蛸薬師堂(浄瑠璃山 永福寺)

養和元年(1181年)室町の林秀が、比叡山の御本尊薬師如来の夢告により与えられた伝教大師が彫られた石仏の薬師如来をおまつりした六間四面の堂を作り、永福寺と名付けられたのが始まり。 善光という僧が、戒めに背き、病気の母親に好物のタコを買う孝行譚に由来し、本尊薬師如来は蛸薬師の名で知られる。 病気平癒の御祈祷で有名で、毎月8日午前10時より午後2時まで大般若会が勤修され、ガン封じや心身の病気平癒、諸願成就を祈願する人々の参拝が多い。 ◆由緒 正しくは浄瑠璃山永福寺といい、本堂に「蛸薬師」と呼ばれる薬師如来の石造を安置している。 昔、この寺が二条室町にあったころ、付近に池があったことから、水上薬師または澤(たく)薬師と呼ばれ、これが訛って蛸薬師となったといわれている。 また、一説には、この寺にいた善光という親孝行な僧侶が、戒律に背いて病気の母のために蛸を買って帰るところを町の人に見とがめられ、箱を開けるよう求められたとき、薬師如来に「この難をお助けください」と念じたところ、蛸の足が八巻の妙法蓮華経に変わり、難局を逃れたという。 その後、母の病気も薬を飲まずに全治し、これは親孝行の僧侶を守った本尊の霊験であるとして、本尊の薬師如来を蛸薬師というようになったと伝えられている。 病気平癒の祈願のために参拝する人々でにぎわった参道は蛸薬師通と呼ばれるようになった。 ◆蛸薬師如来の由来 その昔、当寺に住していた善光(ぜんこう)という若い僧侶が、重い病に伏した母の「蛸が食べたい」というたっての願いを聞き、思い悩んだ末に僧の禁を破って市場で蛸を買いました。しかし、町の人々にそれを見咎められ、一心に「薬師如来様、この難をお救いください。」と祈ると、彼の手元で蛸は光を放ってありがたい法華経八巻に変化し、不思議なことにその威光に照らされた母の病もたちまち癒えて元気になりました。以来、京の町の人々から「蛸薬師さん」と親しみを込めて呼ばれるようになり、以来もろもろの病気平癒や厄難の消除には霊験あらたかと、たくさんの老若男女から信仰を集めてまいりました。

誓願寺

誓願寺は京都の中心地、新京極通りのど真ん中にある「浄土宗西山深草派」の総本山です。 創建は、はるか飛鳥時代まで遡り、その長い歴史の変遷の中、「法然上人」「西山国師」「立信上人」と続く浄土門の聖地として…、また深い山間ではなく、「街の中にあるお寺」、「暮らしに密着した信仰の場=念仏道場」として人々に愛され続けてまいりました。 そのためか誓願寺にゆかりの深い歴史上の人物も大変多く、ことに「清少納言」「和泉式部」「松の丸殿」といった女性たちからの深い信仰を集めたため「女人往生の寺」とも称され、そのほかにも落語の祖と呼ばれる「策伝上人」や謡曲「誓願寺(世阿弥作)」に謡われるなど、落語発祥の寺、芸道上達の寺としても広く信仰を集めております。 ◆扇塚の由来 世阿弥作と伝えられる謡曲『誓願寺』は、和泉式部と一遍上人が主な役となって誓願寺の縁起と霊験を物語ります。この謡曲の中で、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることが、能楽をはじめ舞踊など芸能の世界で尊崇され、江戸時代から誓願寺へ参詣するその筋の人が数多くありました。 特に舞踊家が多く、文化・文政・天保(1804~44)のころに京都で活躍した篠塚流の祖・篠塚文三郎(梅扇)は、幸若の系を引く能楽的な色彩と歌舞的な色彩を調和させた優れた芸風を示したといわれ、天保年間には山村舞とともに京阪で大いに流行しましたが、彼ら舞踊家の中に誓願寺の和泉式部信仰がありました。その信仰を、昭和・平成の時代まで伝承した舞踊家がありました。 誓願寺の『扇塚』に、芸道上達を祈願し『扇子』を奉納することには、上のような深い歴史的な意味が秘められているのであります。また、誓願寺第五十五世策伝日快上人(1554~1642)が『醒睡笑』八巻を著作して落語の祖と仰がれておられることも、「扇子」との強い絆を保持するゆえんであります。 ◆誓願寺の創建とご本尊 誓願寺は飛鳥時代に開かれた寺である。天智天皇は常に仏の心を求められ、ある夜の霊夢(※1)により、当時仏師として名を馳せていた賢問子・芥子国父子に丈六(※2)の阿弥陀如来坐像の造立を命じた。二人は別々の部屋で仏の半身を彫っていたが、合体すると寸分違わず合致して見事な仏像ができあがったという。ご本尊の阿弥陀如来の完成とともに仏堂が建立され、天智天皇6年(667)に七堂伽藍が完成、「誓願寺」と名づけられたのである。 ご本尊を父子が制作していたとき、夜になると大勢の人がオノやノミを使う音が聞こえるので部屋の中を見ると、賢問子が地蔵菩薩、芥子国が観音菩薩になり、闇の中で光を放ちながら彫っていたという。これらは春日大明神の本地(※3)であることから、ご本尊は春日大明神が造られたと崇め奉られ、今日に至っている。 ※1  神仏のお告げ  ※2  一丈六尺=4.85メートル ※3  本来のお姿 ◆誓願寺と女人往生 誓願寺では平安時代に、歴史上有名な二人の女性作家が極楽往生している。ひとりは清少納言。当寺で菩提心をおこして尼となり、本堂そばに庵室を結んだ。その後、念仏して往生をとげたのである。 もうひとりは和泉式部。娘に先立たれ、その哀しみから世の無常を感じた式部は、播州の書写山へ高僧・性空上人を訪ねた。ところが、「京都八幡山の大菩薩に祈るべし」と言われ、石清水八幡宮へ参って祈ると夢に老僧が現れて「誓願寺で祈るべし」と告げられたのである。 そこで、当寺に48日間こもって一心に念仏をとなえたところ、今度は霊夢に老尼が現れて「念仏をとなえれば女人の往生は疑いなし」とのお告げがあったという。式部は尼となって庵を結び、ここでめでたく往生した。この庵室が「誠心院」であり、今も新京極に現存している。 ◆謡曲『誓願寺』と扇塚 世阿弥の作と伝えられている謡曲『誓願寺』は、和泉式部と一遍上人が誓願寺の縁起と霊験を物語る。和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから舞踊家の間に和泉式部信仰が生まれ、能楽など芸能の世界の人々の信仰が厚くなった。これが、「扇塚」に芸道上達を祈願して扇子を奉納することにつながっている。 また、当寺の住職であった策伝上人が「落語の祖」と仰がれていることも扇子との絆を象徴している。 ◆落語の祖・策伝上人 誓願寺第五十五世の安楽庵策伝上人(1554~1642)は、戦国時代の僧侶として布教に励むかたわら、文人や茶人としての才にも優れていた。教訓的でオチのある笑い話を千余り集めた著書『醒睡笑』八巻は後世に落語のタネ本となり、策伝上人は「落語の祖」と称されている。当寺では毎年10月初旬の日曜日に「策伝忌」を営み、奉納落語会を開催している。 ◆誓願寺の移り変わり 都が平城から長岡に遷ると誓願寺も移され、平安遷都とともに一条小川に七堂伽藍そのままに再現された。現在地の寺町三条に移ったのは天正19年(1591)、秀吉の命であった。秀吉の側室、松の丸殿(京極竜子)の深い信仰により諸大名の奥方にも勧進され、壮大な堂宇が建立されたのである。『都名所図会』(安永9年刊行)によると、表門は寺町六角、北門は三条通りに面し、6500坪もの境内に塔頭寺院が18カ寺あり、三重塔もみられる。 当寺は合計10度の火災に遭い、焼失と再建を繰り返してきた。明治のころの政治家が芝居小屋や見世物小屋が集まっていた寺町に目をつけ、このあたりに繁華街をつくろうと諸寺の境内地を没収。塀を取り払い、小川を埋め、三条から四条までの新しい街をつくった。これが今の新京極である。 ◆迷子のみちしるべ 現存の石柱は明治15年(1882)に建立された。正面に「迷子みちしるべ」、右側に「教しゆる方」、左側に「さがす方」と彫ってある。 まだ警察のなかった江戸末期~明治中期に迷子が深刻な社会問題となり、各地の社寺や盛り場に石柱が建てられた。迷子や落とし物などをしたとき、この石に紙を貼って情報交換したのである。月下氷人(仲人)役の石ということから、別名「奇縁氷人石」ともいう。

行願寺 (革堂)

正しくは行願寺。天台宗。西国三十三カ所第19番札所。 俗人のころ鹿を射止めた行円が、仏心を起こし、1004年(寛弘1)寺を建立、千手観音像を刻み、安置した。 皮の衣を着たので、皮聖と呼ばれ、寺は革堂と称した。 当初、今の上京区にあったが、移転と焼亡を繰り返し現在地に。 ◆由緒 霊鹿山行願寺と号する天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十九番札所である。 寛弘元年(1004)に行円(ぎょうえん)上人によって、一条小川(上京区)に創建された。子を孕んだ母鹿を射止めてしまったことを悔いた上人が、常にその皮をまとって鹿を憐れみ、人々から皮聖(かわひじり)とも呼ばれていたことから、この寺も革堂と呼ばれるようになったといわれている。 以後、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災火により寺地を転々とし、宝永5年(1708)の大火の後、この地に移された。 現在の本堂は、文化12年(1815)に建てられたもので、堂内には行円上人の作と伝えられる本尊千手観音像を安置している。 境内には、都七福神巡りの一つになっている寿老人神堂をはじめ、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔などがある。また、宝物館には、若い女性の幽霊が描かれている幽霊絵馬が展示されている。

矢田寺(矢田地蔵尊)

金剛山矢田寺と号する西山浄土宗の寺で、通称、矢田寺の名で知られている。 寺伝によれば、当寺は、平安時代の初め、大和国(奈良県)の矢田寺の別院として五条坊門(下京区)に創建され、以後、寺地を転々とし、天正七年(1579)に現在の地に移されたといわれている。 本堂に安置する本尊の地蔵菩薩(矢田地蔵)は高さ約2メートルの立像で、開山の満慶(まんけい)(満米(まんまい))上人が冥土へ行き、そこで出会った生身の地蔵尊の姿を彫らせたものといわれ、俗に代受苦地蔵と呼ばれ、地獄で亡者を救う地蔵として人々の信仰を集めている。 また、当寺の梵鐘は、六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し、「送り鐘」と呼ばれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るために撞く鐘として人々から信仰され、一年を通じて精霊送りには、多くの参拝者で賑わう。

積善院

聖護院塔頭。聖護院の寺中東隣にある。積善院は鎌倉時代1200年頃の創建とされ、江戸時代建立の凖提堂と明治の初め合併され、積善院凖提堂とも呼ばれる。 本堂には積善院本尊、不動明王(重文)や、光格天皇勅願による凖提観音像を安置。 境内には保元の乱で讃岐に流され、配流地で墳死された崇徳天皇の霊をなぐさめ祭ったという「崇徳院地蔵」(別名・人喰い地蔵)や、聖護院の森で心中した、お俊・伝兵衛の供養塔がある。 毎年二月二十三日には秘仏五大力菩薩が一日だけ開帳され、法要が催される。 積善院は、もと栴(なぎ)ノ坊と号する。聖護院の一院家で、熊野神社の西北方にあったが、大正初年、この地にあった凖提堂と合併され、積善院凖提堂と称するようになった。 本堂には、寛政年間(1789~1801)光格天皇の勅願により、聖護院宮盈仁(えいにん)親王の開眼になる凖提観世音菩薩と、鎌倉初期のもので智証大師の作風を伝える木造不動明王像(重要文化財)を安置する。 境内西北隅には、もと聖護院の森の西北(現京大病院)の野中にあった石造の崇徳院地蔵をまつる。 東南隅には、昭和27年、豊竹山城少椽らの発起によって建てられた「お俊伝兵衛恋情塚」がある。 毎年2月23日におこなわれる五大力尊法要は参詣者で賑う。

浄土院(大文字寺)

清泰(せいたい)山と号する浄土宗知恩院派の寺である。 この地には、もと、浄土寺と呼ばれた天台宗の寺院があったが、文明14年(1482)、東山殿(後の銀閣寺)造営に際し、相国寺(上京区)の西に移された。 当院は、その跡地に残された草堂を泰誉浄久(たいよじょうきゅう)が浄土宗の寺として復興し、浄土院と名付けたことによるといわれている。 その後、享保17年(1732)には、随誉(ずいよ)により堂宇が再建され、今日に至っている。 本堂に安置する阿弥陀如来坐像は、等身大のもので、もと浄土寺にあった遺仏といわれている。 また、当院は、通称大文字寺とも呼ばれ、毎年8月16日の大文字の送り火には、精霊送りが行われ、多くの参拝者で賑う。 ◆由緒 如意ヶ嶽(大文寺山)の送り火を管理する寺で1722年(享保7)の建立。 天台宗浄土寺が応仁の乱で焼け、跡地に足利義政が東山殿を造営、のち慈照寺(銀閣寺)となるが、これとは別に浄土寺の名を受け継ぐために塔頭の寺を統合し建立されたという。 浄土宗。本尊は「義政公の持仏なり」と「坊目誌」に記されており、寺宝の黒仏(藤原仏)は旧浄土寺本尊と伝える。 弘法大師も併せまつり、大文字送り火時に山上弘法大師前にて、歴代住職が読経する。 浄土寺門跡建立の因縁となる、浄土寺二位尼・丹後局(立像)「日本の楊貴妃」をまつる。 建立:1722(享保7)年 ただし現在の寺は昭和の初期に再建される。

光福寺

正しくは、干菜山(ほしなざん)斎教院安養殿光福寺と号する浄土宗知恩院派の寺院で、俗に「ほしな寺」と呼ばれている。 寺伝によれば、寛元年間(1243~47)に道空上人が西山安養谷(あんようがたに)(長岡京市)に建立した一寺(斎教院)が当寺の起りと伝え、天正10年(1582)に、月空宗心(げっくうそうしん)によって現在の地に移された。 道空は、六斎念仏を世に広めたことで知られ、その由緒をもって後柏原天皇から六斎念仏総本寺の勅号を賜った。 また、文禄2年(1593)に豊臣秀吉が、鷹狩の途次に当寺に立ち寄った時、住職宗心が干菜(ほしな)を献じたことにより、秀吉から干菜山光福寺の称号を与えられたといわれている。 本堂には、正和2年(1313)に花園天皇から賜った閉目の阿弥陀如来像を安置し、収蔵庫には、六斎念仏興起書等の諸文献や、秀吉寄進の陣太鼓及び秀吉画像等を収納している。