鎌倉宮は大塔宮護良親王を奉斎する神社です。 親王は延慶元年(1308)に後醍醐天皇の皇子としてご誕生になり十一歳で比叡山延暦寺に入室され、二〇歳にして天台座主となられます。当時、鎌倉幕府の専横な政治に、後醍醐天皇は国家の荒廃を憂いられ、親王と共に元弘元年六月比叡山にて倒幕の挙兵をする手筈でしたが、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ隠岐に配流となります。 親王は還俗し、名を護良と改め、天皇の代わりとなって楠木正成らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大軍を吉野城や千早城に引き付け、この間にも親王の討幕を促した令旨に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利高氏、赤松則村が六波羅探題を落とし、また新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。天皇は京都に還御され親王はこの功に因り征夷大将軍となられます。しかし、高氏は征夷大将軍を欲し更に、諸国の武士へ武家の棟梁であることを誇示した為、親王は高氏による幕府擁立を危惧し兵を集めますが、逆に高氏の奸策に遭い捕らえられ、鎌倉東光寺の土牢に幽閉されます。建武二年(1335)七月二十三日残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行に敗れた高氏の弟直義は逃れる際に、家臣淵辺義博へ親王暗殺を命じ、義博の凶刃に、親王は九ヵ月をも幽閉された御身では戦う事も出きずに御年二十八歳の若さでその苦闘の生涯を薨じられます。 明治二年二月・明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に遙かに想い馳せられ、親王のご遺志を高く称え永久に伝えることを強く望まれ、親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら社号を『鎌倉宮』と名付けられ、こうして創建されたのが鎌倉宮です。 ◆撫で身代りの由来 村上義光公は、護良親王の忠臣にして、元弘3年(1333年)正月、吉野城落城の折、最早これまでと覚悟を決めた護良親王は、別れの酒宴をされました。 そこへ村上義光公が鎧に16本もの矢を突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、親王の錦の御鎧直垂をお脱ぎいただき、自分が着用して「われこそは、大塔宮護良親王ぞ、汝ら腹を切る時の手本とせよ」と告げて、腹を一文字に掻き切り、壮絶な最後をとげ、その間に親王は南に向って落ちのびました。 このように身代りとなられた村上義光公を境内の樹齢103年の欅の大木にて彫り上げ、「撫で身代り」として入魂致しました。 ◆鎌倉宮と獅子頭守 御祭神の護良親王は。「戦いに赴かれる際兜の中に獅子頭のお守りをしのばせて、自らを守っていただいた」との言い伝えがあります。また獅子頭は古くから「厄(悪いもの)を食べ、幸せを招く」と言われています。
鎌倉
浄妙寺
当寺は稲荷山と号し、鎌倉五山第五位の寺格をもつ臨済宗建長寺派の古刹である。源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治四年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。 開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)律師で当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)の弟子月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と称した。 寺名を改称したのは正嘉年間(1257~59)とみられる。歴代の住持には約翁徳倹(やくおうとくけん)・高峰顕日(こうほうけんにち)・竺仙梵僊(じくせんぼんせん)・天岸慧広(てんがんえこう)など名僧が多い。 中興開基は足利尊氏の父貞氏(さだうじ)で、没後当寺に葬られた。至徳三年(1386)足利義満が五山の制を定めた頃は七堂伽藍が完備し、塔頭二十三院を数えたが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裡などで伽藍を形成している。 ◆開山略伝 行勇律師(1163~1241)は相模国酒匂(さかわ)(小田原市)の人で初名は玄信、荘厳房(しょうごんぼう)と称した。幼くして薙髪(ちはつ)出家し、真言密教を学んだ。養和元年(1181)には鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福寺・大慈寺の別当にも任じ、文治四年(1188)足利義兼が当山を建立すると開山に迎えられた。正治元年(1199)栄西が鎌倉に下向すると、その門に入って臨済宗を修め、栄西没後は寿福寺二世に任じている。頼朝や政子に信任されて戒を授ける一方、「所住の寺、海衆満堂」といわれるほど信望され、実朝もあつく帰依した。仁治二年七月、東勝寺で没した。 ◆庭園 天正年間(1500年代)僧が一同に茶を喫した喜泉庵があった。 平成三年復興、開席、庭園は杉苔を主とした枯山水である。喜泉庵で抹茶を喫することができる。 ◆墳墓・旧蹟 本堂うらの墓地に足利貞氏の墓(鎌倉市文化財)がある。『新編相模国風土記稿』に「元弘元年九月五日讃岐守貞氏卒しければ茶毘して当寺に塔を建つ」とあり、古くから、当寺中興開基貞氏の墓塔と伝えてきた。貞氏(1331没)は家時の子で尊氏の父。塔には明徳三年(1392)の銘がある。 熊野社は当寺の鎮守で、もと浄明寺地区の村杜。祭神は素蓋鳴尊。例祭は九月十七日である。境内には尊氏の兄高直が建立した延福寺や直義創建の大休寺などもあったが、いまは廃された。
大巧寺
初め「大行寺」という名でしたが、源頼朝がこの寺で行った軍評定(作戦会議)で大勝したので、「大巧寺」に改めるようになったと伝えられています。 室町時代の終わり頃、この寺の住職の日棟上人が、難産で死んだ秋山勘解由(あきやま かげゆ)の妻を供養して成仏させました。その後、お産で苦しむ女性を守護するために、「産女霊神」(うぶすめ れいじん)を本尊としてお祀りしました。 今も安産祈願の寺として「おんめさま」の愛称で呼ばれ、多くの方が参詣されています。
光明寺
材木座に所在する光明寺は、江戸時代には浄土宗関東十八檀林の第一位として格付けされた格式の高い寺院です。 開山は記主禅師然阿良忠、開基は鎌倉幕府の第4代執権北条経時で、仁治元年(1240)鎌倉に入った良忠のために、経時が佐助ガ谷に寺を建てて蓮華寺と名づけ、それが寛元元年(1243)に現在地に移り光明寺と改められたと伝えます。 元禄11年(1698)建立の本堂は、国指定重要文化財。また、弘化4年(1847)建立の山門は、県指定重要文化財。ことに本堂は、鎌倉で現存する近世仏堂のうちでも最大規模を誇ります。当寺は今なお、建長寺、円覚寺と並ぶ壮大な伽藍を構成しています。 10月12日から15日の間に行われる「十夜法要」の行事は今でも、夜市がたち大勢の人で賑わいます。
海蔵寺
鎌倉時代、七堂伽藍を持つ規模の大きい寺があったと伝えられますが、鎌倉幕府滅亡時に焼失し、その後、応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満の命で、上杉氏定が心昭空外を招いて再建され、扇ヶ谷上杉氏の保護を受けて栄えました。 この寺には多くの言い伝えがあります。空外は「那須の殺生石」の話で有名です。仏殿の薬師如来坐像は「啼薬師」、「児護薬師」といわれ、胎内には仏面を収めており、啼薬師伝説があります。 門前には、「千代能が いただく桶の 底脱けて 水たまらねば 月もやどらじ」と歌われたと伝えられる「底脱の井」や、鎌倉時代の遺跡である「十六の井」もあり、水の寺といわれています。 ◆底脱の井 この井戸は、鎌倉十井の一つです。 中世の武将の安達泰盛の娘・千代能が、ここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため、 「千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば 月もやどらず」 とうたったことから、この名がついたといわれています。井戸の底ではなく、心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です。
本覚寺
本覚寺は、日出上人を開山として永亨八年(1436)に創建されました。当地は、鎌倉幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が夷堂を創建したとされ、文永11年(1274)に佐渡流罪を解かれ鎌倉に戻った日蓮上人は、この夷堂に滞在して布教を再開しました。その後、甲斐国の身延山に入って久遠寺を建立し本核的に日蓮宗の布教を行いました。後に、鎌倉公方・足利持氏は夷堂があった場所に寺を建てて日出上人に寄進し、上人は、これを本覚寺としました。 二代目住持の日朝上人は、後に、身延山久遠寺の住持になった際、かの地にあった日蓮上人の遺骨を本覚寺に分骨しました。それは身延山に参詣することが難しい女性や老人のためであり、本覚寺が「東身延」と呼ばれるきっかけとなりました。 眼の病気を治してくれる寺として知られ、「日朝さま」の愛称で親しまれています。これは日朝上人が眼の病気を患ったとき、法華経と自らの回復力によって治癒したというのがその由来です。 境内に建つ夷堂は、鎌倉・江の島七福神の一つとなっており、縁結びや商売繁盛の神様として多くの参拝客が訪れます。 正月の鎌倉えびす講(9、10日)には、商売繁盛を祈願して福娘がお神酒をふるまう姿は鎌倉の風物詩となっています。 また、境内には刀工として有名な正宗の墓と、石塔があります。 ◆にぎり福 にぎり福は愛・健・財・学・福の五つを握り込んだ握り福として昔からこの地方の人々に愛されているものです。
瑞泉寺
嘉暦二年(1327)七朝帝師夢窓国師は西の富士山を客山に北の天台山を主山とする禅院相応の勝地この錦屏山に自ら瑞泉寺を開かれ、中腹の鎌倉石の岩盤に庭の約束事である滝・池・中島等のすべてを巧みにえぐって橋をかけ、さらに水を貯めて滝として流す貯水池までも刻んだ岩庭と呼ぶにふさわしい庭園を作られた。 山項の偏界一覧亭の前景を兼ねるこの瑞泉寺庭園は夢窓国師という優れた禅僧にしてはじめてなし得た禅の庭園で、後の西芳寺・天龍寺の先蹤をなすものである。 鎌倉に存する鎌倉期唯一の庭園として、また彫刻的手法の独自の意匠による庭姿をほとんど完全に伝える極めて稀なものとして国の名勝に指定されている。また五万坪に及ぶ広大な境内全域は鎌倉公方家四代の菩提所として関東十刹の首位に列せられた往時の規模をそのままよく保持し伝えるものとして国の史跡に指定されている。 ◆名勝瑞泉寺庭園 紅葉ヶ谷を囲む三方の山が天然の垣根をなし、わずかに開けた西の空に富士山を仰ぐこの地を選び、天台山、錦屏山を背景として、夢窓国師は庭園を作られました。それは、鎌倉石の岩盤に地形に即して巧みに彫刻をほどこした、鎌倉ならではの性格のものでした。 境内の北の一隅の岩壁の正面に大きな洞(天女洞)を彫って水月観の道場となし、東側には座禅のための窟(座禅窟、葆光窟)をうがちました。天女洞の前には池を掘って貯清池と名づけ、池の中央は掘り残して島となしました。 水流を東側に辿れば滝壺に水分け石があり、垂直の岩壁は滝、その上方をさらに辿れば貯水槽があって天水を蓄え、要に応じて水を落とすしつらえとなっています。 池の西側には二つの橋がかかり、これを渡るとおのずから池の背後の山を辿る園路に導かれます。非公開ですが二つの橋も数えて十八曲がりに園路を登ると錦屏山の山頂に出て、私たちはそこにまた大きな庭と出会います。 鶴ヶ丘から鎌倉周囲の山並みが幾重にも浪状をなして重なり、遠くには箱根の山々がかすみ、右手に霊峰富士が大きく裾を広げる足下には、相模湾が自然の池をなしているのです。借景の大庭園の広がるこの山頂に夢窓国師は小亭を建て、界一覧亭と名づけました。 岩盤を彫刻的手法によって庭園となした、「岩庭」とも呼ぶべきこの庭園は、書院庭園のさきがけをなすものであり、鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園なのです。
円応寺
創建は建長二年(1250)、開山は知覚禅師。閻魔堂、十王堂とも呼ばれ、人が死後、亡者と成って冥界(めいかい)で出会う十王を祀る寺。 初め見越獄(大仏の東の山)にあったが、足利尊氏が由比ヶ浜古戦場の亡魂(ぼうき)を弔う為、由比ヶ浜に移築した。その後元禄16年(1703)に起きた大地震と津波の被害により、現在の地に移った。 鎌倉時代の仏師「運慶」が頓死をし、その慳貧心(けんろうしん)ゆえ地獄に落ち閻魔大王の前に引き出された時、閻魔大王が「汝は生前の罪により、獄卒の呵責(かせき)を受けるべきであるが、汝が我が姿を彫像し、その姿を見た人々が悪行を成さず、善縁に趣く(おもむく)のであれば、汝を娑婆(しゃば)に戻して上げよう。」と言われた。運慶は生き返った事を喜び、あの世で会った閻魔大王の姿を彫った。その閻魔大王を本尊とするのが、この「円応寺」である。 尚、運慶が笑いながら閻魔大王の姿を彫ったため「どことなく閻魔さまも笑っているいるようにみえる」と言われており、古来より「笑い閻魔」とも言われている。 ◆十王とは 十王とは人が死後、亡者と成って冥界に行き出会う十人の王の事。亡者の生前の行いを取り調べる裁判官である。 亡者は初七日は「秦広王」二・七日は「初江王」三・七日は「宋帝王」四・七日は「五官王」五・七日は「閻魔王」六・七日は「変成王」、七・七日は「泰山王」百ヶ日は「平等王」一周忌は「都市王」三回忌は「五道転輪王」と十回それぞれの王の前で取り調べを受ける。 「閻魔大王」が以前の四王の取り調べと合わせて、亡者が六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界)の何処に生まれ変わるかを決定する。「変成王」は亡者が生まれ変わる「場所の条件」を決定する。例えば人間界に生まれても、争いばかりしている所もあれば、平和で豊かな所もある。「泰山王」は亡者が生まれ変わる「個人の条件」寿命、男女の差などを決定する。 七・七日の四十九日までの間は「中有」または「中陰」と言い、亡者の霊魂は生前その人が生活していた所に漂っており。「四十九日」が終わって、それぞれ定められた所にいく。又、「悪趣」(地獄、餓鬼、畜生、修羅)に行く事が定められた亡者も、百ヶ日、一周忌、三回忌と供養を重ねる事により誰でも「天上界」(極楽)に行く事ができる。 ◆子育て閻魔の由来 昔鎌倉の地が荒れ果てていた時、山賊が閻魔堂を根城にし、寺の前の小袋坂を通る人々を襲って金品を奪っていた。ある時山賊が幼子を連れた女人をお堂の中へさらってきて、「子供は邪魔だ」と両腕で頭上に持ち上げ、今まさに地面に叩きつけ様とした。その時、閻魔大王の舌が「スー」とのび、幼子を「クルリ」と巻き取り、大きな口を開けて飲み込んでしまった。すると山賊は「ワー、閻魔大王が動いた。子を食った」と驚き恐れお堂から逃げ出してしまった。残された女人は、恐ろしさのあまりお堂の中に座りこんでガタガタとふるえておった。すると閻魔大王が「もう良いだろう」と言って、大きな口を開き、女人の目の前に「スー」と舌を延ぱした。女人が恐る恐る舌の上を見ると、先程飲み込まれた幼子が「スヤスヤ」と気持ち良さそうに寝入っていた。お陰で女人は幼子と一緒に無事小袋坂を越える事が出来た。その後、この閻魔様は「子育て閻魔」として、近在の人々に信仰されるようになった。 現在でも「子育て閻魔」にお参りすると、子育て安泰、学業成就、受験等子供が無事に成長するように、閻魔大王が守ってくれる、と信仰を集めている。
宝戒寺
当山は天台宗の寺院で金龍山釈満院円頓宝戒寺と号す。 開基は後醍醐天皇(1288~1339)開山は天台座主五代国師円観恵鎮慈威和上(五人の帝の戒師となられたので五代国師を朝廷より賜る1281~1356)で建武(2年)年間創建された。 当寺は北條義時が小町邸を造って以来北條執権の屋敷となり、元弘3年(1333)5月22日北條九代滅亡後その霊を慰めるため、又、国宝的人材を養成修行せしめる道場として後醍醐天皇が足利尊氏に命じこの屋敷跡に建立させた寺である。 開山の慈威和上は当山を円頓大戒(金剛宝戒ともいい、梵綱菩薩戒経所説の十重四十八軽戒を戒相とする大乗戒)と天台密教(台密)の大法関東弘通の道場として戒壇院を置き、加賀白山の薬師寺、伊豫の等妙寺、筑紫の鎮弘寺と共に遠国四箇の戒場といわれた。 亦二世普川国師惟賢和上は国家鎮護のため和合仏たる歓喜天尊像(聖天様)を造立し特殊なる修法を定めてひたすら鎮護国家を祈念したのである。天文7年(1538)七堂伽藍ことごとく焼失した。江戸時代に入って天海大僧正は宝戒寺は関東における天台律宗の本寺である故寺の維持相続の保護を徳川家康に懇願している。 僧正の言を待つまでもなく当寺は円頓戒壇として並びに四宗兼学の道場として現在に至る。