建仁寺

東山(とうざん)と号する臨済宗建仁寺派の大本山である。 建仁2年(1202)、我国の臨済宗の開祖である明菴栄西(みんなんようさい)禅師により創建され、寺名は年号をとってこのように名付けられた。 以後、正嘉2年(1258)に円爾弁円(えんにべんえん)、正元元年(1259)には、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が住んだことで、禅宗寺院として確立し、室町時代には、京都五山の第3位を占めるに至った。 勅使門は、俗に「矢の根(やのね)門」と呼ばれ、切妻造、銅板葺の鎌倉時代後期の唐様建築で、方丈は、銅板葺、単層入母屋造、慶長4年(1599)に、安芸(広島県)の安国寺から移建した室町時代後期の大建築である。 寺宝としては、俵屋宗達(たわらやそうたつ)の代表作、紙本金地著色風神雷神図、海北友松(かいほうゆうしょう)の紙本墨画竹林七賢図など、桃山時代の貴重な屏風絵、水墨画、障壁画を多数蔵している。 また、毎年4月に方丈で行われる「四頭(よつがしら)の礼(れい)」は、禅宗寺院の茶礼の古態を今に伝えている。 ◆由緒 建仁寺は京五山の一つ、京都を代表する禅寺です。東には東山山麓の緑が映え、西に歩けば鴨の流れ…。 祇園の花街の中にあって、一歩境内に踏み入れればそこはまったくの別世界…静寂な空気が漂っています、数々の宝物に包まれた荘厳な佇まいは八百年の歴史と禅のこころを感じさせます。 日本最古の禅宗の本山寺院  建仁寺 臨済宗建仁寺派の大本山。開山は栄西禅師。開基は源頼家。鎌倉時代の建仁二年(1202)の開創で、寺名は当時の年号から名づけられています。山号は東山(とうざん)。諸堂は中国の百丈山を模して建立されました。創建当時は天台・密教・禅の三宗兼学でしたが、第十一世蘭渓遣隆の時から純粋な臨済禅の道場となりました。八百年の時を経て、今も禅の道場として広く人々の心のよりどころとなっています。 ◆方丈(重要文化財) 慶長四年(1599)恵瓊が安芸の安国寺から移建したもので、優美な銅板葺の屋根が印象的な禅宗方丈建築。 本尊は東福門院寄進の十一面観音菩薩像。白砂に緑苔と巨岩を配した「大雄苑」と称される枯山水の前庭は、大らかな味わいがあります。 ◆三門 溝三門(望闕楼・ぼうけつろう)空門・無相門・無作門の三解脱門。「御所を望む楼閣」という意味で「望闘楼」と名づけられました。楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者と十六羅漢が祀られています。 ◆浴室 寛永五年(1628)三江和尚(諱紹益)によって建立されました。七堂伽藍のひとつで、内部は待合、浴室、土間(火炊場)に三分されています。 湯気で体を温める蒸し風呂で、禅寺では入浴も修行の大切な部分として、厳しい作法が細かく定められています。 ◆勅使門(重要文化財) 銅板葺切妻造の四脚門で鎌倉時代後期の遺構を今に伝えています。柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ぱれています。元来、平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものといわれています。 ◆襖絵 桃山画壇の巨匠・海北友松(かいほうゆうしょう)は建仁寺と関係が深く、彼の描いた襖絵「竹林七賢図」「雲竜図」「花鳥図」等が文化財として建仁寺に数多く残されています。 また、「生々流転」「伯楽」「深秋」「松韻」など、大正から昭和にかけて活躍した橋本関雪画伯(1883-1945)の晩年の傑作も目にすることができます。 ◆茶席「東陽坊」 草庵式二帖台目席。天正十五年(1587)に豊臣秀吉が催した北野大茶会で、利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が担当した副席と伝えられています。 二帖台目席で最も規範的な茶室とされ、茶室の西側には当寺の名物「建仁寺垣」が設けられています。 ◆法堂(はっとう) 明和二年(1765)上棟。仏殿兼用の「拈華堂(ねんげどう)」。五間四間・一重・裳階付の堂々とした禅宗様仏殿建築。 正面須弥壇には本尊釈迦如来座像と脇侍迦葉尊者・阿難尊者が祀られています、また、その天井には平成十四年(2002)創建800年を記念して「小泉淳作画伯」筆の双龍が描かれました。 ◆風神雷神図(国宝)俵屋宗達筆 紙本金地著色 本図には落款も印章もありませんが、俵屋宗達の真作として、しかも晩年の最高傑作とされています。 二曲一双の屏風全面に金箔を押し、右双に風神、左双に雷神を描いています。 ◆潮音庭 本坊裏にある潮音庭は、中央に三尊石その東には座禅石、廻りに紅葉を配した枯淡な四方正面の禅庭であります。 石組みは東西の渡り廊下を越え、大きな渦潮の流れを形成し見る者をつつみこんでくれます。 作庭/小堀泰巌老大師 監修/北山安夫 ◆建仁寺の主な年中行事 3月15日/涅槃会=釈尊が涅槃に入られた(亡くなられた)事に対する法要。 4月8日/仏誕生会=釈尊の誕生日の法要「花まつり」。 4月20日/開山降誕会(四頭茶会)=栄西禅師の誕生を祝する法要。禅院の茶礼が催される。 6月5日/開山忌=栄西禅師入寂の忌日に厳修する法会。 7月30日/布薩会(ふさつえ)=戒律を守ることに厳格であった栄西禅師伝来の法会。 8月18日/頼家忌=開基の鎌倉二代将軍・源頼家の忌日法要。 11月5日/達磨忌=中国における禅宗の始祖・菩提達磨尊者の忌日法要。 12月8日/成道会=釈尊が苦行の後、明星を見て大悟された事に因み行う法要。 毎月第2日躍/大衆禅堂開設=本坊で午前8時からの2時間。座禅と法話 禅の心と茶の徳を伝える ◆開山栄西禅師 開山の栄西という名の読み方は、寺伝では「ようさい」といいますが、一般的には「えいさい」と読まれています。字は明庵(みんなん)、号は千光(せんこう)葉上(ようじょう)。栄西禅師は永治元年(1141)、備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として生まれました。14才で落髪、比叡山で天台密教を修め、その後二度の入宋を果たし、日本に禅を伝えました。 また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」としても知られています。

醍醐寺

真言宗醍醐派の総本山である。 貞観16年(874)聖宝(しょうぼう)が、笠取山(上醍醐)に登って如意輪堂(にょいりんどう)、准胝堂(じゅんていどう)、五大堂を建立したのが当寺の起りで、延喜7年(907)醍醐天皇はこの寺を勅願寺とし、下醍醐に伽藍(がらん)を造営し、その興隆をみるにいたった。 4551

御香宮神社

平安期、境内から病気に効く香水がわき出たので清和天皇からこの名を賜ったという。 桃山期の特色ある建築物のうち表門や極彩色彫刻の本殿は重文。 神功皇后ほかを祀り、豊臣秀吉は伏見城の守り神とした。 書院の庭は、小堀遠州ゆかりの石庭。鳥羽伏見の戦いでは薩軍の屯所に。 10月上旬の9日間におこなわれる神幸祭は「伏見祭」といわれ伏見随一の祭。 獅子一対・神輿3基、武者行列のほか、多数の氏子が出仕しての行列がある。 1日目、8日目夕方から趣向をこらした大小の花傘が氏子各町から「アラウンヨイヨイ…」のかけ声で参加し、夜遅くまでにぎわう。

城南宮

平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建され、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)をお祀りする。 平安時代の末、白河上皇によって城南離宮(鳥羽離宮)が造営されると一層崇められ、城南祭では流鏑馬(やぶさめ)や競馬(くらべうま)が行われた。 また、離宮は方違(かたたが)えの宿所や熊野詣での精進所となり、方除の信仰が高まった。承久3年、後鳥羽上皇が城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を集め、承久の乱が起きたことは名高い。 江戸時代以来、城南祭では三基の神輿が氏子地域を渡御、「餅祭り」とも称され大いに賑う。 皇室の崇敬厚く、孝明天皇は攘夷祈願の祭に行幸されて吹散(ふきちり)を賜り、慶応4年正月、城南宮に陣を構えた薩摩藩の大砲が轟き、鳥羽・伏見の戦いが始まり、明治維新を迎えた。 日月星を象った三光の御神紋は神功皇后の旗印に因んで方除の御神徳を表し、建築・転宅・交通・旅行安全の神として信仰が深い。 神苑「楽水苑」は「源氏物語 花の庭」と称され、四季の風情に富む名園として名高く、春秋に「曲水の宴」が雅やかに行われる。 ◆歴史の回り舞台 平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建された城南宮。国土守護の国常立尊、武勇に秀でた八千矛神(大国主命)、安産と育児の神様でもある息長帯比売命(神功皇后)をお祀りしています。 平安時代の末、交通の要衝でもあり、風光明媚なこの地に白河上皇が壮大な離宮(城南離宮、鳥羽離宮)を造営して院政を開始されると、歌会や宴、船遊びや競馬がしばしば行われ、王朝文化が華麗に花開きました。 また熊野詣でに先立ち、道中の安全を祈って城南離宮で身を清めて出発する慣わしとなり、方角の災いを除く方除・旅行安全の信仰が高まりました。 承久三年(1221)には後鳥羽上皇が城南離宮の流鏑馬揃えと称して武士を集めて承久の乱を起こし、慶応四年(1868)正月、城南宮に陣を構えた薩摩藩の大砲が鳴り響き、烏羽・伏見の戦いが始まりました。 平安貴族の世へ、武士の世へ、そして明治維新へ、ここ城南の地は、新しい時代の幕開けを告げる歴史の舞台です。 ◆三光の紋 神功皇后の旗印にちなむ三光の紋は、日と月と星を組み合わせた極めて珍しいこ神紋で、昼夜の隔てなく遍く及ぶ、城南宮の広大なこ神徳を表しています。 平安朝のたたずまい 流れ造りの本殿、変形入母屋造りの前殿、そして左右に伸びる翼廊が一体となった社殿は、城南宮独特の複合建築、総檜造りです。勾配の緩やかな檜皮葺の屋根をはじめ、飾り金具の細部に至るまで平安時代後期の様式に統一され優美な姿を見せています。 本殿の東側、平安の庭に臨んで建つ寝殿造りの神楽殿では、結婚式や特別祈祷を行っています。 ◆城南祭(神幸祭) 平安時代の末から盛大に行われている歴史ある祭礼。正午過ぎより、それぞれ重さ1.5トン近くある三基の豪華な神輿の渡御が始まり、氏子区域を練り歩きます。夕刻、提灯と松明の明かりの中、神社に神輿が還御する様子は壮観です。祭りに訪れた人々に餅を惜しげも無く振舞う慣わしがあり、「餅祭り」は季語になっています。 ◆源氏物語 花の庭 四季の庭を備えた、光源氏の大邸宅「六条院」の理想の姿を実現するべく白河上皇は城南離宮の造営に取り組んだと言われ、大がかりな造築・造園工事が行われ、時折々の景色には言葉に尽せない風情がありました。城南宮の神苑-楽水苑-には「源氏物語」を彩る百種余りの草木が植栽され、四季の情趣を味わっていただけます。 ◆春の山 城南離宮の築山の一つである春の山。春の草木が次々に花咲き、美しく装います。 ◆平安の庭 社殿を背景に広がる池に、段落ちの滝と遣水が注いでいます。秋の七草から紅葉まで、秋の景色は格別です。 ◆室町の庭 池泉廻遊式の庭園で、歩くたびに景色が変わります。紅枝垂れ桜、舟着き場の藤の花、色とりどりの躑躅を楽しむことができます。お茶席「楽水軒」で、お抹茶を味わいおくつろぎください。 ◆桃山の庭 大きな刈り込みの前に芝生が広がる明るい庭園で、安土・桃山時代の豪壮な気風を映しています。 ◆城南離官の庭 杜若の小道に続く枯山水の庭園。城南の地が最も華やかであった離宮時代の風景を表しています。

貴船神社

創建年代不詳。水の供給を司る神「たかおかみのかみ」を祀り、歴朝はじめ現在も農漁業、醸造業者らの信仰が厚い。 社殿は1055年(天喜3)元々の御鎮座地より現在の本宮の遷へ移されたという。 元々の御鎮座地は奥宮としてお祀りされている。古くから「氣生根(きふね)」とも表記され、氣力の生ずる根源の地であると信仰される。御神徳は運気隆昌、諸願成就。 また、平安時代の女流歌人、和泉式部も参詣し、不和となった夫との復縁祈願が成就した逸話があり、えんむすびの神としても若い世代より絶大な崇敬を集めている。 水徳神高おかみの神(たかおかみのかみ)を祀る旧官幣中社で、社名は古くは木船、貴布祢とも書いたが、明治4年(1871)以降「貴船」と改められた。 延喜の制には名神大社となり、二十二社の一つに列せられた。弘仁9年(818)以来歴朝の奉幣、祈願がたびたびあり、もっぱら祈雨、止雨の神として崇められ、祈雨には黒馬、祈晴には白馬または赤馬が献ぜられるのが例であった。 江戸時代には賀茂別雷社(上賀茂神社)の摂社とされたが、明治以後独立した。 本殿、拝殿、権殿(ごんでん)等があり、本殿は文久3年(1863)に改修された。川に沿って上ると奥の宮がある。また、境内には祈雨の行事を行った雨乞の滝、奥宮本殿の西には船石といって船の形に積んだ石墨がある。

三千院

天台宗の門跡寺院で、伝教(でんきょう)大師が比叡山に一宇を建てたのに始まり、その後、近江東坂本・その他に移り、天正年間(1573~1592)この地に移った。 本堂往生極楽院(重要文化財)は、寛和元年(985)の建造と伝え、舟底の天井で名高く、内陣に金色丈六の阿弥陀如来坐像・観音勢至の両脇侍(重要文化財)を安置する。池泉廻遊(ちせんかいゆう)式の庭園有清園は、茶人金森宗和の作庭といい、宸殿の虹の襖絵は下村観山の丈作で、客殿の襖絵は竹内栖鳳(せいほう)等、近世画家五氏の筆である。 ◆由緒 大原の地一帯は、千有余年の昔から魚山と呼ばれ、天台声明(仏教音楽)の修行の地として信仰を集めた所です。 三千院は別名を梶井門跡、梨本門跡、円融院門跡とも呼ばれる天台宗五箇室門跡のひとつであります。 門跡寺院とは、皇子皇族が住職になられた御寺で、当院は宮門跡であります。開基は伝教大師最澄上人(767~822)で、本尊は薬師瑠璃光如来(秘仏)です。 移りゆく自然と歴史のなかで、御参拝の皆様には心安らかなひとときが得られることと存じます。ようこそお参り下さいまして、ありがとうございます。 ◆往生極楽院 平安時代の寛和2年(986)に建立された三千院の源ともいえる簡素な御堂。恵心僧都が父母の菩提のために姉安養尼とともに建立したと伝えられます。御堂内部の、船底天井および壁画は極楽の花園の図を、極彩色で描いております。単層入母屋造柿葺で、阿弥陀如来座像を中心に、向かって右に観世音菩薩、左に勢至菩薩。いずれも正座しています。 それはちょうど、掌をあわせて皆さんをあたたかくお迎えして、「どうぞ私の掌にお乗り下さい。苦しみの世界から楽しみの世界にお連れいたします。」と言っているお姿なのです。 ◆庭園 客殿・見所台からは聚碧園、宸殿からは往生極楽院に通じるところに有清園の庭園がそれぞれみえます。とくに杉木立と苔、紅葉は見事です。 ◆客殿・円融房・宸殿 客殿には鈴木松年、竹内栖鳳など明治の京都画壇を代表する日本画家の襖絵や古文書を観ることができます。また客殿から見所台を通って法話を聞いたり、希望者は写経ができる円融房があります。 宸殿内仏には恵心僧都の阿弥陀如来、救世観音菩薩、不動明王(いずれも重文)をお祀りしております。玉座の間は虹の間とも呼ばれていて、下村観山の筆になるものです。 宸殿は歴代住職、有縁無縁の方のご回向法要を行います。とくに毎年5月30日には、後醍醐法皇から伝承されている御懺法講(声明による法要)を奉修する道場でもあります。 ◆金色不動堂 平成元年に建立されたご祈願の根本道場。堂内には、長い間秘仏であった金色不動明王(智証大師作)を本尊としてお祀りしています。 ◆観音堂 二十五菩薩を中心に、補陀落浄土に模した石庭のかたわらに、身の丈3メートルの観音像が奉祀され、またご縁の方の小観音像がその両側に安置されています。奉安のご希望の方は係員までお申し出下さい。

鞍馬寺

奈良唐招提寺(とうしょうだいじ)の開山鑑真和上(がんじんわじょう)の高弟で、慈悲の権化といわれた鑑禎上人が、宝亀元年(770)正月4日に、白馬(あおうま)が鞍を置いて雲中にあるかのようなたたずまいを、この山容に感じて霊地と定め、さらに毘沙門天を感得してその姿をまつったのがこの寺のはじまりである。 4600

毘沙門堂

護法山出雲寺と号する天台宗の門跡(もんぜき)寺院である。 大宝3年(703)創建と伝え、延暦年間(782~805)伝教大師(でんぎょうたいし)が下出雲路(しもいずもじ)で自ら作った毘沙門天を安置して下出雲路寺と名づけ、天台宗をひろめたので、世人はこれを毘沙門堂と呼んだ。 中世以降、たびかさなる戦乱で荒廃し、天正年間(1573~91)に織田信長の兵乱で堂宇を全焼した。 慶長16年(1611)に天海僧正が後陽成天皇の勅命によって再興をはかり、中途で天海が亡くなったため、その高弟公海が遺志を継いで寛文5年(1665)に再建され、以来、代々法親王が入室されて毘沙門堂門跡と称された。 本堂には伝教大師作の毘沙門天を本尊としてまつっている。 ◆由緒 毘沙門堂は、護法山出雲寺と号する天台宗の門跡寺院である。建久6年(1195)、平親範が平等寺、尊重寺、護法寺を統合して平安京外東北の出雲路に寺院を建立したのに始まる。中世後半には荒廃したが、寛文5年(1665)には公海が現在地を寺地として幕府より賜り、さらに元禄・宝永年間には公弁が寺地の整備を行い、今日のような寺観に整えられた。 本堂は将軍家綱が大檀越となり、また紀伊と尾張の徳川家からは材木が寄進されて、寛文6年に竣工した。全体に漆塗や彩色、彫刻が施されて、豊かな装飾に特色がみられる。本堂の前方に建つ唐門、仁王門は共に本堂と同時期のもので、和様と禅宗様が混合した特徴的な手法で一貫し、日光東照宮の諸建築に通じる雰囲気をもっており、畿内では他に例があまりない。仁王門西方の鐘楼は、様式上17世紀後半のものと考えられる。 これら寺院としての施設に対して、境内の西寄りには宸殿をはじめとする門跡の住居施設が並ぶ。宸殿は、17世紀末の造営になる六間取方丈型平面の建物で、西面に使者の間と玄関が接続する。各室は金碧障壁画(京都市指定・登録有形文化財)で飾られ、なかでも北東隅の帝鑑の間は上段となって背面には2間の床と1間の棚を備え、南の四愛の間を次の間としている。一部改造されているものの、近世門跡宸殿の典型を示すものである。また、この前方に建つ勅使門と薬医門は18世紀初期の造営になる。 毘沙門堂のこれらの一連の建築群は、近世門跡寺院の景観を伝えるものとして貴重であり、昭和60年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。

随心院

真言宗小野流の大本山で、正暦2年(991)弘法大師第8世の法孫仁海(にんがい)僧正の開基であって、もと牛皮山曼荼羅(ぎゅうひざんまんだら)寺といった。 当院は真言宗小野流発祥の地であって、第5世増俊が塔頭に随心院を建立し、第7世親巌の時、後堀河天皇より門跡(もんぜき)の宣旨をうけ、以来、小野曼荼羅寺御殿随心院門跡と称した。 その後、応仁の兵火で炎上したが、慶長4年(1599)九条家から入った第24世増孝が再興し、今日にいたっている。 本堂は再興当時のもので、本尊如意輪観世音菩薩像のほかに、阿弥陀如来像(重要文化財)及び快慶作の金剛さった像等を安置する。 書院は徳川秀忠(ひでただ)夫人天真院尼の寄進である。 この附近は、小野小町の旧跡と伝え、境内には小町文塚、化粧の井戸があり、小町の艷書をはったという地蔵菩薩も安置されている。 なお、境内地は昭和41年6月21日文化財保護法による史跡に指定された。 真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師の八代目の弟子に当たる仁海(にんがい)僧正が正暦2年(991)に創建した。 もとの名は牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひざんまんだらじ)といい、その名は、ある夜、亡き母が牛に生まれ変わっている夢を見た仁海僧正が、その牛を探し求めて世話を尽くしたものの、間もなく死んだため、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描いて本尊としたことに由来する。 その後、第五世増俊(ぞうしゅん)が曼荼羅寺の塔頭(たっちゅう)として隨心院を建立し、第七世親厳の時、後堀河天皇より門跡(もんぜき)の宣旨を受け、門跡寺院となった。 この辺り小野は小野一族が栄えた場所であることから、絶世の美女として名高い小野小町ゆかりの寺としても知られ、境内には小町(こまち)に寄せられた多くの恋文を埋めたという文塚(ふみづか)や、化粧の井戸などが残されている。 梅の美しい寺としても有名で、三月の最終日曜日には、小野小町に恋した深草少将の百夜通(ももよがよ)いの悲恋伝説をテーマにした「はねず踊り」(はねずとは梅花の薄紅色のこと)が披露される。 ◆由緒 当山は、真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師より八代目の弟子にあたる仁海僧正の開基にして、一条天皇の正歴二年(西暦991年)奏請して、この地を賜り一寺を建立されました。 古くは牛皮山曼荼羅寺と称されました。仁海僧正一夜の夢に、亡き母が牛に生まれ変わっていることを見て、その牛を鳥羽のあたりに尋ね求めて、飼養しましたが、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を画き本尊にしたことに因んでいます。 牛尾山は仁海僧正が牛の尾を山上に埋めて、菩堤を弔ったと伝えられています。又、仁海僧正は深く宮中の御帰依を受け、勅命により、神泉苑(京都御池大宮西)に請雨の法を九回も修法し、その度に霊験にあって雨が降ったので、雨僧正とも称されました。 その後、第五世増俊阿闍梨の時に、曼荼羅寺の子房として、隨心院を建立し、ついで第七世親厳大僧正が、寛喜元年(西暦1229年)後堀河天皇より、門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡と称されています。 堂舎も次第に整備され、七堂伽藍は壮美を誇っていましたが、承久應仁の兵乱にあってことごとく灰となってしまいました。 その後、慶長四年(西暦1599年)に本堂が再建され、以後九条二条両宮家より門跡が入山し、両宮家の由緒をもって寄進再建されました。 ◆謡曲「通小町」と随心院 謡曲「通小町」の前段、即ち深草少将が小町の許に百夜通ったという伝説の舞台がここ隨心院である。 その頃小町は現在の隨心院の「小町化粧の井」付近に住んでいた。 積る思いを胸に秘めて訪ねて来た少将であったが、小町は冷めたかった。 少将は「あなたの心が解けるまで幾夜でも参ります。今日は第一夜です」と、その標(しるし)に門前の“榧(かや)の木”の実を出した。 通いつめた九十九夜-その日は雪の夜であった。門前にたどり着いた少将は疲れ切って九十九個目の“榧の木”を手にしたまま倒れ再起出来なかった。という。 隨心院の境内には思い出の「文張地蔵尊」「文塚」があり、道筋には榧の大木”がある。 ◆小町の史蹟 一.卒塔婆小町坐像 恵心僧都 作 小町晩年の姿を写したと言われる坐像 二.文張地蔵尊像 伝小野小町 作 小町に寄せられた文を下張りにしていると言われる地蔵尊像 三.極彩色 梅匂小町絵図 グラフィックアートユニットだるま商店奉納作品。 生誕地から当地に至るまでの、小町の一生を描いたもの。 四.小町榧 深草少将の百夜通いに登場する、小町が捲いたとされる榧の実。イチイ科。 五.文塚 深草少将をはじめ当時の貴公子たちから小町に寄せられた千束の文を埋めた塚と伝えられている。 六.化粧井戸 小野小町の屋敷跡に残る井戸で、小町が朝夕この水で粧をこらしたと、「都名所図絵」に記されている。

高山寺

栂尾(とがのを)山と号する真言宗の寺である。 寺伝によれば、宝亀5年(774)光仁天皇の勅願によって開創され、当初、神願寺都賀尾(とがを)坊と称したが、建永元年(1206)後鳥羽上皇の院宣によって、明恵(みょうえ)上人が華厳宗復興の道場として再興し、寺名を高山寺と改めたと伝えられている。 広い境内(史跡)には、石水院(国宝)、開山堂、金堂などが建ち並び、中でも石水院は、鎌倉時代初期の寝殿風住宅建築で、後鳥羽院の賀茂別院を移築したものといわれている。 寺宝としては、鳥羽僧正筆の鳥獣人物戯画(国宝)をはじめ、数多くの貴重な文化財を蔵している。 また、境内の茶園は、鎌倉時代初期に明恵上人が栄西禅師から贈られた茶種を植えたところで、ここから全国に茶が普及したといわれている。 この由緒から、毎年11月8日には、宇治の茶の製造業者から新茶が上人廟前に献上される。 ◆由緒 後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺」で知られる当山は、774年(宝亀5年)光仁天皇の勅願によって開創され、神願寺都賀尾坊といったが、814年(嵯峨天皇の弘仁5年)、栂尾十無尽と改称された。 その後、876年(貞観18年)には後の十三台天台座主となり、天神縁起絵巻で菅公の怨霊を鎮めたといわれる法性房尊意僧正が、11才より4年間当山で修行し、大いに法力を得たと伝えられている。 鎌倉時代、明恵上人(成弁、後に高弁と改名)が出て、後鳥羽上皇・近衛・鷹司・西園寺家等の帰依により堂坊を復興し中興開山した。 明恵上人は、後鳥羽上皇の院宣によって南都東大寺の華厳を根本とし戒密禅を兼ねた寺とし、1206年に勅額「日出先照高山之寺」を賜ったので、寺号を「高山寺」と改称した。 その後、当山は仏道実践の霊域として護持され、いつの時代も上下の崇信を受け、特に藤原氏一門には、氏神鎮守社春日明神とならび氏寺のごとく保護された。 室町末期の戦乱にまきこまれて堂坊の多くを焼失したが、江戸時代になり、1636年(寛永13年)永弁・秀融上人が堂坊の再興にあたり旧観をやや回復した。 明治維新後、寺運の衰えたこともあったが、昭和6年、明恵上人七百年遠忌記念として、茶祖上人の茶恩に報い、その遺香を後世に伝えるため全国の茶道家の懇志を集めて茶室遺香庵が建てられた。 また、昭和34年には、国宝や重要文化財、史学上の文献等の永久保存のために収蔵庫が建設され、昭和36年には、菩提心の勧発の拠り所として、開山堂横に聖観世音菩薩像が安置された。 昭和56年の750年遠忌には、春日明神社が篤志家により金堂横に復興された。 ◆明恵上人 紀州有田郡吉原に生まれ、父は平重国で高倉院の武者所、母は豪族湯浅権守藤原宗重の四女である。八才の時母は病死し、父も頼朝との戦いで戦死して孤児となり、九才の時文覚上人及び叔父上覚上人を頼って高尾山神護寺に入り、仏道修業に努め、 さらに東大寺や建仁寺にも学び、華厳、真言、禅等の奥義を体得し、東大寺において学頭として華厳学を講じられたこともあった。上人は限られた宗派や教説にとらわれることなく、ひたすら本師釈迦牟尼世尊に随順し、その教えのままに生き、清純無私な無我の行者、真の仏弟子として生涯を貫かれたのである。 世俗面においても、上人は北条泰時に政治の肝要として無欲を教え、承久の乱の公家方未亡人に、善妙尼寺を造って教化救済をされた。建礼門院が上人によって受戒されたことなどは有名である。 遺訓に「阿留辺幾夜宇和」(あるべきようわ)の七字があるが、これは人間日常の簡短にして深奥なる教えである。 ◆石水院 国宝。明恵上人が後鳥羽院より学問所として賜った建物で、上人時代の唯一の遺構である。 金堂の東の位置にあったものを、明治二十二年現在地に移した。簡素な中に優雅さを保ち、きわめて機能的な構造をもっており、生活の知恵の結晶ともいえる住宅建築の傑作である。 「阿留辺幾夜宇和」の厳しくも合理的な精神が今もなおうかがわれる。 南面長押の上の後鳥羽院の勅額「日出先照高山之寺」、西面に鉄斎の額「石水院」が掛けてある。