須賀神社

スサノオノミコトなどを祭る。創祀当時は西天王社ともよばれ、現平安神宮の境内に社があった。 鎌倉期、北条高時の反乱で吉田神楽岡に避難したが、延元元年二月、社殿造営のち、慶安元年六月吉田大元宮西下へ遷座。 明治時代廃仏毀釈の時に須賀神社となる。 大正13年現在の氏子地に移転した。例祭5月の第2日曜日。 1964年(昭和39)交通神社を分祀、以来交通守護の信仰が厚い。 ◆由緒 平安時代末の康治元年(1142)、美福門院(びふくもんいん)の建てた歓喜光院(かんきこういん)の鎮守として創祀されたもので、祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)、櫛稲田比売命(くしいなだひめのみこと)を主神に、久那斗神(くなどのかみ)、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)を加え、五柱を祀る。  もとの社地は平安神宮蒼竜楼(そうりゅうろう)の東北にある西天王塚で、当社は岡崎の東天王社と相対して古くは西天王社と呼ばれた。その後、吉田神樂岡に転じ、今の地に移ったのは大正13年(1924)のことである。  聖護院一帯の産土神(うぶすながみ)とされ、また縁結び、厄除け、交通安全の神として崇敬厚く、ことに節分祭には参詣者で賑う。5月10日の神幸祭は角豆(ささげ)祭といい、氏子(うじこ)の家々には遠くの縁者も集まる。ささげのつる葉に多くのさや豆がつくように氏子の繁栄を祝う意味であろう。

三宅八幡宮(虫八幡)

この辺りは古くは小野郷と呼ばれ、小野氏の居住する地域であった。 社伝によると、推古天皇の時代、小野妹子が遣隋使として筑紫を過ぎる時、病に罹ったので宇佐八幡に祈願をこめたところ、直ちに平癒したので、帰朝後、宇佐八幡を勧請したのがこの社の起源であるといわれる。 祭神は応神天皇である。俗に「虫八幡」といい、子供の疳の虫除けの神として幕末期より崇敬を集めており、特に9月15日に行われる例祭には子供連れの参詣者で大いに賑わう。 東方には、慶長年間、石棺及び墓誌(国宝)が発掘された小野毛人の墓がある。 墓誌には天武天皇五年(677)の年号が銘刻されているので名高い。

御辰稲荷神社

1705年(宝永2)、東山天皇の即室、崇賢門院が白きつねの霊夢を見たことから東山天皇の勅許を受け創建されたと伝える。 祀られた社が禁裏御所の辰(東南)の方角にある森であったことから、御辰稲荷と呼ばれた。 御辰稲荷は、「辰」の字が達成の「達」につながるとされ、芸事の神様として信仰されている。 「京の風流キツネは碁の好きな宗旦キツネと琴の上手な御辰キツネ」とうたわれ、昔から芸事をする人たちの参拝が絶えなかった。

鷺森神社

貞観年間(859-77)創建と伝えられ、もと修学院離宮地にあったのを元禄年間(1688-1704)に現在地に遷座。スサノオノミコトを祀り、修学院、山端地区の産土神である。 また境内には触れると夫婦和合や良縁が授かるという「八重垣」の石がある。 5月5日の「さんよれ祭」は少年達が着物姿に紅たすき、菅笠姿で手には扇子を持ち‘さんよれ、さんよれ’のかけ声で鉦、太鼓で神輿とともにねり歩く。 巡行コースは赤山禅院発→氏子町→鷺森神社着。 参道は紅葉の美しさでも知られている。 建立:平安時代(貞観年間(859-77)) ◆由緒 当神社創建は貞観年間にして今より壱千百年余り前 比叡山麓の赤山明神の辺に祀られてあったが応仁の乱の兵火に罹り社殿焼失し、今の修学院離宮の山中に移し祀られてあった後水尾上皇この地に離宮を造営されるに当たり此の鷺森に社地を賜り元禄2年(西暦1689年)遷座(せんざ)相成り修学院山端地区の氏神神社として現在に至っている。 後水尾上皇も霊元法皇も修学院行幸の砌(みぎり)には当神社へも参拝され霊元法皇享保14年2月3日行幸の御時 をりふるを見し 鷺森 すぐかてに わけきて今日はむかふ神垣    との御製あり 毎年5月5日の神幸祭には霊元法皇乗御の鳳輦を改装した神輿の渡御(とぎょ)と共に”さんよれ”という踊と囃が珍しく少年達に菅笠に紅だすき姿で練り歩く風情が古風豊かで可憐である。 現本殿は安永4年(西暦1775年)に改築されたもので緑濃き神域には桜樹、楓も多く四季幽鳥の声を聞く閑静な境内であり御祭神の御神徳により広く人々の崇敬を集めている。 御祭神 素盞嗚命 神号を鬚咫天王と称し奉る 御神徳 家内安全、旅行安全、諸願成就 例祭日 5月5日

八大神社

永仁二年(1294)に創建された。 御祭神には一乗寺の産土神、氏神として素盞嗚命、稲田姫命、八王子命を祀っている。 禊祓い、農耕・水、森林・山、縁結び・和歌、方除・厄除、学業・教育と様々な御神徳をそなえている。 境内には慶長九年(1604)宮本武蔵が吉岡一門と決闘せし当時の下り松の古木がある。 宮本武蔵が吉岡一門との「一乗寺下り松の戦」の前に八大神社に立ち寄った縁から、由緒ある下り松の古木が本殿西に保存されることとなった。 現在の本殿は大正十五年造営。 ◆由緒 当社は永仁2年3月15日勧請(今より約700年前)(西暦1294年)祇園八坂神社と御同神に坐し古来より北天王(北の祇園)と称し皇居守護神12社中の一にして都の東北隅表鬼門に位置し、方除、厄除、縁結び、学業の神として世の信仰厚く、後水尾天皇、霊元天皇、光格天皇、修学院離宮行幸の砌り御立ち寄り白銀等御奉納あり 明治6年10月5日 藪里午頭天王社(永享10年11月28日勧請)(西暦1438年) 明治7年3月5日  舞楽寺八大天王社(永享10年9月朔日勧請)(西暦1438年)   を合祀す。大正13年幣帛供進神社に指定せられる。 因みに、剣聖宮本武蔵が、吉岡一族と決斗せし当時の”下り松”の古木は本殿西に保存してある。 ◆剣聖『宮本武蔵』と八大神社 武蔵が一乗寺下り松に立って多数の敵にまみえた日のまだ朝も暗いうちに、彼は、死を期したこの危地へ来る途中で、八大神社の前で足を止めて、「勝たせたまえ、きょうこそは武蔵が一生の大事」と彼は社頭を見かけて祈ろうとした。拝殿の鰐口へまで手を触れかけたが、そのとき彼のどん底からむくむくわいた彼の本質が、その気持を一蹴して、鰐口の鈴を振らずに、また祈りもせずに、そのまま下り松の決戦の場所へ駆け向ったという。 武蔵が自分の壁書としていた独行道のうちに、 我れ神仏を尊んで神仏を恃(たの)まず  と書いている その信念は、その折ふと心にひらめいた彼の悟道だったにちがいない。 武蔵にこの開悟を与えたことに依って、一乗寺下り松の果し合いはただの意趣喧嘩とはちがう一つの意味を持ったものと僕はそう解釈する。 吉川英治「随筆 宮本武蔵」より

熊野神社

社伝によれば、弘仁2年(811)紀州熊野大神を勧請したのに始まるといわれる。 熊野神迎祭は古くから行なわれており、当社は熊野三山の別当職をかねた聖護院の近くにあり、その守護神としての意味もこめて奉祀されたものと思われる。 平安末期、後白河法皇は度々熊野詣を行なわれたが、当社ともあつく尊信を寄せられ社殿を修造し境内を寄進して社頭の荘厳を加えた。 つづいて歴代天皇の尊信あつく、また京都の熊野三山の一つとして庶民の信仰をあつめてきた。 しかし、応仁大乱によってほとんど荒廃した。寛文6年(1666)に至って聖護院門跡の助成によって再興され、天保6年(1835)にも大修造が行なわれた。 その後、明治45年、昭和2年両度の市電軌道敷設により社域をせばめられた。 祭神は本殿に伊弉冉尊(いざなみのみこと)、相殿(あいどの)に伊弉諸尊(いざなぎのみこと)、天照大神、速玉男尊、事解男尊をまつる。 宝物としては、皇室にゆかりの深い品々が蔵されている。 祭礼は5月15日出輿祭、5月16日例祭が行なわれる。

吉田神社

祭神として健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)・伊波比主命(いはいぬしのみこと)・天之子八根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)の四神を祀る。 貞観(じょうがん)元年(859)藤原山蔭郷が平安京の鎮守神として藤原氏の氏神である奈良の春日社四神を勧請したのが当社のはじめである。以来上下の信仰厚く、式外社ではあるが二十二社に加えられ、延文元年(1356)正一位の神階を授けられた。 ついで室町時代の中頃神官吉田(卜部(うらべ))兼倶(かねとも)が吉田神道(唯一神道)を大成し、東南山上に斎場所太元宮(さいじょうしょだいげんぐう)を造営してから、吉田流神道の総家として明治に至るまで神道界に大きな権威をもっていた。 本殿は慶安年間(1648~1651)の建築で朱塗春日造りである。 このほか四脚中門・御廟・神供所などがある。 境内には太元宮のほか、末社、摂社が多く、中でも神楽岡(かぐらおか)社は「延喜式」にも記載された地主神として、また雷除神として有名である。 神竜(かむたつ)社には吉田兼倶を祀っている。 祭礼のうち節分祭(毎年節分の当日を中心に前後三日間にわたって本宮及び太元宮で行われる)は疫神祭(えきじんさい)・追儺(ついな)式・火炉(かろ)祭の三部に分れ、室町時代以来の伝統をほこる神事で多数の参詣者で賑う。 ◆斎場所大元宮 天神地八百万神をまつる大元宮を中心とし、周囲に伊勢二宮をはじめ、全国の延喜式内社3132座を奉祀する。 もと、神職卜部(吉田)家邸内にあったのを文明16年(1484)吉田兼倶がここに移建したもので、吉田神道の根本殿堂をなすものである。天正18年(1590)神祇官八神殿も社内後方に移され、江戸時代より明治4年(1871)に至るまで朝廷の奉幣使派遣のとき神祇官代としてその儀式を執行した。 本殿(重要文化財)は慶長6年(1601)の建築で、平面八角に六角の後方を付し、屋根は入母屋造・茅葺、棟には千木をあげ、中央に露盤宝珠を置き、前後には勝男木をおく特殊な構造をもっている。この形式は神仏習合(神道と仏教の折衷調和)、陰陽五行(万物は陰と陽の二気によって生じ、火木は陽、金水は陰、土はその中間にあるとし、これらの消長により大地異変・災事・人事の吉凶を説明)などの諸説を総合しようとした吉田神道の理想を形に現したものといわれる。 当社に参詣すると全国の神社に詣でたものと同じ効験があるとして、毎年節分の日を中心に前後三日間行なわれる節分祭には多数の参詣者で賑わう。

大豊神社

この社は少彦名(すくなひこなの)命(みこと)・応神天皇・菅原道真(みちざね)を祀っている。 社伝によると、仁和三年(887)、宇多天皇の病気平癒のため尚侍藤原淑子が勅命を奉じた勅願所であり、朝野の信仰が篤かった。 建武の内乱・応仁の兵火などに遭って焼失したが、本殿・末社・拝殿・絵馬堂が再建され、鹿ケ谷、法然院、南禅寺一帯の土産神(うぶすなのかみ)として信仰を集めている。 特に、末社の大国社の狛鼠、日吉社の狛猿、愛宕社の狛鳶は、それぞれの神のお使いとして有名である。 また、神花として椿、枝垂れ紅梅、紫陽花や山野草が四季折々、参拝者の心を和ませている。 更に、椿の名所としても知られている。 由緒 鹿ケ谷・南禅寺一帯の産土の神、氏神様 枝垂紅梅、椿、四季折々の山野草が心を慰めてくれます。 社伝によると、仁和3年(887)宇多天皇の御悩平癒祈願のために、贈正一位尚侍藤原淑子が勅命を奉じて、少彦名命を東山三十六峰、第十五峰目の椿ヶ峰に奉祀して創建されました。後に応神天皇と菅原道真公が合祀されました。昭和29年には、京都市よりいにしえの都の古刹として「名勝地」に指定され、又、哲学の道の「ねずみの社」として全国より多くの参拝者を迎えることとなりました。 御神徳としては、治病健康、福徳長寿、学業成就、縁結び、子授け安産があります。

岡崎神社

祭神として素戔鳴尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、及びその御子三女五男八柱神を祀る  社伝によれば、桓武天皇の平安京遷都に際し、王城鎮護のため平安京の四方に建てられた社の一つで、都の東にあるところから東天王と称した。 4317