東福寺塔頭。1391年(明徳2)金山明昶の開創。方丈前の庭園は波心の庭。 池泉式の枯山水で、州浜型の枯池に三尊石組を配し、背後にサツキやツツジを雲紋になぞらえて刈り込み、雲の上に茶亭蘿月(らげつ)庵があり、月が昇る姿を形どる。 入り口に雲嶺の庭がある。 ◆波心の庭 光明を放つ石組みと心和ます苔の美 明徳2(1391)年、金山明昶(きんざんみょうしょう)の創建による東福寺塔頭の塔頭。 別名「苔の虹寺」とも称され、とくに苔の美しい新緑や紅葉時には、ひそやかな禅寺も華やぎを増す。 方丈の前に広がる池泉式の枯山水庭園は、昭和14年、東福寺方丈庭園と同時期に設計されたもので、三玲の初期の名作。方丈庭園とはうってかわって、平安式の洲浜型の枯池に多数の石組みを配している。寺号にちなんで光明をテーマに作庭されており、大海を表す白砂に構成された三ヵ所の三尊石組から仏の光のごとく斜線状に立石が並ぶ。 背後にはサツキやツツジの大刈り込みでダイナミックに雲紋をデザインし、その雲の上には茶亭「蘿月庵」が佇む。これは禅語の『雲ハ嶺上二生ズルコトナク、月ハ波心二落ツルコト有り』によるもので、昭和32年(寄付きは昭和38年)建築の蘿月庵は窓、壁、障子を含めて月を象徴し、「波心の庭」と命名された庭から眺めれば、東の空に月が昇る姿を楽しむという仕掛けになっている。 本堂には本尊である金造佛の釈迦牟尼佛が安置されています。 尚、庭園上の赤い建造物は本堂廊下より庭を見た時民家の見える事を防ぐ建物です。 中央の紅葉は先代の紅葉が枯れて今は二代目です。 石は滋賀県南郷の洗堰の物です。
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清水寺 随求堂
両足院
方広寺
雲龍院
真言宗泉涌寺派の別格本山である。応安5年(1372)後光厳法皇が竹巌聖皐(ちくがんしょうこう)律師を招いて菩提所(ぼだいしょ)として建立されたのがこの寺のはじまり。 その後、歴代天皇の信仰があつく、たびたびこの寺に行幸されている。 特に後円融天皇(在位1371~82)は勅願として如法写経会をはじめられ、この法会は現在まで続いている。 寺は応仁の兵火によりいったん焼失したが、後柏原天皇より後土御門天皇使用の御殿の寄進をうけ、本堂として再建し、江戸時代には寺領も多く、来り学ぶ僧侶も多数にのぼり寺運はもっともさかんであった。 後光厳天皇をはじめ歴代天皇の尊牌をまつる霊明殿は明治初年に完成した。 宝物には、この寺の歴史にゆかりのふかい土佐光信筆の後円融天皇宸影(重要文化財)をはじめ歴代天皇の宸筆など文書、絵画多数を蔵している。 なお、裏山には、仁孝天皇二皇女、孝明天皇二皇女の陵墓が営まれている。 御寺泉涌寺本坊の南高所に位置する真言宗泉涌寺派別格本山雲龍院は、応安5年(1372)後光厳天皇の思召しによって、竹巌聖皐が聞いた寺で、皇子・後円融院はここに如法写経を興そうと寺領を寄せ、龍華殿を御建立した。また後小松、称光の両天皇もこの寺を崇敬され、四天皇崩御の後は後山に御分骨所が営まれ、北朝歴代の御尊牌が霊明殿に奉安されている。 徳川の初め中興の祖、如周宗師が雲龍、龍華両院を合併し、この事が後水尾天皇の叡聞に達し造営費御下賜の恩命に浴し写経の道場を現在の位置に再建される。寛永19年、後水尾天皇より写経会に要する仏具百余点の御寄付を賜りて立派に再興を遂げた。 以後、徳川の御代本願天皇の御国忌の折々に御下賜金を賜り、諸堂の修理を行い、この間鎮守堂、鐘楼等の建立がなされ東西に僧坊を設けて諸方より各宗の門徒集まり、研錆に励み多くの俊英を輩出した。 皇室との御縁故は天保14年以降、光格天皇の皇妃を始め、仁孝天皇両皇女、孝明天皇の両皇女を後山に葬り奉ってより再び深くなり玄関、方丈、勅使門を賜り次いで御尊牌を奉安する霊明殿は慶応2年に始まり、孝明天皇、明治天皇、英照皇太后の思し召しにより明治2年現存の様に再建された。 本堂龍華殿(重要文化財)安置の本尊・薬師三尊(薬師・日光・月光)や、また怒れる神の面影「走り大黒天」は極めて写実的な鎌倉時代の作である。
大谷祖廟
六道珍皇寺
大椿山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。 当寺は、平安遷都以前、東山阿弥陀ヶ峰山麓一帯に居住した鳥部氏(とりべし)の氏寺(宝皇寺)が前身とも、空海の師、慶俊僧都が創建したものとも伝えられているが、正平年間(1346~70)に、建仁寺の僧、良聡によって再興され、現在に至っている。 薬師堂には、木造薬師如来座像(重要文化財)を安置し、閻魔(えんま)堂には、木造閻魔大王座像と小野篁(おののたかむら)の立像が祀られている。 また、当寺門前は、俗に「六道の辻(ろくどうのつじ)」と呼ばれ、毎年8月7日から10日までの4日間は、「六道詣り(ろくどうまいり)」といわれる精霊迎えのため、多くの参詣者で賑う。 「六道」とは、一切の衆生が生前の善悪の業因によって必ず往くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6種の霊界のことで、参詣者は、この期間、先祖の精霊を迎えるため、高野槇を買い求め、鐘(迎え鐘(むかえがね))を撞き、本堂で経木に戒名を書いて水回向を行う。 なお、境内裏庭には、小野篁が冥土通いをしたといわれる井戸がある。 ◆お迎え鐘 この鐘楼にかかる鐘は、毎年の盂蘭盆会にあたり精霊をお迎えするために撞かれるが、古来よりこの鐘の音は、遠くは十萬億土の冥土まで響き渡り、亡者はそのひびきに応じてこの世に呼び寄せられると伝わることから「お迎え鐘」と呼ばれている。 「古事談」によれば、この鐘は当寺を開基した慶俊僧都が作らせたもので、あるとき僧都が唐国に赴くとき、この鐘を三年間、この鐘楼下の地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立った。 ところが、寺僧は待ちきれず、一年半ばかりたって掘り出して鐘を撞いたところ、遥か唐国に居る僧都に聞こえたという。僧都は、「あの鐘は、三年間地中に埋めておけば、その後は人の手を要せずして六時になると自然に鳴るものを、惜しいことをしてくれた」と、大変残念がったという。 しかし、そんなはるか彼方の唐国にまでも響く鐘なら、おそらく冥土まで届くだろうと信じられ、このような「お迎えの鐘」になったと伝えられる。 かかる話は「今昔物語」巻三十一にも同工異曲(どうこういきょく)の物語で出ている。こうした由来の鐘であるから、お盆の時期にはこのお迎え鐘を撞く順番を待つ参詣人の列が八坂通りまで蜿蜒(えんえん)と続く。 そんな風景をみて昭和初期の歌人、川端茅舎は次のような俳句を詠んでいる。 金輪際 わりこむ婆や 迎え鐘 迎え鐘 ひくうしろより 出る手かな 毎年お盆の時期になると、このお迎え鐘は千年もの長きにわたり澄んだ音色を時空をこえて冥土まで響かせ、旅立たれた多くの精霊たちを晩夏の都に迎えている。そして、また来るお盆を迎えるまでは、この寺を訪れる多くの人たちの心の安らぎと幸せをもたらす「慈しみの鐘」として、その穏やかな音色は渇いた心をやさしく癒してくれる。 ◆冥土通いの井戸 当寺の本堂裏庭の北東角(格子窓より見て右手奥辺り)にある井戸は、平安時代の昔に篁が冥府の閻魔庁の役人として現世と冥界の間を行き来するのに使ったところといわれている。 いい伝えによれば、篁は亡き母御の霊に会うために、この鳥辺野にある当寺を訪れ、冥土に通じるといわれるこの井戸を使ったのが最初と言われている。 また、「矢田地蔵縁起」にある大和の国(奈良県)金剛山寺(矢田寺)の漫慶上人が、篁を介しての閻魔大王の招きに応じて、衆生を救うための戒行である菩薩戒を授けに閻魔庁へ赴くいたのも当寺の井戸からとされるなど、珍皇寺の井戸と篁さらには冥界を結びつける不思議な伝説は数多くある。 このように当寺にある井戸は、篁が冥土通いのために往来したところとして知られるが、その帰路の出口として使いこの世に戻ったところが、嵯峨の大覚寺南付近の六道町の一郭に明治の初め頃まであったとされる福生寺の井戸であるとする説もある。 しかし、残念ながら今はその遺址もなく、井戸の伝承はかつての福生寺の本尊として伝わる地蔵菩薩とともに清涼寺西隣の薬師寺に引き継がれている。 これは、平安の昔には珍皇寺あたりの洛東の鳥辺野とともに嵯峨の奥、化野(あだしの)もまた当時の墓所であったことより、ここにもやはり六道の辻は存在していたとすれば、閻魔王宮に出仕していた篁が、冥府よりの帰路に出口としていた説もうなずけるところである。 尚、当寺の冥土通いの井戸の傍の少祠には、篁の念持仏であった竹林大明神が祀られている。
新那智山 観音寺 (今熊野観音寺)
泉涌(せんにゅう)寺の塔頭(たっちゅう)で、正しくは新那智山今熊野観音寺という。 西国33箇所観音霊場第15番目の札所になっている。 空海が自ら観音像を刻んで草堂に安置したのが当寺のはじめというが、斉衡(さいこう)年間(854~857)左大臣藤原緒嗣(おつぐ)が伽藍を造営したとも伝える。 文暦元年(1234)後堀河上皇を当寺に葬るなど、歴朝の崇敬を得て栄えた。 伽藍は応仁の兵火で焼失したが、その後、復興されて現在に至っている。本堂には空海作と伝える十一面観音像を安置する。 寺域は幽静で、郭公(かっこう)鳥の名所として名高く、本堂背後の墓地には慈円僧正・藤原忠通・同長家の墓と称せられる見事な石造宝塔3基がある。 ◆由緒 平安時代弘法大師が熊野権現より観音尊像を授(さづか)り嵯峨天皇の勅願により開運厄除の寺として開創された名刹です。 後白河法皇は本尊十一面観音を深く信仰され霊験によって持病の頭痛が平癒したので特に「新那智山・今熊野」称をこの寺におくられました。 それより頭の観音さんとして知られ病気封じ知恵授(さずか)り諸願成就の寺として広く信仰されています。
八坂庚申堂
金剛寺(こんごうじ)は、京都市東山区にある天台宗の寺院。山号は大黒山。 通称は八坂庚申堂。大阪四天王寺庚申堂、東京入谷庚申堂(現存せず)とともに日本三庚申の一つとされている。 本尊の青面金剛は飛鳥時代に中国大陸より渡来した秦氏の守り本尊であった。 ◆由緒 「八坂庚申堂」の正式名称は「大黒山金剛寺庚申堂」といい、大阪四天王寺庚申堂、東京入谷庚申堂(現存せず)と並び日本三庚申の1つです。 御本尊「青面金剛(しょうめんこんごう)」は、もともと、聖徳太子の時代に活躍した秦河勝により中国大陸より招来し、秦氏の守り本尊としていたものです。1000年以上前の平安時代に、このお寺の開基である浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)が、この御本尊を庶民もお参りできるようにとここ八坂の地に建立したのが、「八坂庚申堂」の開山の由緒です。以後、日本最初の庚申信仰の霊場として信仰を集めてきました。 「庚申(こうしん)」とは、干支(えと)、つまり庚(かのえ)申(さる)の日のことです。中国由来の道教の言い伝えでは、この前夜に、人間の体の中にいる三尸(さんし=3匹)の虫が寝ている間に体から抜け出して、天帝という神様にその人間の行った悪行を告げ口に行くそうです。天帝は、罰としてその人間の寿命を縮めます。それを防ぐために、庚申日の夜は寝ないで徹夜するという「庚申待ち」という風習が行われていました(三尸の虫は、人間が寝ている間しか体を抜けられないため)。 「青面金剛」は、この三尸の虫を食べると考えられていたので、いつの頃からか「庚申待ち」には、この仏様を本尊として拝む風習(=庚申信仰)が広まり、「青面金剛」は「庚申さん」と呼ばれるようになりました。この日、睡眠をささげて一晩一心に願い続ければ如何なる願いもかなうとされています。 「八坂庚申堂」は、難病・奇病を封じこめる祈祷「コンニャク祈祷」や、下の世話にならず元気に過ごすための祈祷・帯下の病平癒の祈祷「タレコ封じ」、家出人・行方不明・失せ物を引き寄せる「鈎召祈祷(こうちょうきとう)」他、霊験あらたかなご祈祷でも有名です。 「庚申待ち」の夜や庚申日は、昔も今も多くの参拝の人々で賑わいます。付近の民家や商店の軒先には、この寺のお守りである「くくり猿」が軒先にたくさん掛かっている風景にも出会えます。 コンニャク焚きの接待は、年6回の庚申日に行われます。これは、八坂庚申堂の開祖である浄蔵貴所が、父の病気平癒祈願にコンニャクを捧げたところ無事治ったということから、庚申日にコンニャクが振舞われるようになりました。このコンニャクは、少し変わった形をしています。八坂庚申堂には「くくり猿」という猿のお守りがあり、コンニャクはその猿の形にくり抜かれています。それを北を向いて無言で3つ食べると、無病息災で過ごせると言い伝えられています。 このお寺でよく見かけられる猿は、庚申の使いとされています。
圓徳院
高台寺の塔頭寺院。 開基は、北政所の甥木下利房。方丈の襖絵は長谷川等柏の筆(重文)。 現在は復元画を展示。北庭の枯山水は桃山時代の風香を伝え国名勝指定を受けている。臨済宗。 建立:1605(慶長10)年建立、寛永9年頃寺院となる 伏見城の化粧殿及び前庭(北庭)を移築し、北政所がその晩年を過ごした。 化粧御殿は焼失したが、前庭は北庭として残っている。 ◆由来 豊臣秀吉の没後、その妻北政所ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に、高台寺建立を発願し、慶長10(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住んだ。爾来北政所を慕い大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が訪れたと伝えられている。ねね、58歳のことである。これが今日の圓徳院の起こりであり、ねねは77歳で没するまでの19年間をこの地で余生を送り、この地は北政所の終罵の地となった。 そのねねを支えていたのが兄の木下家定とその次男の利房である。圓徳院は利房の手により高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開かれ、高台寺の塔頭とされた。寛永9年、ねねの没後9年目のことである。 ◆三面大黒尊天の由来 東山圓徳院の三面大黒天は、福徳信仰の象徴として豊臣秀吉が念持仏としたといわれる珍しい尊像であります。 三面大黒天とは、大黒天、毘沙門天、弁財天の三天合体の霊像であります。 大黒天は、いうまでもなく福の神であり、毘沙門天は、勝利あるいは子宝の神であり、弁財天は、音楽・知恵・情操等をつかさどる学問、芸術の神であります。 この開運三面大黒天を信仰されることによって皆様方の家運益々の隆昌と、ご家族の無事息災を得られることをお祈り致します。 ◆桧垣の手水鉢 宝塔の笠を利用し、笠石を横にして、その商を凹字形に切り取り手水鉢としたものである。笠石は室町時代の作と考えられている。 ◆正門 当院は木下家初代以降歴代藩主の墓が置かれ、木下家の屋敷となっていた。そのため正門は長屋門の形態がとられている。 ◆北庭 もともと伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したもので、当時の原型をほぼそのままに留める桃山時代の代表的園のひとつである。賢庭作で後に小堀遠州が手を加え池泉回遊式だが枯山水となっている。 原点となるのは東北部で、枯滝石組を構成し、築山を中心にして左右に多数の石組を二等辺三角形にまとめて数群展開させ、あるいは蓬莱石組を作る。(池泉にかかる数個の橋は見事巨石をあてているが、その厚さからくる迫力はこの庭の特筆すべき点でもあろう)このように多数の巨岩大岩ふんだんに置かれている庭は珍しく、これが桃山時代の豪華さ、豪胆さである。 ◆方丈 平成6年後藤佐雅夫師指導のもと山本長宏氏が方丈の解体修理を行った。 路地及び周辺庭園は北山安夫氏が整備をした。 ◆書翰・襖絵 桃山時代の気風そのままに、美しい辻が花染のきれで表装された、戦国武将の書翰や絢湖豪華な襖絵を所蔵している。