本門法華宗の大本山で、卯木山と号し、日像上人(にちぞうしょうにん)を開基とする。 永仁3年(1295)に、柳屋仲興道妙蓮が日像上人に帰依して、西洞院五条の邸を寺に改め、柳寺と称したのが当寺のはじめで、永享(えいきょう)年間(1429~1440)に、日存、日動、日隆、日慶らが、大宮通四条下るに伽藍を移築造営し、妙蓮寺と改めた。 その後、たびたび寺地をかえ、天正15年(1587)豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい)造営のとき、いまの地に移った。 現在の建物は、天明の大火(1787)後の再建である。 玄関、奥書院の襖絵は、長谷川等伯(とうはく)一派の筆といわれる濃彩の金碧(こんぺき)画で、庭内の奇石とともに秀吉が寄進したものと伝える。 なお、寺宝には、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の筆になる立正安国論(りっしょうあんこくろん)(重要文化財)などがある。 ◆由緒 大本山妙連寺は、宗祖日蓮大聖人より帝都弘通宗義天奏の遺命を受けた日像聖人によって、永仁2年(1294)に創建され㍍日像聖人が遺命を果たすため鎌倉より京都へ上られた時、五条西洞院の柳酒屋は深く聖人に帰依し、未亡人は邸内に一字を建立して聖人を請じ、卯木山妙法蓬華寺と称した。これが妙蓮寺の縁起である。(柳の文字を二つに分けて卯木山という。) その後、たびたびの法難にあい衰退していたが、応永年間(1420年頃)本迹勝劣、本迹一致の論争を契機に妙顕寺を退出した日慶聖人によって柳屋の地に本門八品門流として再興される。その後、寺域を堀川四条に移し、皇室ならびに伏見宮家と関係深い日応僧正を迎えるにおよび、皇族始め足利将軍義尚等の参詣多く、また今出川家の公達日忠聖人は、三井寺より改宗して当寺に投じて学室道輪寺を創立し、本化教学の道場を開く。ここにおいて当寺の法運は隆昌を極め、山門の様式も格式高いものとなった。 天文5年(1536)には、法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗を筆頭に諸宗の僧俗10万人によって襲撃され、妙蓮寺をはじめとする日蓮大聖人門下21本山は、ことごとく灰燵に帰し堺に立ち退いた。 天文11年(1542)大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)には、豊臣秀吉の聚楽第造営に際して現在地に移転した。当時は、1k㎡の境内に塔頭27ヶ院を有する大寺院であったが、天明8年(1788)の大火によって、そのほとんどが焼失し、わずかに宝蔵・鐘楼を残すのみとなった。寛政元年より漸次復興して、現在に至り、塔頭8ヶ院を有す。 ◆鐘楼 元和3年(1617)の建立全国的にも数少ない本格的な袴腰型鐘楼で、日本建築史上、江戸時代を代表する貴重な建造物である。 ◆大本山 妙蓮寺 山門 文政元年(1818)に、禁裏より拝領し建立する。両袖番所付山門は、希にみる格調の高い雄姿を誇る。 ◆妙蓮寺蔵松尾一切経 平成5年(1993)夏、妙蓮寺土蔵から松尾一切経が発見された。松尾一切経は、永久3年(1115)頃より、松尾神社の神主秦宿祢親任、その子秦宿祢頼親が願主となり、康治2年(1143)に完成された。安政4年(1857)に妙蓮寺の熱心な檀徒嶋田弥三郎義忠の寄進により妙蓮寺の寺宝となる。平成9年(1997)経櫃とともに三千余巻が重要文化財に指定された。 ◆立正安国論(重文) この立正安国論は、始聞仏乗義(重文)と共に、日源聖人65年(1619)に本阿弥光悦が書写したものである。日蓮大聖人の立正安国論の主旨は、幕府に法華経の精神求すると共に、国民に正しい教えによる世界平和実現の道を説くものとして名高い。 ◆十六羅漢石庭 桂離宮の造園を指図した妙連寺の僧、玉淵坊日首の作であきな青石は、臥牛石といい、秀吉公によって伏見城より移された名石である。 この庭は、火災による損傷が激しかったが、近時に至って造園当時の姿に復元された。 ◆妙蓮寺椿の図 海北友松筆 ■妙蓮寺椿=室町時代、連歌師として有名な宗祇(1421~1502)が、妙蓮寺椿の一枚を写生し、その上に “余の花はみな末寺なり妙蓮寺" と賛した掛軸の写しが、妙蓮寺記なるものに載せられている。 宗祇の在京時代は、妙蓬寺が皇室と関係深い日応僧正を迎えて隆盛を極めた時代と一致し、即ち妙蓮寺椿の名称は、この時よりすでに存在し、500年以上の歴史をもつものである。 ◆法華経(重文) 伏見天皇が、御父後深草天皇の崩御に際し、御父君の遺書(御消息171)の背面に法華経八巻を書写されたものである。 伏見天皇は、とくに和歌、書道に秀でられ、その書風は伏見院流として名高い。 これを納めてある箱は、中国伝来の沈金蒔絵の逸品で、重文である。 ◆十六羅漢石庭 桂離宮の造庭した妙蓮寺の僧玉淵坊日首の作で、白河砂に十六の石を配置し、北山杉を植え込んだ庭園である。 近年になって修復されているが、中央の大きな青石は、豊臣秀吉より賜わったものと伝え、牛が伏せている姿に似ているため、臥牛石といい、「宝命牛玉」という版木が残っていることから、祝儀の時に愛でられたものであろう。 白砂は、宇宙を表し、十六の石は、苦悩する大衆の中から立ち上がって世界を救済すると妙法蓮華経に予言された地涌の菩薩(大地から涌現する菩薩)を表現している。 宇宙大法真理(仏)と個人の小宇宙(仏性)と交響することを感応道交というが、白砂の波は、その交響する波動を表現している。 しかし、仏教庭園は、庭園そのものが宗教であり、観る側に自由な感応を呼びさますものであるので、説明にとらわれる必要はない。
Tag: 寺院
瑞春院 (雁の寺)
清浄華院
浄華院ともいう。浄土宗四大本山の一つ。 法然上人二十五霊場の二十三番札所。貞観2年(860)清和天皇の勅願によって禁裏内道場として創建され、後白河法皇が受戒のとき本院を宿所としたことから浄土宗に転じたと伝えられる。 もと土御門内裏(つちみかどだいり)の付近(元浄花院(もとじょうかいん)町)にあったが、天正13年(1585)豊臣秀吉によってこの地に移された。その後も再三火災にあい現堂舎は明治44年の再建である。 本堂(御影堂)には本尊法然上人を安置する。不動堂には不動明王画像を安置するが、むかし、僧証空が師の臨終に際し身代りになろうとしたところ、日夜信仰する不動明王が証空の身代りになろうといわれて師の病難を救ったという霊験談があり、世に「身代り不動」と呼ばれて有名である。 その物語を記した「泣不動縁起(証空絵詞)」(重要文化財、室町初期)を寺宝として所蔵している。 なお河原町通にまで続く墓地には戦国時代以来の名士の墓が多い。
上品蓮台寺
蓮華金宝山九品三昧院と号する真言宗智山派の寺である。 寺伝によれば、当寺は、聖徳太子の創建と伝え、当初香隆寺(こうりゅうじ)と称したが、天徳4年(960)宇多法皇の勅願により、寛空僧正(かんくうそうじょう)が再建し、寺号を上品蓮台寺と改めたといわれている。 当時は、広大な寺域に伽藍(がらん)が建ち並び壮大なものであったが、応仁の兵火により悉く焼失した。文禄年間(1592~96)性盛上人(しょうせいしょうにん)が復興し、当寺の外に十二の支院を建立したので、俗に十二坊の名で呼ばれるようになった。 しかし、現在支院は三院を残すのみである。 本堂には、村上天皇より賜った上品蓮台寺の勅額を掲げ、内部には、本尊延命地蔵菩薩像を安置している。 寺宝としては、著色絵因果経(国宝)、著色文殊菩薩画像、著色六地蔵画像(ともに重要文化財)など、多くの文化財を蔵している。
黄梅院
大徳寺塔頭。永禄五年(1562)織田信長父・信秀の追善供養のために信長の創建、「黄梅庵」と名づけた。 下って天正14年(1586)、豊臣秀吉、小早川隆景に依って本堂、庫裏、唐門等諸堂の改築がなされて、「黄梅院」と改め塔頭の一つとなる。 それぞれ国の重要文化財に指定されている。 障壁画(雲谷等顔、等益筆 重文)や武野紹鴎の茶席「昨夢軒」や千利休の作庭した「直中庭」等、室町時代の遺構を今に伝えられてきていて興味深い。 ◆由緒 当院は臨済宗大徳寺派大本山の塔頭のひとつである。「黄梅院」とは、お釈迦様から代を重ねて32代目・弘忍大満禅師のゆかりの地である中国の黄梅県破頭山東禅寺に由来し名付けられた。 永禄5年(1562)織田信長公が28歳のとき羽柴秀吉を伴い初めて入洛すると信長公は秀吉を京都所司代に任じ、併せて父・信秀の追善菩提のために普請を命じ小庵を建立させた。この小庵は大徳寺98世住持・春林和尚を開祖に迎え「黄梅庵」と名付けられた。これが当院の始まりである。 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変により信長公が急逝すると、同年10月15日密葬され、その後、秀吉は「黄梅庵」に築を加える。しかし主君の塔所としては小なりとし、信長公の法名・総見院殿より総見の名を採り山内に別に「総見院」を建立し、お祀りした。当院は築を新たにし、天正14年5月秀吉によって本堂と唐門が改装され、天正17年(1589)鐘楼・客殿・庫裏等を小早川隆景普請奉行のもとに改築落慶し、この年「庵」を「院」にあらためています。 ◆直中庭 利休66才の時に作られたものである。秀吉公の希望による軍旗瓢箪をかたどった池を手前にし、大徳寺2世徹翁和尚が比叡山より持ち帰ったと伝える不動三尊石を正面に、加藤清正伝承の朝鮮灯篭を左に配した苔一面の池泉式枯山水庭園である。 ◆破頭庭 本堂前庭に位置する。半分手前を白川砂で半分向いを桂石で区切り苔を配し観音・勢至の二石でまとめられた簡素な庭で天正年間に作庭されている。 ◆庫裡(重要文化財) 切妻造板葺で、火番寮・典座寮・納所寮・知客寮・旦過寮とそれぞれの寮舎になっており、禅宗寺院の生活様式をそのまま現代によく伝えている。小早川隆景の寄進によって天正17年4月に完成。日本に現存する禅宗寺院の庫裡として最古のものである。庫裡は火を扱う所であり、火災を起こしやすいため古式の庫裡は残存しにくい。故に現存している遺構として貴重である。昭和60年12月解体修理が施された。 ◆本堂(重要文化財) 禅宗特有の様式がよく表された本瓦葺入母屋造である。内部は室中と仏間を中心に檀那の間・礼の間・大書院の間に分かれている。天正14年5月に秀吉公の援助により落慶している。昭和52年、400年ぶりの全面解体工事がなされた。 ◆唐門(重要文化財) 建立は本堂と同じ年に完成されている。 ◆表門 天正17年完工され、庫裡の造営と同じく小早川隆景によって寄進されている。なだらかな兜型の門である。平成17年、修理を施された。 ◆鐘楼 鐘は1592年加藤清正によって寄進されたもので朝鮮伝来のものと伝う。現存の鐘楼は益田玄播守によって建立された。獅子頭の彫刻が施されている。平成17年、修理を施された。 ◆書院自体軒 大徳寺開山大燈国師の遺墨「自休」を扁額に懸けて軒名とした、千利休の茶道の師である武野紹鴎作の作夢軒という茶室がある。平成23年、修理を施された。作夢軒の席は貴人床になっていて、書院自休軒の中に組み込まれているところから囲え込み式と言われている。 ◆襖絵 桃山時代のもので重要文化財に指定されているが、現在の襖絵は複製になっている。本堂の中には雲谷等顔の水墨壁画が収められている。室中には竹林七賢図・檀那の間に西湖図・礼の間に芦雁図等四十四面となっている。 ◆作仏庭 本堂北裏側に位置し北東に枯山水の滝を表す立石を配し、本堂前の破頭庭へと連なった作りである。生々流転を表したものか。
立本寺
日蓮宗本山。1321年(元亨元)日像が京都最初の道場として四条大宮に開いた妙顕寺龍華院を始まりとする。 1413年(応永20)比叡山の衆徒に破却されるが立本寺として再興、その後後水尾天皇のより「園林堂(客殿)」を賜る程の名刹となった。以後何度か場所を変えるが、宝永の大火(1708年・宝永5)で類焼した後、現在地に移った。広大な境内を有し、明治維新前は20に及ぶ塔頭を擁し、現在でも4ヶ寺の塔頭が残る。本尊は十界曼陀羅。 本堂・刹堂(鬼子母神堂)・客殿(園林堂)・鐘楼・山門(総門)は京都市指定有形文化財。 西から南へ広がる庭園は1850年(嘉永3)頃に造営されたもので、京都市の指定名勝になっている。 境内墓地には吉野太夫を見受けした灰屋紹益や石田三成の軍師、島左近らの墓がある。 安産・子育て守護で有名な子安鬼子母神のご開帳は毎月8日2時より。また毎年4月8日には花まつり、11月8日にはお会式の法要がある。 本堂の日蓮上人座像には兜の御影の伝説が、刹堂に祀られる日審上人には幽霊子育て飴の伝説が伝えられている。 京都国立博に寄託の法華経宝塔曼荼羅の完全レプリカを客殿で常設展示。 ◆由緒 立本寺(りゅうほんじ)は日蓮宗の本山で、具足山(ぐそくざん)と号する。創建については二説あって定かでないが、中世には寺地を転々とし、さらに宝永5年(1708)の大火で本堂以下を焼失したのちに今出川寺町より現在地へ移転してきた。 本堂は、現在地へ移ってからもすぐには再建されず、上棟したのは寛保3年(1743)であった。平面は、近世における日蓮宗七間堂の典型的な構成であるのに対して、立面構成では全体に装飾が多く、また変化に富んだ空間構成となっている点に時代的特徴がみられる。 刹堂(せつどう)は、日蓮宗の守護神である鬼子母神(きしぼじん)と十羅刹女(じゅうらせつにょ)を本尊とし、鬼子母神堂とも呼ばれる。享保4年(1719)に再建されたが、天明3年(1783)に再び焼失し、その後文化8年(1811)に再建されたのが現在の建物である。小規模ながら、日蓮宗本堂の平面構成を踏襲した本格的なつくりである。 客殿は、享保十三年に上棟され、六間取(むまどり)方丈形式の平面を基本とするが、仏間が背面に張り出されている。こうした例は、日蓮宗客殿においては早い方に属する。 当寺にはこのほか、鐘楼(寛文年中・1661~1673)、表門(安永7年・1778)も残り、近世中期における日蓮宗本山の寺観をよく伝えている。
龍源院
本院は大徳寺南派の本庵で、文亀2年(1502)大燈国師八世の法孫東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登(石川県)守護畠山義元が創建したものである。 方丈・唐門・表門はいずれも創建当初の建物で、大徳寺山内最古の建物であり、禅宗方丈の典型的な形式を示している。 本尊釈迦如来像は建長2年(1250)行心の作、以上いずれも重要文化財に指定されている。 そのほか、方丈襖絵に室町時代等春筆「列仙の図」がある。庭園は各様式からなり、特に方丈北庭は室町時代相阿弥(そあみ)作と伝えられる須弥山式(しゅみせんしき)枯山水の名園、方丈東庭は珍しい壺石庭(つぼせきてい)で有名。また、方丈前庭にはもと大宮御所にあった桃山型石燈籠があり、さらに聚楽第の礎石を配した阿・吽(あ・うん)の石庭等もある。 寺宝には、他に豊臣秀吉、徳川家康が対局した四方蒔絵の碁盤、天正11年(1583)在銘の種子島銃などがある。 龍源院の方丈北庭は青苔の中に点在する石組が印象的。方丈南庭は白砂と石組の枯山水。 方丈の東には、5個の石のみで構成された簡素な壷庭「東滴壷」。
常林寺
光明山摂取院常林寺と号する浄土宗の寺院である。 天正元年(1573)、念仏専修僧、魯道(ろどう)によって開創され、当初は、寺町荒神口(上京区)に建てられていた。 創建時より、知恩院とゆかりが深く、本末制度が確立したときには、総本山知恩院の役番としての地位を占めていた。 しかし、寛文11年(1671)には、寺町の大火により類焼し、堂宇を悉く焼失した。 その後、現在の地に移転し、元禄11年(1698)、英誉(えいよ)によって本堂が再建された。 また、幕末の頃当寺は、勝海舟が宿坊として利用していたといわれている。 本堂には、本尊の阿弥陀三尊像が安置され、地蔵堂には、古くから若狭街道を往来する人々の信仰を集めたといわれる世継子育(よつぎこそだて)地蔵尊が祀られている。 また、当寺は、通称、「萩(はぎ)の寺」の名で人々に親しまれており、初秋には、紅白の萩の花が、境内一面に咲き乱れる。 なお、毎年9月の敬老の日には、「萩供養(はぎくよう)」が催される。
地蔵院 (椿寺)
正しくは昆陽山地蔵院といい、浄土宗の寺である。神亀3年(726)に、行基菩薩が聖武天皇の勅願によって摂津国の昆陽野池のほとりに建立した地蔵院が始まりという。 その後、平安時代に衣笠山麓に移され、室町時代初期に戦災で焼失したが、足利義満が金閣寺建立の余財で再建し、天正17年(1589)に豊臣秀吉の命によって現在地に移った。 地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、行基作の当初からのものと伝え、また、堂背後の板扉はもと北野神社にあった多宝塔の遺構とされる。 書院の前庭には、かつて、有名な「散り椿」(文禄の役(ぶんろくのえき)(秀吉の朝鮮侵略)の際に加藤清正が朝鮮蔚山城(うるざんじょう)から持ち帰って秀吉に献上し、さらに北野大茶会のときに当寺に献木されたもの)があったが、惜しくも枯死し、現在は樹齢約百年の二世椿が花を咲かせている。 境内には、忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛(あまのやりへえ)の墓といわれるものや、与謝蕪村(よさのぶそん)の師にあたる夜半亭巴人(やはんていはじん)の墓などもある。
正伝寺
鎌倉時代、東巌慧安禅師が一条今出川に仏殿を構え、1282年(弘安5)今の地に移った。 本堂(重文)は承応2年(1652)に伏見城御成御殿を移建。内部の襖絵は狩野山楽筆。 廊下に血天井がある。 小堀遠州の作と伝える庭園は、江戸初期の枯山水。臨済宗。 ◆由緒 洛北西賀茂の正伝寺は鎌倉時代我国に来朝された宋の兀菴普寧禅師の法をつがれた東巌慧安禅師が創立せられたのであリます。 弘安5年に加茂の祠官森経久が西加茂の地に荘園を寄附して諸堂伽藍を造営して壮観を極めたと伝えられています。 爾来皇室の御信仰厚く五穀豊穣国家安泰を祈願する道場とされ、今日まで法燈700年余の歴史が続けられております。 ◆方丈(重要文化財) 伏見桃山城にあった遺構で御成殿と称せられていました、承応2年当山に移建して本堂としたものであります。 ◆襖絵 狩野山楽筆(重要文化財) 方丈の襖絵は淡彩山水図で中国杭州西湖の真景であります。この障壁画は山楽の数少ない作品の内の傑作として美術史上特筆するもので、彼の格調高き風趣を偲ふに足るものがあります。 ◆血天井 桃山城遺構 方丈の広縁の天井は関ヶ原の戦の直前伏見城に立籠った徳川方の重鎮鳥居彦エ門元忠以下千二百余名がその落城の際割腹し果てた廊下の板を天井としたものであります。今尚板上に残るおびただしい血痕は当時の悲惨な武士道を物語っています。 景近血液学の権威として知られている古畑種基博士の研究によって、368年以前の人間の血液であると云い伝えているこの斑点より反応のある科学的証明をされました。今日菩提追善の念を新たにするものであります。 ◆獅子の児渡し庭園 小堀遠州 白砂敷平庭でつゝじの刈込によって七五三調を表現した枯山水ではるかに比叡の霊峰を取り入れた借景式の庭園で、その枯淡な風格は禅苑の心のしずけさを味わしめるものがあります。