本能寺

法華宗本門流の大本山で、応永22年(1415)、日隆上人によって創建された。 当初は本応寺と称していたが、永享5年(1433)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、更に天文14年(1545)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。 本寺は、天正10年(1582)、織田信長が明智光秀によって襲撃(本能寺の変)され、自刃したところとして世に名高いが、その折、30余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。 その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年(1589)、現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、現在の本堂は昭和3年(1928)に再建されたものである。 寺宝には、花園天皇宸翰、伝藤原行成筆の書巻等の貴重な逸品を蔵し、境内には、織田信長及びその側近達の供養塔、並びに江戸時代後期の南画家浦上玉堂父子の墓などがある。

紫雲山頂法寺(六角堂)

聖徳太子が建立した古刹で、西国三十三所第18番札所。 本尊は如意輪観世音菩薩で、本堂が六角形を成していることから六角堂といわれる。 現在の建物は1877年(明治10)の再建。 京都の中心と言われる「へそ石」は本堂前にある。 いけばな発祥の地でもあり、「華道家元 池坊」として知られている。 ここでは、華道関係の資料が展示されたいけばな資料館の見学ができる。 ◆由緒 草創 用明天皇二年(587)聖徳太子建立 太子 大阪四天王子建立のため用材を求めてこの地の入られた時 夢に霊告をうけ杉の大樹によって六稜の堂を建て自らの護持仏をここに安置された 本邦 伽藍建立の最初であるところから頂法寺という 天治二年初めて炎上其後度々類焼し寛永十八年の再建には朝廷より陣座御殿の御寄付を得て本堂 山門 築地等を復興した 今の御堂は明治九年に再建 創建以来1400余年 本尊 如意輪観世音菩薩(閻浮檀金 御丈一寸八分) 聖徳太子の護持仏で六角堂建立の後は 本尊として祀り其の守護を小野妹子大臣に命ぜられたと伝える 妹子は入道して専務といい太子沐浴の池のかたわらに坊を営んだので坊号を池坊という 以来子孫が当寺住職として守護し今日に至っている 本尊脇仏には木像地蔵菩薩像 毘沙門天立像(藤原時代作 重要文化財)等を安置する 西国霊場 長徳二年(996)正月 花山法皇 当寺に行幸される これが西国巡礼の始めで 当寺は現在西国第十八番の霊場である また後冷泉天皇諸国の大寺に仏舎利一粒ずつを納められるにあたって当寺より始められたと伝えられ今も舎利塔が現存する ◆太子堂 聖徳太子御作二歳像(南無仏)を祀る ◆へそ石 本堂古跡の石ともいい京都市街の中心石として伝わる聖徳太子 沐浴の古跡 太子堂周辺の枯山水の庭となってそのおもかげをつどめている ◆華道家元池坊 小野妹子(専務)は太子の教え従って朝夕宝前に花を供え 代々の住職はこれを伝え いけ花の名手が輩出した 室町時代(足利義政の頃)には専慶が立て花の名手と称えられ室町後期には専応が出ていけ花の理念を確立した いけ花発祥の地といわれる所以である いまや池坊いけ花はここを拠点として発展し日本国内にとどまらず世界を結ぶ文化の重要な役割を果たしつつある ◆六角堂 紫雲山頂法寺(しうんざんちょうほうじ)と号する寺で、本堂が六角宝形造(ほうぎょうづくり)であることから、一般に「六角堂」の名で人々に親しまれている。  開基は聖徳太子で、四天王寺建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。早くから人々の崇敬を受け、弘仁13年(822)には嵯峨天皇の勅願所となり、また長徳2年(996)には花山法皇の御幸があり、西国33箇所観音霊場(現18番の札所)となったと伝えられる。建仁元年(1201)、親鸞聖人が当寺に100箇日間参籠して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。  本堂には、聖徳太子の持仏と伝える本尊如意輪観音像、親鸞像、毘沙門天立像(重文)などを安置する。本堂前の六角形の礎石は臍(へそ)石といい、古来、京都の中心に当たるとされてきた。  また、本堂北の本坊は池坊(いけのぼう)と呼ばれ、室町時代以降、多くのいけ花の名手を輩出した所で、華道発祥の地として有名である。現在も池坊華道の拠点となっている。 西国三十三ヶ所観音霊場 第十八番札所 六角堂 頂法寺 御詠歌 わが思う心のうちは六の角 ただ円かれと祈るなりけり ◆親鸞上人 親鸞上人は毎夜、比叡山より当寺本堂に百日参籠された。その95日目の暁の夢で、当寺御本尊より「法然の許へ行け」との示現を得た。このお告げによって再び百日参籠され、当寺より法然上人の許へと通った。 それから2年後、また夢中に「行者宿報設女犯我成玉女身被犯・一生之間能荘厳・臨終引導生極楽」 の偈文を授かり、これによって日本に新しい救いの教えである浄土真宗を開かれたのである。 このお姿は、比叡山より当寺本堂に参籠され、又再び比叡山へお帰りになろうとされているお姿です。 ◆親鸞堂 見眞大師(親鸞上人) 親鸞上人は、建仁元年(1201)29歳の時、毎夜叡山を下り、この六角堂に百日参籠され、夢中に四句を偈文を授かり浄土真宗の開祖となられた。 ここには、夢のお告げを聞いておられる姿の「夢想之像」と、六角堂参籠の姿を自刻されたと伝える「草鞋の御影」を安置する。 ◆へそ石 桓武天皇の延暦十二年(793)京都へ遷都の時、六角堂の所在が道路の中央に当たったので天皇が遷座えを祈願されたところ御堂がにわかに5丈ばかり北へ退かれたという。 この石はその際に取り残された礎石であると伝える。また京都のほぼ中央に当たるところからへそ石とも要石とも呼ばれている ◆一言願い地蔵 このお地蔵さまは少し首を傾げられた姿をされていますが これは悩んでいらっしゃるわけではなくお参りに来られた方の願いを叶えてあげようかどうしようか と考えておられるお姿なのです 願いを聞き届けて頂けるかどうかはあなたの信心次第です欲張らず一つだけ願い事をして下さいきっと叶えて下さることでしょう ◆なぜ三十三ヶ所なのか 観音信仰の基礎となるのが「妙法蓮華経観世音普門品第二十五」で俗にいう観音経です。その中には、観世音菩薩は人々が真心をもって観音様の御名を唱えれば、悩める私たちの求めに応じて様々な姿に身を変えて説法してくれるとあります。 観音様には聖観音・千手観音・如意輪観音など様々なお姿がありますが、観音様が人間世界に現れるときには「南無大慈大悲観世音菩薩」とお称えするように、慈愛溢れる性格から年齢・性別を問わず、三十三の身近な者の姿に変化して私達を救って下さいます。観音経の中にもその変化の姿が三十三数え上げられ、この数にちなんで全国各地に三十三ヶ所の観音霊場が開かれています。 ◆六角堂 十六羅漢 羅漢様とは、仏の教えを護り伝えることの出来る優れたお坊様に与えられた名前です。十六と言うのは、方位の四方八方を倍にした十六を表し、あらゆる場所に羅漢様が居られることを意味しています。 この羅漢様は、「和顔(わげん)愛語(あいご)」を実践され いつも「にこにこ」されています。「和顔愛語」の教えとは、いつも優しい顔つきで、穏やかに話をするように心がけてさえいれば、必ず良い報いがあると説かれたものです。みなさんも、この羅漢様のように一日でも多くの「にこにこ」を心がけましょう。 ◆邪鬼 この羅漢様の周りには邪鬼がいます。仏教をなかなか理解せず、ひねくれて仏教信者とならない。そんな衆生を邪鬼といいます。中には改心した邪鬼もいて、ここ六角堂には、羅漢様の周りで仏法を学びながらお守りしている者や、本堂前にある大香炉を自分から大喜びで背中に乗せるけなげな邪鬼もいます。ここの邪鬼は皆、自らすすんで縁の下を支えています。 ◆合掌地蔵 このお地蔵さまは、お参りに来られた方の願いを手のひらにやさしく包み込んで、その願いが叶えられるようにと、皆さんと一緒にお祈りしていらっしゃるお姿をされています。手を合わせ、その手に願いをささやきながら吹き込んでください。お地蔵さまの力を信じ、一心に祈れば必ず力をかしていただけることでしょう。

神泉苑

平安京造営の時に設けられた宮中附属の禁苑で、大池には天皇や公家が船を浮かべ、歌や花、音楽を楽しみ、御池通の由来にもなった。 弘法大師空海が祈雨の修法をし、祇園祭の発祥地でもある。 平安の面影を残す境内には願いが叶う法成橋(赤い橋)や、年の恵方を祀る歳徳神がある。 5月には神泉苑祭、11月には神泉苑狂言の公演がある。 創建:794(延暦13)年 平安建都の年

壬生寺

律宗の大本山で宝幢三昧寺(ほうどうさんまいじ)、又は心浄光院(しんじょうこういん)と号し、本尊として地蔵菩薩立像(重要文化財)を安置している。 寺伝によれば、創建は奈良時代と伝え、正暦2年(991)三井寺(みいでら)の快賢僧都(かいけんそうず)により復興され、小三井寺と呼ばれていた。 その後、火災により堂宇を焼失したが、正元元年(1259)平政平(たいらのまさひら)により再興され、さらに正安2年(1300)円覚(えんかく)上人が、仏の教えを身振り動作に仕組んだ壬生大仏狂言を創始し大いに栄えた。 現在の本堂は、昭和37年に焼失したため、昭和42年に再建されたものである。 ◆由緒 律宗に属し、本尊は地蔵菩薩立像(重要文化財)である。 寺伝によれば、正暦2年(991)三井寺の快賢僧都により創建され、古名を地蔵院、宝幢三昧寺などと呼ばれていた。 その後、火災により堂宇を焼失したが、正元元年(1259)平政平により復興され、さらに正安2年(1300)円覚上人が、仏の教えを無言劇に仕組んだ、壬生狂言(重要無形民俗文化財)を創始し大いに栄えた。 昭和37年に本堂が焼失したため、昭和45年に再建された。 また、境内北にある壬生狂言を演ずる舞台、大念仏堂(重要文化財)は、安政3年(1856)の特異な建造物である。 当寺境内は、新選組が大砲や剣術の訓練をした場所として有名であり、壬生塚には近藤勇の胸像、芹沢鴨らの墓塔がある。 池田屋騒動があったと言われる7月16日には、毎年、慰霊供養祭が行われる。

蛸薬師堂(浄瑠璃山 永福寺)

養和元年(1181年)室町の林秀が、比叡山の御本尊薬師如来の夢告により与えられた伝教大師が彫られた石仏の薬師如来をおまつりした六間四面の堂を作り、永福寺と名付けられたのが始まり。 善光という僧が、戒めに背き、病気の母親に好物のタコを買う孝行譚に由来し、本尊薬師如来は蛸薬師の名で知られる。 病気平癒の御祈祷で有名で、毎月8日午前10時より午後2時まで大般若会が勤修され、ガン封じや心身の病気平癒、諸願成就を祈願する人々の参拝が多い。 ◆由緒 正しくは浄瑠璃山永福寺といい、本堂に「蛸薬師」と呼ばれる薬師如来の石造を安置している。 昔、この寺が二条室町にあったころ、付近に池があったことから、水上薬師または澤(たく)薬師と呼ばれ、これが訛って蛸薬師となったといわれている。 また、一説には、この寺にいた善光という親孝行な僧侶が、戒律に背いて病気の母のために蛸を買って帰るところを町の人に見とがめられ、箱を開けるよう求められたとき、薬師如来に「この難をお助けください」と念じたところ、蛸の足が八巻の妙法蓮華経に変わり、難局を逃れたという。 その後、母の病気も薬を飲まずに全治し、これは親孝行の僧侶を守った本尊の霊験であるとして、本尊の薬師如来を蛸薬師というようになったと伝えられている。 病気平癒の祈願のために参拝する人々でにぎわった参道は蛸薬師通と呼ばれるようになった。 ◆蛸薬師如来の由来 その昔、当寺に住していた善光(ぜんこう)という若い僧侶が、重い病に伏した母の「蛸が食べたい」というたっての願いを聞き、思い悩んだ末に僧の禁を破って市場で蛸を買いました。しかし、町の人々にそれを見咎められ、一心に「薬師如来様、この難をお救いください。」と祈ると、彼の手元で蛸は光を放ってありがたい法華経八巻に変化し、不思議なことにその威光に照らされた母の病もたちまち癒えて元気になりました。以来、京の町の人々から「蛸薬師さん」と親しみを込めて呼ばれるようになり、以来もろもろの病気平癒や厄難の消除には霊験あらたかと、たくさんの老若男女から信仰を集めてまいりました。

御金神社

伊邪那岐、伊邪那美、二柱神の皇子にして金山毘古神と称え奉る五元(陽爻(天の位))の第一位の神で金乃神、金乃類を司り給う神で、世に云う金神様です。 鉱山の神、剣、刀、鏡、鋤、鍬、大きくは現代の大型農機具や印刷機械、各工場の生産ラインの機械に至るまで幸へ護り給う大神です。また、通貨に用いられる金、銀、銅の他、諸々の合金属を御護り給うことから資産運用の神としても崇められて居ります。 家屋の建設、器械、道具の全てを幸へ護り給うことから、家造雑作、転宅、方位の厄除け及び旅行中の無事を守り給う大神です。 ◆由緒 御祭神 金山毘古命・天照大神・月読神 伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)、御二柱神の皇子にして金山毘古命(かなやまひこのみこと)と称え奉る五元陽爻(天の位)の第一位の神で金乃神、金乃類を司り給う神で、昔は民家にあって密かに祭祀せされていたが、明治16年(1883)今の名を附して社殿を建立し、爾来、金神(こんじん)様の愛称で親しまれ、氏子と崇敬者で祀られるようになった。 鉱山、鉱物の神として人間の営みの中で用いられる全ての金属類、昔は鏡や刀剣類の武具、農耕器具としての鋤や鍬等、現代では鉱工業、農産業の大型機械から家庭の道具類や金属類全てに亘り、特に通貨として用いられる金、銀、銅の御金(おかね)を護り給う事から、近年は資産運用の神として証券類や不動産、造作、転宅、方位、厄除け、また旅行中の無事安全をも護り給う大神としてひろく崇められています。 金属類を護り給う神を祀る神社は国内唯一です。 御祭礼は、毎年10月の第一日曜日に氏子の城巽学区民により奉仕される。

誓願寺

誓願寺は京都の中心地、新京極通りのど真ん中にある「浄土宗西山深草派」の総本山です。 創建は、はるか飛鳥時代まで遡り、その長い歴史の変遷の中、「法然上人」「西山国師」「立信上人」と続く浄土門の聖地として…、また深い山間ではなく、「街の中にあるお寺」、「暮らしに密着した信仰の場=念仏道場」として人々に愛され続けてまいりました。 そのためか誓願寺にゆかりの深い歴史上の人物も大変多く、ことに「清少納言」「和泉式部」「松の丸殿」といった女性たちからの深い信仰を集めたため「女人往生の寺」とも称され、そのほかにも落語の祖と呼ばれる「策伝上人」や謡曲「誓願寺(世阿弥作)」に謡われるなど、落語発祥の寺、芸道上達の寺としても広く信仰を集めております。 ◆扇塚の由来 世阿弥作と伝えられる謡曲『誓願寺』は、和泉式部と一遍上人が主な役となって誓願寺の縁起と霊験を物語ります。この謡曲の中で、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることが、能楽をはじめ舞踊など芸能の世界で尊崇され、江戸時代から誓願寺へ参詣するその筋の人が数多くありました。 特に舞踊家が多く、文化・文政・天保(1804~44)のころに京都で活躍した篠塚流の祖・篠塚文三郎(梅扇)は、幸若の系を引く能楽的な色彩と歌舞的な色彩を調和させた優れた芸風を示したといわれ、天保年間には山村舞とともに京阪で大いに流行しましたが、彼ら舞踊家の中に誓願寺の和泉式部信仰がありました。その信仰を、昭和・平成の時代まで伝承した舞踊家がありました。 誓願寺の『扇塚』に、芸道上達を祈願し『扇子』を奉納することには、上のような深い歴史的な意味が秘められているのであります。また、誓願寺第五十五世策伝日快上人(1554~1642)が『醒睡笑』八巻を著作して落語の祖と仰がれておられることも、「扇子」との強い絆を保持するゆえんであります。 ◆誓願寺の創建とご本尊 誓願寺は飛鳥時代に開かれた寺である。天智天皇は常に仏の心を求められ、ある夜の霊夢(※1)により、当時仏師として名を馳せていた賢問子・芥子国父子に丈六(※2)の阿弥陀如来坐像の造立を命じた。二人は別々の部屋で仏の半身を彫っていたが、合体すると寸分違わず合致して見事な仏像ができあがったという。ご本尊の阿弥陀如来の完成とともに仏堂が建立され、天智天皇6年(667)に七堂伽藍が完成、「誓願寺」と名づけられたのである。 ご本尊を父子が制作していたとき、夜になると大勢の人がオノやノミを使う音が聞こえるので部屋の中を見ると、賢問子が地蔵菩薩、芥子国が観音菩薩になり、闇の中で光を放ちながら彫っていたという。これらは春日大明神の本地(※3)であることから、ご本尊は春日大明神が造られたと崇め奉られ、今日に至っている。 ※1  神仏のお告げ  ※2  一丈六尺=4.85メートル ※3  本来のお姿 ◆誓願寺と女人往生 誓願寺では平安時代に、歴史上有名な二人の女性作家が極楽往生している。ひとりは清少納言。当寺で菩提心をおこして尼となり、本堂そばに庵室を結んだ。その後、念仏して往生をとげたのである。 もうひとりは和泉式部。娘に先立たれ、その哀しみから世の無常を感じた式部は、播州の書写山へ高僧・性空上人を訪ねた。ところが、「京都八幡山の大菩薩に祈るべし」と言われ、石清水八幡宮へ参って祈ると夢に老僧が現れて「誓願寺で祈るべし」と告げられたのである。 そこで、当寺に48日間こもって一心に念仏をとなえたところ、今度は霊夢に老尼が現れて「念仏をとなえれば女人の往生は疑いなし」とのお告げがあったという。式部は尼となって庵を結び、ここでめでたく往生した。この庵室が「誠心院」であり、今も新京極に現存している。 ◆謡曲『誓願寺』と扇塚 世阿弥の作と伝えられている謡曲『誓願寺』は、和泉式部と一遍上人が誓願寺の縁起と霊験を物語る。和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから舞踊家の間に和泉式部信仰が生まれ、能楽など芸能の世界の人々の信仰が厚くなった。これが、「扇塚」に芸道上達を祈願して扇子を奉納することにつながっている。 また、当寺の住職であった策伝上人が「落語の祖」と仰がれていることも扇子との絆を象徴している。 ◆落語の祖・策伝上人 誓願寺第五十五世の安楽庵策伝上人(1554~1642)は、戦国時代の僧侶として布教に励むかたわら、文人や茶人としての才にも優れていた。教訓的でオチのある笑い話を千余り集めた著書『醒睡笑』八巻は後世に落語のタネ本となり、策伝上人は「落語の祖」と称されている。当寺では毎年10月初旬の日曜日に「策伝忌」を営み、奉納落語会を開催している。 ◆誓願寺の移り変わり 都が平城から長岡に遷ると誓願寺も移され、平安遷都とともに一条小川に七堂伽藍そのままに再現された。現在地の寺町三条に移ったのは天正19年(1591)、秀吉の命であった。秀吉の側室、松の丸殿(京極竜子)の深い信仰により諸大名の奥方にも勧進され、壮大な堂宇が建立されたのである。『都名所図会』(安永9年刊行)によると、表門は寺町六角、北門は三条通りに面し、6500坪もの境内に塔頭寺院が18カ寺あり、三重塔もみられる。 当寺は合計10度の火災に遭い、焼失と再建を繰り返してきた。明治のころの政治家が芝居小屋や見世物小屋が集まっていた寺町に目をつけ、このあたりに繁華街をつくろうと諸寺の境内地を没収。塀を取り払い、小川を埋め、三条から四条までの新しい街をつくった。これが今の新京極である。 ◆迷子のみちしるべ 現存の石柱は明治15年(1882)に建立された。正面に「迷子みちしるべ」、右側に「教しゆる方」、左側に「さがす方」と彫ってある。 まだ警察のなかった江戸末期~明治中期に迷子が深刻な社会問題となり、各地の社寺や盛り場に石柱が建てられた。迷子や落とし物などをしたとき、この石に紙を貼って情報交換したのである。月下氷人(仲人)役の石ということから、別名「奇縁氷人石」ともいう。

行願寺 (革堂)

正しくは行願寺。天台宗。西国三十三カ所第19番札所。 俗人のころ鹿を射止めた行円が、仏心を起こし、1004年(寛弘1)寺を建立、千手観音像を刻み、安置した。 皮の衣を着たので、皮聖と呼ばれ、寺は革堂と称した。 当初、今の上京区にあったが、移転と焼亡を繰り返し現在地に。 ◆由緒 霊鹿山行願寺と号する天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十九番札所である。 寛弘元年(1004)に行円(ぎょうえん)上人によって、一条小川(上京区)に創建された。子を孕んだ母鹿を射止めてしまったことを悔いた上人が、常にその皮をまとって鹿を憐れみ、人々から皮聖(かわひじり)とも呼ばれていたことから、この寺も革堂と呼ばれるようになったといわれている。 以後、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災火により寺地を転々とし、宝永5年(1708)の大火の後、この地に移された。 現在の本堂は、文化12年(1815)に建てられたもので、堂内には行円上人の作と伝えられる本尊千手観音像を安置している。 境内には、都七福神巡りの一つになっている寿老人神堂をはじめ、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔などがある。また、宝物館には、若い女性の幽霊が描かれている幽霊絵馬が展示されている。