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岡田国神社
泉橋寺
高倉神社
木津川市山城町綺田神ノ木にある高倉神社は、後白河法王の第二皇子以仁王を祀った神社で、隣接して以仁王の御墓がある。 「平家物語」によると、以仁王は、 治承4年(1180)源頼政のすすめにより、平清盛とその一族の追討を命じる令旨を諸国の源氏勢力にあてて出していた。 このことが露見したため、 平家の追討をうけ、 南部の興福寺をたよって都を落ちる途中この地に至り、光明山寺の鳥居の前において流れ矢にあたって落命されたという。後に、この地に王の御霊を祀ったのが、この神社の起こりと伝える。 ◆阿弥陀寺 高倉神社に近接する阿弥陀寺は、僧円輸の開基と伝え、 もと阿弥陀堂三艸庵と称したという。 以仁王落命の折、仏事を営み、 建久3年(1192)、これに因んで山号も高倉山としたと伝える。 なお、境内には、厚肉彫の石仏(阿弥陀如来座像)があり、鎌倉時代の優品である。
松尾神社
海住山寺
海住山寺は、天平7年(735)、聖武天皇の勅願により、東大寺の良弁僧正が開創したと伝えられています。 山上の伽藍は貞慶が復興してからのもので、本堂の傍らにそびえる五重塔は、山並みに映える鎌倉時代の傑作で、国宝に指定されています。 十一面観音立像や文殊堂、絹本著色法華経曼荼羅図、海住山文書はいずれも国の重要文化財に指定されています。 『みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ』の百人一首の歌で知られる瓶原(みかのはら)を一望におさめる地に、海住山寺が創建されたのは、恭仁京造宮にさきだつ6年前、天平7年(735)のことと伝えられております。大廬舎那仏造立を発願あそばされた聖武天皇が、その工事の平安を祈るため、良弁僧正に勅して一宇を建てさせ、十一面観音菩薩を奉安して、藤尾山観音寺と名づけたのに始まるとのことです。しかし、この寺は、保延3年(1227)に灰熔の厄に遭い、寺観のことごとくを失ったのであります。 その後、70余年を経た承元2年(1208)11月、笠置寺におられた解脱上人貞慶が思うところあってこの観音寺の廃祉に移り住み、海住山寺と名づけ、旧寺を中興されて、ここに現在の寺基が定められたのでありました。 観音様の浄土は南海の洋上にある補陀洛山であります。浄土とは、生ある限りいかなる人も対決しなければならない人間苦・人生苦を解決した真実の楽しみの世界を意味し、この世界に至る道が、いわゆる菩薩道(自他ともに真実の智慧にめざめ、生きとし生けるものをいつくしむ慈悲を行ずる道)にほかなりません。 解脱上人は、この山をこうした菩薩道実践の場所とさだめて、観音の浄土にちなんで海住山と名づけられたのでありました。 瓶原の平野と、その彼方に連なる山なみは、あたかも南海の洋上に浮かぶ補陀洛山のごとくであり、とりわけうす曇りの日に山上から眺める光景はその感を深くして、いみじくも海住山寺と名づけたものかとさえ思われます。 解脱上人貞慶(1155~1213)は、左少弁藤原貞憲の子で、幼くして興福寺に入り、党憲に師事してひたすら研学につとめ、維摩会・最勝会の講師までも歴任した商都仏教界随一の学僧であり、身をつつしむこときびしく、壮年に至り感ずる所あって笠置山にかくれ、名利をのがれでもっぱら徳をつまれた方でありましたが、晩年その心境がいっそうひらかれるにつれて、人々を教化して仏道にむかわしめるために、この海住山寺に移り住まれたのでありました。 上人は、弟子たちに「官同勢名誉を望むは自己継承の人にあらず」と常におしえて戒律をおごそかにし、当山の草庵に移られてからも、戒律復興のため、南都輿福寺の山内に常喜院を設けて律学の道場とされております。 この常書院からは、後に四大寺の輿正菩薩叡尊や唐招提寺の大悲菩薩覚焼などすぐれた高僧が輩出し、めざましい活躍をされています。 上人には「唯識論尋思鈔」・「法相宗初心略要」・「法華開示抄」など当時の仏教学の最高水準をゆく幾多の著述がありますが、その深い内省ときびしい求道を物語る書に「愚迷発心集」があって、読む人の衿をたださせます。かの法然上人が浄土宗を聞かれたとき、その徒の中には教をあやまり風儀をみだすものがありましたので、これを憂えて「興福寺奏状」を起草したのも上人であったと伝えられております。 かかる世にたぐい稀な学徳兼備の高僧解脱上人の衣鉢をついだのは、慈心上人覚真(藤原長房、1170~1243)でありました。 覚真は、後鳥羽上皇の側近でありましたが、当山で出家し先師の遺志をうけていよいよ戒律を厳しくし、また寺観の整備に力をつくしました。 現存の五重塔は、建保2年(1214)、先師一周忌の供養に際して解脱上人が後鳥羽院から拝領した東寺、唐招提寺の仏舎利を納めるために覚真が完成させたものであり、小さいながらもよくととのい、特に心柱が初層で止められている点と裳階(もこし)が付けられているところは建設史上有名であります。
蟹満寺
普門山と号し、かつては紙幡寺、加波多寺とも表記され、白鳳時代の末期に創建されました。 「古今著聞集」や「今昔物語集」に出てくる“蟹の恩返し”の縁起と国宝釈迦如来坐像で有名な寺です。 釈迦如来坐像は蟹満寺の本尊で、高さ2.4m、重さ約2t余りの金銅像です。 ◆縁起 太古、このあたりに善良で慈悲深い夫婦と一人の娘が住んでいました。 娘は幼い頃から特に慈み深く、常に観音経の普門品を読諭して観音さまを信仰していました。 ある日のこと、村人が蟹をたくさん捕えて食べようとしているのをみて蟹を買い求め草むらへ逃してやります。また娘の父が田を耕していると蛇が蛙を呑もうとしています。何とか蛙を助けてやりたい父は蛇に向って「もしおまえがその蛙を放してやってくれたら娘の婿にしよう」と言ったのです。すると不思議にも蛇は蛙を放し、何処へともなく姿を消したのでした。 突然のこととはいえ大変なことを言った父は、仕事も手につかず家に帰ると、ことの次第を娘に語り不本意を悔いたのでした。 案にたがわずその夜、衣冠を着けた紳士が門前に現れ昼間の約束を迫ってきました。困りはてた父は嫁入りの仕度を理由に、三日後に来るようにと男を帰したもののどうすることも出来ません。遂に約束の日が来ました。 雨戸を堅く閉して約束を守ろうとしない父娘に腹を立てた男は、本性を現し蛇の姿となって荒れ狂います。 娘はひたすら観音経の普門品を誦え、娘の父母は恐ろしさのあまり身を締めている その時、いかにも麗しい温顔に輝く観音さまが現れ「決して恐れることなかれ汝らの娘は慈悲の心深く常に善良なおこないをされ、又我を信じて疑わず、我を念ずる観音力はことごとくこの危難を除くべし」と告げ姿を消しました。 間もなくどうしたことか雨戸を打つ暴音は消え、夜が明けてみると戸外には、ハサミで寸々に切られた大蛇と無数の蟹の死骸が残されていました。 親子は観音さまの御守護を感謝し、娘の身代りとなった、たくさんの蟹と蛇の霊を弔うため御堂を建て観音さまを祀りました。 たくさんの蟹が満ち満ち恐ろしい災難が救われた因縁で建てられたので蟹満寺と名づけられ観音経の普門品を読諦していたので普門山と号せられたのです。 毎年四月十八日、この縁起にちなんで蟹供養放生会が修行されています。 (蟹の身代り観音と称し厄除、災難除けの御本尊として、古より人々の篤い信仰をあつめ本堂に祭祀されている。) ◆足腰痛み封じ祈祷 当寺は遠く大仏前代に渡卓令した泰氏によって創建され、本尊釈迦如求は約千三百年前、白鳳時代作、国宝に指定されており、往古より脚気、神経痛、足腰の病、その他体に潜む諸病を封じる秘法が師資相承されております。 七日間御宝前にて、諸病をわらじに封じる祈念を修し、その後、わらじを痛み、病と共に御焚き上げいたします。特に、毎年5月8日のお釈迦様の誕生会(旧歴4月8日花まつり)には、この御祈祷の大祭日とし、この秘法の利益を受けられた多くの願主が御永山なさいます。
綺原座健伊那大比賣神社
大智寺
浄瑠璃寺
浄瑠璃寺は、京都府木津川市加茂町西小札場にある真言律宗の寺院。山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基は義明上人である。 寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する。 本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重である。堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』にも当寺が登場する。 浄瑠璃寺の所在する地区は当尾(とうの)の里と呼ばれ、付近には当尾石仏群と呼ばれる、鎌倉時代にさかのぼる石仏、石塔などが点在している。行政的には京都府に属するが、地理的には奈良の平城京や東大寺からも近く、恭仁宮跡(奈良時代に一時期都が置かれた)や山城国分寺跡も近い。 浄瑠璃寺の創立については、寺に伝わる『浄瑠璃寺流記事』(じょうるりじ るきのこと)が唯一の史料である。『流記事』はいわゆる「縁起」の形式を取らず、寺の歴史に関わる事項について箇条書き風に書かれたもので、観応元年(1350年)に古記を書写したものであるが、この時に筆写されたのは永承2年(1047年)から貞応2年(1223年)までの歴史に関わる部分で、それ以後、永仁4年(1296年)から観応元年までの歴史については、新たに書き継がれている。 以下、『流記事』の記載に沿って初期の沿革を記す。永承2年(1047年)、義明上人により本堂が建立され、檀那は阿知山大夫重頼であった。これら2名の人物については、この『流記事』の記載以外にほとんど知られるところがない。義明については『流記事』の注記から当麻(現・奈良県葛城市)出身であることが知られるのみである。阿知山大夫重頼については、他の記録(『興福寺官務牒疏』)に「佐伯氏」とあるが、これも定かではなく、当地方の豪族とみられる。この永承2年が浄瑠璃寺の創建年とみなされている。この時の本堂は、『流記事』によれば1日で屋根を葺き終えているので、小規模なものであったことがわかる。 それから干支が一巡した60年後の嘉承2年(1107年)、本仏の薬師如来を「西堂」に移したとの記録がある。ただし、「西堂」についての具体的な説明はない。『流記事』はここで別の記録(『戒順坊阿闍梨日記』)を引いて、この時に旧本堂を取り壊して、そこに新本堂を建立し、翌年に仏像の開眼供養をしたと説明している。この記録から、当寺の当初の本尊(本仏)が薬師如来であったことがわかり、寺号も薬師如来の浄土である東方浄瑠璃世界に由来することがわかる。現・三重塔本尊の薬師如来坐像が当初の本尊であった可能性も指摘されている。また、この嘉承2年に建立された新本堂が、現存する国宝の本堂であるとするのが通説である。それから50年後の保元2年(1157年)には本堂を西岸に「壊渡」したとの記録がある。「壊し渡す」とは、「解体して移築した」の意に解釈されている。「西岸」とは、池の西岸、すなわち、現存する本堂の建つ位置にほかならない。それ以前の本堂が寺内のどの場所にあったかは定かでないが、地形等からみて、池の北岸にあったとする説もある。 中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となった。