間(1848~1854)に堅譲(けんじょう)尼が京都町奉行浅野長祚(ながとし)等の寄付をうけて再興した。 境内には本堂・毘沙門堂のほか、明治34年(1901)に建立された木像堂があり、堂内に浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)公の位牌(いはい)及び大石良雄の遺品、他に47士の位牌木像を安置する。
毘沙門堂
護法山出雲寺と号する天台宗の門跡(もんぜき)寺院である。 大宝3年(703)創建と伝え、延暦年間(782~805)伝教大師(でんぎょうたいし)が下出雲路(しもいずもじ)で自ら作った毘沙門天を安置して下出雲路寺と名づけ、天台宗をひろめたので、世人はこれを毘沙門堂と呼んだ。 中世以降、たびかさなる戦乱で荒廃し、天正年間(1573~91)に織田信長の兵乱で堂宇を全焼した。 慶長16年(1611)に天海僧正が後陽成天皇の勅命によって再興をはかり、中途で天海が亡くなったため、その高弟公海が遺志を継いで寛文5年(1665)に再建され、以来、代々法親王が入室されて毘沙門堂門跡と称された。 本堂には伝教大師作の毘沙門天を本尊としてまつっている。 ◆由緒 毘沙門堂は、護法山出雲寺と号する天台宗の門跡寺院である。建久6年(1195)、平親範が平等寺、尊重寺、護法寺を統合して平安京外東北の出雲路に寺院を建立したのに始まる。中世後半には荒廃したが、寛文5年(1665)には公海が現在地を寺地として幕府より賜り、さらに元禄・宝永年間には公弁が寺地の整備を行い、今日のような寺観に整えられた。 本堂は将軍家綱が大檀越となり、また紀伊と尾張の徳川家からは材木が寄進されて、寛文6年に竣工した。全体に漆塗や彩色、彫刻が施されて、豊かな装飾に特色がみられる。本堂の前方に建つ唐門、仁王門は共に本堂と同時期のもので、和様と禅宗様が混合した特徴的な手法で一貫し、日光東照宮の諸建築に通じる雰囲気をもっており、畿内では他に例があまりない。仁王門西方の鐘楼は、様式上17世紀後半のものと考えられる。 これら寺院としての施設に対して、境内の西寄りには宸殿をはじめとする門跡の住居施設が並ぶ。宸殿は、17世紀末の造営になる六間取方丈型平面の建物で、西面に使者の間と玄関が接続する。各室は金碧障壁画(京都市指定・登録有形文化財)で飾られ、なかでも北東隅の帝鑑の間は上段となって背面には2間の床と1間の棚を備え、南の四愛の間を次の間としている。一部改造されているものの、近世門跡宸殿の典型を示すものである。また、この前方に建つ勅使門と薬医門は18世紀初期の造営になる。 毘沙門堂のこれらの一連の建築群は、近世門跡寺院の景観を伝えるものとして貴重であり、昭和60年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。
随心院
真言宗小野流の大本山で、正暦2年(991)弘法大師第8世の法孫仁海(にんがい)僧正の開基であって、もと牛皮山曼荼羅(ぎゅうひざんまんだら)寺といった。 当院は真言宗小野流発祥の地であって、第5世増俊が塔頭に随心院を建立し、第7世親巌の時、後堀河天皇より門跡(もんぜき)の宣旨をうけ、以来、小野曼荼羅寺御殿随心院門跡と称した。 その後、応仁の兵火で炎上したが、慶長4年(1599)九条家から入った第24世増孝が再興し、今日にいたっている。 本堂は再興当時のもので、本尊如意輪観世音菩薩像のほかに、阿弥陀如来像(重要文化財)及び快慶作の金剛さった像等を安置する。 書院は徳川秀忠(ひでただ)夫人天真院尼の寄進である。 この附近は、小野小町の旧跡と伝え、境内には小町文塚、化粧の井戸があり、小町の艷書をはったという地蔵菩薩も安置されている。 なお、境内地は昭和41年6月21日文化財保護法による史跡に指定された。 真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師の八代目の弟子に当たる仁海(にんがい)僧正が正暦2年(991)に創建した。 もとの名は牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひざんまんだらじ)といい、その名は、ある夜、亡き母が牛に生まれ変わっている夢を見た仁海僧正が、その牛を探し求めて世話を尽くしたものの、間もなく死んだため、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて本尊としたことに由来する。 その後、第五世増俊(ぞうしゅん)が曼荼羅寺の塔頭(たっちゅう)として隨心院を建立し、第七世親厳の時、後堀河天皇より門跡(もんぜき)の宣旨を受け、門跡寺院となった。 この辺り小野は小野一族が栄えた場所であることから、絶世の美女として名高い小野小町ゆかりの寺としても知られ、境内には小町(こまち)に寄せられた多くの恋文を埋めたという文塚(ふみづか)や、化粧の井戸などが残されている。 梅の美しい寺としても有名で、三月の最終日曜日には、小野小町に恋した深草少将の百夜通(ももよがよ)いの悲恋伝説をテーマにした「はねず踊り」(はねずとは梅花の薄紅色のこと)が披露される。 ◆由緒 当山は、真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師より八代目の弟子にあたる仁海僧正の開基にして、一条天皇の正歴二年(西暦991年)奏請して、この地を賜り一寺を建立されました。 古くは牛皮山曼荼羅寺と称されました。仁海僧正一夜の夢に、亡き母が牛に生まれ変わっていることを見て、その牛を鳥羽のあたりに尋ね求めて、飼養しましたが、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を画き本尊にしたことに因んでいます。 牛尾山は仁海僧正が牛の尾を山上に埋めて、菩堤を弔ったと伝えられています。又、仁海僧正は深く宮中の御帰依を受け、勅命により、神泉苑(京都御池大宮西)に請雨の法を九回も修法し、その度に霊験にあって雨が降ったので、雨僧正とも称されました。 その後、第五世増俊阿闍梨の時に、曼荼羅寺の子房として、隨心院を建立し、ついで第七世親厳大僧正が、寛喜元年(西暦1229年)後堀河天皇より、門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡と称されています。 堂舎も次第に整備され、七堂伽藍は壮美を誇っていましたが、承久應仁の兵乱にあってことごとく灰となってしまいました。 その後、慶長四年(西暦1599年)に本堂が再建され、以後九条二条両宮家より門跡が入山し、両宮家の由緒をもって寄進再建されました。 ◆謡曲「通小町」と随心院 謡曲「通小町」の前段、即ち深草少将が小町の許に百夜通ったという伝説の舞台がここ隨心院である。 その頃小町は現在の隨心院の「小町化粧の井」付近に住んでいた。 積る思いを胸に秘めて訪ねて来た少将であったが、小町は冷めたかった。 少将は「あなたの心が解けるまで幾夜でも参ります。今日は第一夜です」と、その標(しるし)に門前の“榧(かや)の木”の実を出した。 通いつめた九十九夜-その日は雪の夜であった。門前にたどり着いた少将は疲れ切って九十九個目の“榧の木”を手にしたまま倒れ再起出来なかった。という。 隨心院の境内には思い出の「文張地蔵尊」「文塚」があり、道筋には榧の大木”がある。 ◆小町の史蹟 一.卒塔婆小町坐像 恵心僧都 作 小町晩年の姿を写したと言われる坐像 二.文張地蔵尊像 伝小野小町 作 小町に寄せられた文を下張りにしていると言われる地蔵尊像 三.極彩色 梅匂小町絵図 グラフィックアートユニットだるま商店奉納作品。 生誕地から当地に至るまでの、小町の一生を描いたもの。 四.小町榧 深草少将の百夜通いに登場する、小町が捲いたとされる榧の実。イチイ科。 五.文塚 深草少将をはじめ当時の貴公子たちから小町に寄せられた千束の文を埋めた塚と伝えられている。 六.化粧井戸 小野小町の屋敷跡に残る井戸で、小町が朝夕この水で粧をこらしたと、「都名所図絵」に記されている。
宝泉院
宝泉院の庭園は、竹林越しに大原の山並みが美しい借景庭園。建物と自然が一体となり額縁庭園とも。 客殿正面には樹齢 700年を越える巨大な五葉松。 ◆由緒 平安初期、比叡山に天台仏教を開いた最澄の高弟・円仁が唐に渡り、十余年間の仏教修学を終え、帰国し、叡山に密教、五会念仏、等またその法要儀式に用いる仏教音楽「声明」を伝えた。 後、長和二年(1012)寂源は大原寺(勝林院)を創建し、法儀声明を盛んにした。 平安末期、良忍が出るに及んで大原は、法儀声明の修学地(声明の里)として有名になる。 当院は、大原寺(勝林院)住職の坊として平安末期頃よりの歴史をもち、現在に至っている。 ◆建物 室町時代文亀二年の再建といわれるが、建物等の形式からみて江戸初期頃の再建だと思われる。 ◆額縁庭園 客殿の西方、柱と柱の空間を額に見たてて観賞する。竹林の間より大原の里の風情を満喫できる。庭の名前は盤桓園(立ち去りがたい意)と称する。 ◆鶴亀庭園 江戸中期作、部屋の中から格子ごしに観賞する。池の形が鶴、築山が亀、山茶花の古木を蓬莱山とみる名園である。 ◆血天井 慶長五年関ヶ原合戦前、徳川の忠臣・鳥居元忠以下数百名が豊臣の大軍と戦い伏見城中で自刃した。その武将達の霊をなぐさめ、供養のために、自刃した場所のものを天井にして祀ったものである。 ◆石盤 サヌカイトといわれる美しい音が出る石である。当院の住職で声明の大家であった深達僧正(明治時代)が音律を調べるために愛用されたものである。










